「孤立」とうた、自意識の解き放たれ方


 歌は世につれ、世は歌につれ、というもの言い、玉置宏の発案と言われてますが、その真偽はともかく、そこで言われているような、世の中と「うた」とが自明にがっちりからみあい、共に存在するという認識自体、もしかしたらすでに静かに歴史の向こう側に退き始めているのかもしれません。ならば、その世の中との縁を切り離されつつある「うた」は、さて、どこでどのように、身の置き場所を定めようとしているのか。

 世の中などという大きなくくりでだけ考えてゆくことは、いつもどこかで行き詰まる。まして、その考える対象が移り変わるのが常態であればなおのこと、乾いた言葉でだけ手もとにある細工物のように取り押さえようとしていると、同じく移り変わるのが定めの生身のこちら側、他でもないこの自分自身の現在によって、砂浜に描いてみせた文字のように、絶え間なく寄せる波に常に足もとから突き崩され続けてゆくもののようです。それは、単に「移り変わる」というだけでなく、「老いてゆく」ということでもあるかもしれない。殊に、少なくともこの自分という生身を媒介として認識される対象のありようも含めて、まるごと考えごとの対象にしようとする立場においては。

 「老いてゆく」、つまり老化というのは理屈でも能書きでもなく、ミもフタもなくわれとわが身、この生身のカラダの個別具体として日々、思い知らされてゆくものだということは、もう40代の終わりくらい、50代にさしかかる頃には一応、わかるようにはなってきていた――つもりではありました。

 とは言え、その「わかる」にもまた、年々歳々また別のあや、それぞれの翳りみたいなものが加わってゆくものだということは、一歩一歩日々の歩みを加えてゆくにつれて、折々に実感として、まさに身にしみてくる。

 俗に「歯、眼、マラ」などと言います。貝原益軒だか何だか、もともとどこの誰が言い始めたことなのか知らないけれども、なるほど確かに「眼」がまず悪くなる。左右非対称のかなりひどい近眼と乱視の併せ技で、もともと中学生の頃からメガネは手放せない身の上だった分、いわゆる老眼になるのは人よりだいぶ遅かったと思いますが、しかし、その近眼と乱視とがどんどん進んでゆき、メガネのレンズを合わせて取り替えてゆくのもそれなりの習い性になった。

 「歯」もまた、もともと歯性のよろしくないのに加えて、歯磨きその他、口の中の手入れなどあまり考えたことのなかった時期が長かったせいであちこちガタがきて、充填だのクラウンだの多数補修工事をやってきていたのが、50代末、還暦の声を聞くあたりについに入れ歯をこさえる羽目にまであいなった。歯医者に叱られながら、あわててオーラルケアなどするようになったけれども時すでに遅く、これ以上補修個所が劣化しないようメンテナンスするのがやっとで、これもまあ、これまでの不養生の自業自得とあきらめながらつきあうしかないらしい。最後の「マラ」はというと……まあ、やめときましょう。俗流の川柳だか都々逸だかにうたわれていた一節のごとく、もはや小便だけの道具となりつつあるらしい、ということと、その小便のキレもよろしくなくなり、ああ、どうやら前立腺とか何とかそのへんも医者に診てもらわにゃならんのかなぁ、と嘆息しつつある近況ということだけは、自戒も込めて記しておきます。

 いや、そんなことはどうでもいい。言っておきたいことは別にある。そう、同じ身の裡、おのがカラダのことである以上、当然っちゃ当然なのだが、しゃべることもまた、口と舌、顔面の筋肉その他の物理的、肉体的な衰えによって、順調にあやしくなりつつあるらしい、ということです。そして、それは単に自分のものの見方や感じ方、すでに衰え枯れてゆきつつあるらしいこの身体に宿る生きてあることの実感、〈いま・ここ〉の現実との交感、相互交渉における生体としての出力、火力、馬力の程度にまで、どうやら情け容赦なく関わってきているということであります。

 これは、医者にかかって検査され、診断され、あれこれ細かな数値と共に「医学」の後ろ楯からご託宣がくだって、「そういうもの」と納得させられる持病や老化の徴しの類とはまた別の、この自分が身をおく日々の現実そのものもまた、自分の「老い」と共に少しずつ、ゆっくりと変貌してゆきつつある、そのことを肉体的な衰えを介して思い知ってゆく、そんな他の誰とも関係ない自分ひとりにとっての世界の変わってゆき方についての認識に関わるようです。


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 自分ひとりのことを足場に考えようとするなら、良かれ悪しかれ、私事に踏み込まざるを得なくなる。

 そろそろ30歳になるはずの息子は一応、ギター弾きが稼業なのですが、リウマチ系の疾患が別れた嫁の家系にあるらしいこともあって、先行き自分の手指が動かなくなることを今からもう想定して、自分自身が楽器を演奏する以外にも何らかの喰う手立てを音楽まわりで考えて動いているようで、へえ、親に似ずいまどきの若い衆らしい周到さだなぁ、とか感心していたのですが、そんなのあたりまえだよ、病気がなくても歳とったら指なんかどんどん動かなくなるんだし、そうならないように毎日練習してるんだから、と言われて、ああ、なるほどごもっとも、思えば楽器じゃなくても声楽その他、歌い手であれ落語家であれ声優であれ、いずれそれらおのが声を商売道具にする人がたでも、カラダの一部の働きとしてのそれら「うたう」や「かたる」を支える生身の維持管理については、それがかけがえのない稼業と思えばこそのメンテナンスを意識しているはずで、そう考えてみれば、こちとら稼業にしても、単に文字の読み書きだけでなく、しゃべり、話し、語るということについての生身のカラダの劣化や老化については、もっと商売道具として淡々と自覚して維持管理をしておかにゃならんはず、といまさらながらに反省したような次第。

 嘘でも大学で教えることが日常生活のルーティンとしてあった間は、ひとコマ90分、それを週に何コマかは否応なしにしゃべらざるを得なかったし、ましてコロナ禍以前のこと、嫌でも口とそのまわりの筋肉を動かすことは意識せずともやっていたことになる。いや、これもそのように気づいたのは割と最近だったりするので、偉そうに言えないのですが、何にせよ、その「しゃべる」ということもまた、それを司る生身のカラダの衰え、劣化、老化に伴い、かつてのように無意識考えなしに「できる」ものでもなくなってきています。

 年寄りが口跡が悪くなる、いわゆる滑舌、アーティキュレイションがなめらかでなくなり、モゴモゴ口ごもるような印象の語り口になることは、これまでもいくらでも見聞してきています。ああ、あれは入れ歯を使っていてそれが合わなくなっているからなんだろうな、とか何とか、適当な憶測なども勝手にしていたものだけれども、いざそれが自分ごとになってくると、あれは単に入れ歯どうこう以上に、まずそもそもの口と舌、のどなども含めた筋肉やら何やら、カラダそのものの物理的な衰えによる部分が大きいらしい、ということを思い知らされるようになって、ああ、そうか、こういうことか、あのモゴモゴしたしゃべり方になってしまうのは、と、近年の田原総一朗のあのどうにも聞き苦しくジジむさい語り口など思い起こしながら、初めてそれが他人ごとではなくなったのでありました。

 いずれにせよ、かつての芝居の稽古じゃないけれども、口を大きく開け、舌もなるべく存分に使って、口もとから顔面の筋肉も意識的にほぐすように動かしながら、足腰や肩、腰、首まわりなどと同じように、もうこの先不可逆的に進んでゆくしかないこの老化、劣化、衰えの過程とうまくつきあってゆくしかないのでしょう。そういう意味でも、3年前、いきなり大学という場から放逐され、心ならずも突然の隠居無職渡世に突入させられたことは、やはりおのが生の道行きだけでなく、それに伴いあれこれものを見たり考えたりする営みにもまた、思っていた以上に甚大な影響を、陰に陽に与えてくれていやがるのだな、と思っています。


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 「うた」はすでに世につれるものでもなくなっていて、ただ〈いま・ここ〉に、ひとりひとりの自分のカラダとだけ紐付けられて、たまたま宿るものになっているらしい。それは当然、生身を介してのことだから、その生身の変化、「老い」の過程とも関係してそのありようも変えてゆく。その過程でもまた、変わるものと変わりにくいもの、少し前のある時期まで「世につれるもの」でもあった頃の「うた」のありようを引きずりながら、〈いま・ここ〉を生きるカラダに取り憑き、宿っているらしい。それは、「自分」という意識のありようの変遷とも、否応なしに関連してくるあらわれでもあるはずです。
 
 あれはことわざにあたるのかどうか、「子は親の背中を見て育つ」という慣用的なもの言いが、本邦にはあります。「男は背中で語れ」などとも言った。あるいは、あの「背なで泣いてる唐獅子牡丹」という、ある時期まで多くの同胞が知らぬ間に脳裏に宿らせていただろう「うた」の一節なども、また。

 なぜ、「背中」なんだろう、と、ずっと思っていました。面と向かって正面から、それこそツラをさらして対面し、必要ならば言葉にもして、そうやって子どもなら子どもと「向き合う」こと。昨今はそちらが別の「正しさ」をうっかり帯びるようになってもいますが、でも、人と人との「関係」において重要とされてきたのが、「顔」でなく「背中」だったことの内実とは、さて、何だったのか。

 「背中」だから、その自意識のありようとしては「世間から見られる自分」ということなのでしょう。でも、その見られ方についてこちらから積極的に働きかけたりすることは想定されていない。まして、言葉でその自分をつぶさに説明したり、自分以外の他人と関係を持って、その上で表現してゆくような自分、というのも初手から考慮の外。「見られる」のは、普段の常住坐臥、日常生活の中で生きて動いている、ただそういうものであるありのままの自分という存在でしかなく、でも、それは必ず自分の望むような方向で見られるはずだし、すぐには無理でもいつかは必ず「わかってもらう」に近づくことができる――なぜかわからないけれども、そういう自明の信心のようなものが特に根拠もなく、鈍く抱かれているのが、そういう場合に想定される本邦的「自分」の常だったようではあります。

 特に何も言葉にして説明しなくても、「まわり」が勝手に忖度し、斟酌し、慮ってその思うところや胸の裡を察知してくれて、なんだかんだあっても結局はその思惑に沿うように動いてくれる、それが本邦の望ましい「家族」であり「身内」であり「内輪」のありかたであったようなのですから。そして、そのようなありかたがたどってきただろう経緯来歴は、おそらくいま、われわれが考えてみる以上にとりとめなく長いものだったようなのですから。

 「関係」も、そしてそれらの織りなす上に成立する「場」も、とにかく自明であたりまえ、水や空気のようにそれと特に意識しないものになること、それが理想の日常であり、いちいち言葉にして可視化し、確認し、共有してゆく「野暮」で「水くさい」手続きなど介さずとも、「そういうもの」として自然に「流れてゆく」状態こそが最も望ましい日々の安寧の実質と考えられていたらしい。

 そんなたてつけで日々生きているのだから、個々の人がたの裡では「孤立」が必然になる。これもまた、いまに限らず、昔とて同じだったはず。あらためてここにきて、わざわざ言い募られているような「孤立」が、にわかに大量に生まれてきたわけでもないでしょう。ただ、その「孤立」の内実が時代のありように伴い、常に変わり続けてきたこと、そしてそれによって、そこから必然的に生じるさまざまな苦しみや痛み、辛さといったものをどのような表現としていったのか、というあたりこそが、本当に立ち止まって自省する/されるべき〈いま・ここ〉の問いになってきますし、そこにこそ「うた」が、たとえどのような形に転変しているにせよ、必ず宿ってゆくもののはず。

 寂しい、切ない、遣る瀬ない、といった、今となっては陳腐でしかない紋切型のもの言いも、そのような「孤立」を受け止めてゆくための表現のある定型として、ある時期便利に使い回されるようになっていた。それこそ「夢とおもかげ」的な、流行歌の「歌詞」に含まれるお約束の語彙の群れのように。でも、それらの語彙のそれぞれの背後には、必ず生身の自分の裡にはらまれる「孤立」が控えていて、それが何よりも「うた」というあらわれを世に宿らせてゆく力になってもいたはずです。

 だから、戦後の過程、昭和20年代から高度経済成長いっぱいくらいの間の時代相、世相風俗ぐるみの日常生活をとりまいていた同時代の雰囲気や空気、眼に見えないその頃の生活感のようなものを、少しずつ〈いま・ここ〉令和の御代に生きている今の自分の身の裡に宿らせてゆこうという道行きで、あらためて眼に触れてみるかつての活字たちの文字列から、自分の眼に浮び上がってくるのは、たとえばこんな一節。 

 「何年か前、三橋美智也の「おさらば東京」という歌がはやったことがある。山谷でも大いにはやった。飲み屋で、街頭で、ドヤの二階で、その歌はよく唄われた。ある男は、「あの唄を、泪橋のそばに立って聞いていると、まったくいやになる。泣きたいほどいやになる」といっていた。」(底辺の会・編『ドヤ――山谷を中心に』三一新書、1961年)

 「いやになる」「泣きたいほど」――「孤立」が「うた」を求めてあらわれになってゆく際の、生身の裡にあるタネがふくらみ、想いが少しずつ泡立ち発酵し始めている、言わばもろみのような段階の表現。「おさらば東京」は昭和32年11月の発売。「あざみの歌」で戦後登場した横井弘の手による、あの寺山修司なども好んで引用していた高度成長期とば口の地方から都会へと吹き流されてきたその他おおぜいの気分を引き受けた、いま見てもなかなか悪くない歌詞ですが、ただ、当時の山谷の衆はそれをそのまま「うたう」ことよりも、歌詞通りに唄われる「うた」の合の手に入る「ツ・ツ・ツン」というギターのおかずの部分を、なぜか「コッペパン」と置き換えた替え歌にして初めて、みんなで共に唄うことができたらしい。

 「レコードに合せて安酒場に響き返る歌。コップのケツでテーブルを叩く。地下足袋の先で羽目板を蹴る。箸が鳴るのか小皿が鳴るのか。あばよ、のあと、ギターはツ・ツ・ツンともう一度だ。「あばよ、コッペパン、東京、おさらばだ」 みんながそうどなるのだ。なぜか知らない。知らないがわかる。わかるのはコッペパン。その気分……いや、値段、大きさ、その味か。」


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 署名はないものの、書きとめたのはおそらく寺島珠雄辻潤に師事したこともあるというこの「詩人」の眼と耳がとらえた刹那は、「孤立」が「うた」に、それもひとり口ずさむのではなく「みんな」と共に怒鳴り、うたうものに転化していた、まさにそのような場のまるごと、でした。

 自分だけだと「泣きたいほどいやになる」、でも、あるいはだからこそ、ちょっとした部分を別ものに替えることで、その「いやになる」歌詞の意味の流れを俯瞰し、茶化し、その「いやになる」自分も含めて異化してみせる、そうやって初めて、「うた」は「孤立」に自閉させられることから、共に唄う「場」に開かれてゆく――このへん、まさに同じ頃のうた、あの「チャンチキおけさ」の「知らぬ同士が小皿叩いて……」の風景などと引き比べてみる必要なども含めて、もう少しゆっくり考えてみたいと思っています。


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