「生きもの」を扱う仕事、のこと



 「生きもの」を扱う仕事というのが、世の中にはあります。というか、あたりまえにありました、少し前まで、ある時期までは。

 「生きもの」というと、身近なところだと犬や猫、昨今は兎やハムスターなども含めた、いわゆるペットとくくられる小さな動物を、人はまず想定するでしょう。また、インコや文鳥など小鳥の類、金魚や熱帯魚などの魚から、人によっては亀や蛇、蛙やトカゲなど、愛でるにはいささか敷居の高そうなものにも世の中、お好きな向きはそれぞれいらっしゃるもの。となれば当然、それらを商売ものとして扱い、売買することで成り立つ仕事というのもまた、いわゆるペット屋、少し前までは鳥獣店などと呼ばれていたささやかな商売として存在する。それらがまあ、いまどきの普通の暮らしの中でパッと思いつく、「生きもの」を扱う仕事と言うことになるのかもしれません。

 一方で、そのように生きものそのものとしてでなくても、食べものとして肉になる牛や豚、鶏から、魚や貝など魚介類も含めて扱う肉屋、魚屋といった商売も世間にはあります。ただ、それらの仕事は、「生きもの」を生きた状態でなくしてしまう過程、つまり「生き死に」「殺生」に関わる目に見えない作業が、食べものとして目の前にやってくるそれまでの間にどこかで必ず介在しているから、というあたりの事情を背後に持っている。その分、八百屋や乾物屋など、その他の食べものを商品として扱う商売とは少し違うニュアンスを、良くも悪くも持たれているところがあるようです。

 そのへんは、生きものを言わば見世物として見せる動物園や水族館なども、実は同じこと。目の前の動物や魚たちが生きて動いている、そこだけをわれわれは眼にしますが、その背後に必ずあるはずの「生き死に」に関わる部分は敢えて意識しない、言わば楽屋裏としてなかったことにした上で、眼前の生きものをただ楽しむのが、意識として約束ごとになっているところがあります。

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 少し前、あれは三重県でしたか、とある神社の神事の一環に、馬をけしかけてちょっとした壁を駆け登らせる「上げ馬」という呼び物があって、それに使われた馬が骨折して殺処分になるというできごとがありました。不幸な事故としてたまたま報道されたものが、馬という「生きもの」の「生き死に」に直接関わる事案だったことで、予想以上に世間の大きな反響を呼び起こし、関連していろいろと物議を醸しました。本誌本号でもそのあたり、つぶさに取材をしているようですが、そもそも、あの事故がどうしてそこまで世間の琴線に触れることになったのか。いろいろ理由は考えられますが、生きものとしての馬の存在のありよう、いまどきのわれわれの世間における位置づけ自体が、かつてと大きく変わってしまっていることがまず、大きいように思います。

骨折馬を殺処分で苦情2400件 「上げ馬神事」に改善勧告 伝統か虐待かで波紋「やはりこのままでは…」 三重・桑名(FNNプライムオンライン) - Yahoo!ニュース
king-biscuit.hatenablog.com
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 いまのわれわれの普段の暮らしの中で、「生きもの」を扱うことは、いわゆるペットの類以外にどうやらなくなってしまっている。殊に、馬や牛といったわれわれ人間よりも図体の大きな生きものを、農作業であれものの運搬であれ、われわれ人間の仕事を共に手がけ、手助けしてくれる生きた存在として日々つきあい、時になだめながらうまく扱ってゆくような局面は、日常生活からほとんど失われました。馬は競走馬として競馬場に、牛は肉牛であれ乳牛であれ牧場に、鶏も養鶏場に「収容」された形で、それぞれ存在はしているし、そのことをわれわれも知ってはいる。でも、それらはわれわれの日々の仕事を身近に手助けしてくれる存在ではないし、だから自ら扱うこともなければ、その「生き死に」に直接関わることもまずなくなっています。

 馬や牛など、かつて「使役」され仕事の上で「役に立つ」ものであった、「家畜」と呼ばれていたような類の生きものは、同じ身近な生きものではあっても、ペットとしての犬や猫とは決定的に違う存在でした。なのに、いまやそれら馬でさえも、「生き死に」の局面においては、ペットの犬や猫と地続きの素朴な「かわいそう」という気持ちだけが喚起されてしまうもののようです。「上げ馬」神事の事故がことさら大きな反響を呼んでしまった背後には、そのようなわれわれの暮らしの中で、「生きもの」を扱うということが、その仕事と共に知らぬ間に縁遠いものになってしまっていた、そのあたりの事情がひとつ、根底に横たわっていたように感じています。