「宣伝・広告」と「放送」媒体の必然

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 ラジオが「ナマ放送」であることの「臨場感」を大事にしていたこと。そしてそのような初期のラジオの媒体としての自覚が、すでに巷に出回っていたレコードを放送に乗せることをどうやら忌避していたらしいこと。

 その一方で、ラジオは「家庭」というたてつけの輪郭をくっきりと示してゆく役割も果していたこと。それは同時に、「家庭」の外側にすでに拡がってきていた、当時の新しい「街頭」「路上」の「喧噪」をそのまま「家庭」の日常に持ち込むことを忌避する意識につながり、勢いそれら「街頭」「路上」的な「喧噪」をよくあらわし、敏感に反映する「うた」への距離感、特にその「ナマ」の上演の〈リアル〉とそのあやうさについて警戒する性質を持っていたこと。つまり、「臨場感」という武器の自覚が、同時に否応なく向わざるを得ない〈いま・ここ〉の〈リアル〉に対して、制御すべき対象としての認識を同時に持たせるようになっていたらしいこと。

 だから、初期のラジオは「ナマ放送」の「臨場感」へ自ら忠誠を誓えば誓うほど、「街頭」「路上」の「喧噪」の〈リアル〉を当時すでに規定するようになり始めていたレコードを、とりわけそれを誘い出す「うた」を忌避するようにもなっていたらしいこと。初期のラジオ放送に許されていた「うた」とは、その歌詞や音楽としてのあり方にフィルターがかけられていて、と同時に、それが制御された「ナマ放送」の装いを持つことも要求されていたこと。そんなこんなで、レコードにあらかじめ録音された音声、殊に「うた」の上演のあやしさを濃厚に伴うような音楽・楽曲は、初期のラジオ「放送」からは慎重に排除されるものになっていたらしいこと。

 ……とまあ、このようにラジオと「臨場感」、〈いま・ここ〉の関係について、この場であれこれ考えてきたことをざっとおさらいしてみた上で、先に進みましょう。

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 ラジオが日本放送協会に統合され、本格的に全国区のマス・メディアになった頃、放送の三大使命として、以下の三つが意識されていたようです。

一、 慰安機関としての使命……娯楽に関する放送
二、 報道機関としての使命……ニュース、経済市況、天気予報等に関する放送
三、 教養機関としての使命……教育、修養等に関する放送
(中山竜次「ラジオを語る」昭和8年。)

 本邦のラジオ番組には当時、この三つに加えてもうひとつ、「子どもの時間」という柱が立てられていました。これはその後、戦後になって「婦人・家庭向け」の番組がよりはっきり自覚的に作られるようになっていった流れにつながってゆきますが、ラジオがまさに〈おんな・こども〉を意識して「家庭」に合焦していた媒体であったことが改めてよくわかります。

 と同時に、これはそれと矛盾するようですが、「放送」事業の相手方、聴取者として想定されていたのは、当時改めて前景化されてきていた形象である、あのとりとめない「大衆」でもありました。それは「国民」という色合いも加味されながら、新聞などの既存の「大衆」媒体と異なる同時性、臨場性といった特性を介した飛び道具としてのラジオが相手どるべき主な対象として、確かに意識されていたようです。

 「大衆とはすなわち、隣近所に住む、特定の見知り越しの人たちよりも、同じ大新聞を読んでいる、顔を合わせたこともない不特定多数の人たちに連帯感を抱くような人間の心の部分の集合のことである。」(堀切直人「教科書と新聞が大衆を生産する」『読書の死と再生』所収、青弓社、1999年)

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 生身の主体としては半径身の丈の、まさに日常生活の場に依拠しながら、しかし意識や感覚はそれら〈いま・ここ〉から乖離した水準にうっかりと誘い出されるようになっている、そのような新たな「大衆」を相手に想定しながら、しかし同時に「家庭」という具体的な聴取の場も意識している――このあたり、ラジオより先にマス・メディアとして君臨するようになっていた新聞と比べてみると、「放送」媒体の特性は明らかです。新聞の場合はそこに活字を介した書き言葉の均質化が伴い、それがそれまで歴史・文化的な連続性の裡に存在してきた話し言葉の共同性を、半ば暴力的に上書きしてゆくような効果をもたらしてきていたのに対して、ラジオの場合は話し言葉の均質化を推進していったわけですが、しかし、ここでもまた、新聞と異なる音声媒体ゆえの自由闊達を留保することにならざるを得なかった。なぜなら、ラジオが伝え、流してゆく音声とは、ことばだけではなかったからです。先の堀切直人の卓抜な言い方に倣えば、「同じ放送を聞いている、顔を合わせたこともない不特定多数の人たちに連帯感を抱く」ことが、必ずしもことばを介した部分だけでなく、それこそ音楽やさまざまな「実況」音声なども含めた〈それ以外〉の音声のありかたにも規定されざるを得ない、そういう「放送」媒体としての特性が、良くも悪くも新聞など活字媒体と違う影響力をうっかり持つようになっていった理由のひとつだと思います。

 ラジオという新しい媒体が、具体的な「もの」として日常生活に入り込んでゆき、そこから聞き慣れぬ音声が流れ出すようになる。ごく初期のラジオはレシーバー、今でいうヘッドフォンを介して聴くものだったのが、じきにスピーカーがついたものになりましたが、そのような仕組みの機械はすでに蓄音器が登場してはいましたから、人により、また家庭によってはそのような音声体験にある程度慣れていたかもしれません。とは言え、それもまだ一部のこと。それまで日常生活に流れていたような音声、人間であれ生きものであれ、あるいは自然音であれ、いずれそのような〈いま・ここ〉に確かにある「ナマ」の音声でなく、ラジオという眼前の機械を介して流れてくる、しかもあらかじめ機械によって変形された新しい種類の音声。その流す音声をスタジオで話す側にしても、あたかも不特定多数に向って演説する気分で、大きな声でしゃべることが課せられていたのは、初期のマイクロフォンの性能が芳しくなかったせいもあるにせよ、それ以上に話す側の気分として、多くの聴衆に向って話すという気分の前提が強かったから、とも言えます。

 ラジオの前の「個」に対して個別に話しかけ、ささやくような話し方が出現するのは戦後、深夜ラジオのDJあたりから。その頃には、電話の普及とそれに伴う体験の一般化なども背景にはあったかもしれません。いずれにせよ、「放送」というたてつけで流される話し言葉の音声そのものからして、慎重に制御しないことには「家庭」の平穏を乱すと考えられていたのに、まして音楽などはもってのほか。レコードによる音楽を放送で流すことを、当時のラジオ自ら禁じていた気分には、そのような要素もあったはずです。

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 ならばその一方、「家庭」から遠ざけられるよう求められた、当時の「街頭」「路上」の「喧噪」とはどのようなものだったのか。

 ひとくちに言うならそれは、「盛り場」的賑わいであり、当時新たな様相を呈し始めていた「都市」的な「モダン」のありようでした。ラジオが「臨場感」を素直に売りにするならば、そのような賑わいもそのまま電波に乗せても構わなかったはずですが、しかし、それは「家庭」にそのまま流し込んでいいものではない、という縛りが同時にかかっていた。マイクその他の機器の条件が許すようになって始まることになるスタジオ外に「ナマ」の音源を求める「実況」放送も、そして同じようにラジオ独自の新たな表現形態として試みられていった「ラジオドラマ」や「座談会」といった形式も、そのようなダブルバインドを意識しながら、許容される「街頭」「路上」の「喧噪」を、ラジオという媒体による「放送」の枠内で拡張してゆく試みだったと言えます。

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 同時にまた、その頃の「盛り場」的賑わいには、もうひとつ別の要素もすでに浸透し始めていた。いわゆる「宣伝・広告」です。音声であれ視覚的情報であれ、それら「宣伝・広告」を目的とした新たな情報のありかたが、それまでの盛り場と異なる様相を現前化させる原動力になり始めていました。それは当時のもの言いで言えば「尖端」であり、まさに「モダン」相の〈いま・ここ〉でしたが、もちろんラジオの想定した「臨場性」は、それをそのまま電波に乗せて「家庭」にまで届けることにも当然、慎重に敷居を立てていました。

 「今や資本主義が末期に近づいて、高速度をもって没落への過程を急ぎつつあると同時に、資本主義の愛児である近代的都市が爛熟し、その中から生れた近代的都市文学が糜爛して、ヂャッズ的レヴュウ的形態に向って突進しつつあるのだ。」(大宅壮一近代文学の都会性」1929年)

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 もちろん、そのような当時の「街頭」「路上」の「喧噪」の〈リアル〉を編制していた要素のひとつとして、まごうかたなくラジオもまた、その「臨場性」と共にありました。しかし皮肉なことに、ラジオという媒体の現場において、そのような特性はとりあえず前面に押し出されることなく抑制されていました。商業放送が本邦には未だ存在しなかった時代のこと、そしてそれ以上に、「市場」の〈リアル〉という「路上」の「喧噪」を成り立たせている大きな要素に直結するゆえに「家庭」から隔離されるべきという制御の意識によって、「大衆」を相手どる飛び道具の媒体に必然的に伴ってくるはずの「宣伝・広告」という属性もまた、表だって自覚されない領域にくぐもらされてしまったところがあるようです。

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 レコード産業が商品音楽を「流行」させてゆき、そして同じく新しい時代の娯楽の王者になりつつあった映画産業と手に手を取って、共に新たな「大衆」の嗜好に投じた「市場」を席巻してゆき始めた当時の情報環境において、ひとりラジオだけがそれらから身を遠ざけておけるはずもない。いかに媒体としての自覚においてそうあるべきと思い、また実際そのような縛りの中で稼動、運営せざるを得なかった時代状況があったとは言え、まさに情報環境の変貌がもたらしていった時代のありようの必然として、ラジオは「宣伝・広告」という要素に浸透されてゆかざるを得ない運命にありました。

 「常に到る所で我々の身辺を、我々の生活を囲繞する処のもの、政治も、文化も、経済も、それなしには成長と、発展を、否その存在をすら脅かされる所のもの、謂って見れば社会の紐帯とも称せらるべきもの、宣伝とは、広告とはこうしたものであろう。角度をかえていうなら、極めて複雑な社会的要素と、重要性を包含し、高度な文化によって、構成されているばかりでなく、それ自体、最も尖鋭的文化の一ジャンルたるべきもの、宣伝とは、広告とはこうしたものであろう。」(吉田秀雄「第一回広告電通賞年紀」の一部、1948年)

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 この宣言自体は戦後に書かれたものですが、ここで高い調子で表明されている「宣伝・広告」についての認識は、すでに昭和初年、当時の「都市」的「盛り場」的「賑わい」のある部分をすでに規定するようになっていた「モダン」相を調律する基調音に他なりません。そして、それは同時にまた、現実の経済や政治とは距離を置いたところで無責任に自分たちの技術だけを行使することのできる「自由」をさまざまに謳歌するための、ある種身勝手な免罪符にもなるものでした。敢えて言えばそれは、同じ「モダン」相であっても、新聞や出版、雑誌ジャーナリズムといった領域を第一義と考えるそれまでの活字由来のリテラシーの側から描き出されるものとはまた少し違う、もうひとつの別の「モダン」相を規定するものとして、共に同時代の〈いま・ここ〉の裡に織り込まれ始めていたもののようです。

 「なぜ広告技術者は、この時代にこの仕事にしか、しがみつけないのか。広告制作は一見、絵画や文学と似た要素があるため同質のものだと誤解する。しかしまったく違うものなのだ。絵画や小説はつねに「生」の裏にある「死」をもかかえこむ。広告企画は「死」を排除するところからはじまる。思考回路がまったく違うのだ。広告仲間のだれも、この仕事を見捨て、絵筆を握り、ペンをとらないのはそのせいだ。とらないのではなく、とれないのだ。」(馬場マコト『戦争と広告』白水社、2010年。)

 そう、「広告・宣伝」はステルスでした。眼に見えない属性として、当時の「モダン」相、「尖端」の〈いま・ここ〉に根を張り始めていたらしいのです。