――この国の民俗学とは社会が未だ「豊かさ」が実現できない段階での学問なのであり、その意味では貧困の文化、手弁当の窮屈の中での学問だった。と同時に、「豊かさ」から疎外された恵まれない条件の下で何か知的な営みに眼を開いてしまった人間にとって、その逆境を裏返しに有無を言わせぬ強みに転化してゆくことのできる魔法として使い得るものだった。その意味で、高度経済成長以降の「豊かさ」は、民俗学の古典的な対象である「民俗」を喪失させていったという以上に、何よりまず民俗学を志すような主体が出現し得る母胎から崩してゆくようなものであったと言える。
民俗学にとっての「ムラ」とは
日本の民俗学にとって永らく「ムラ」とは所与のものでした。少なくともそういう時期が長く続いてきました。民俗学とは「ムラ」を考えるべき学問であり、そのような自己規定を本質的に疑うことなく推移してきました。それが高度経済成長以降の「豊かさ」がもたらした広汎かつ深刻な社会変動に、民俗学が対応できず事実上枯死した大きな原因になっています。 直接の対象としてであれ、課題を発見する「場」としてであれ、「ムラ」は民俗学と切り離せない形象として寄り添い続けてきました。
農山漁村に代表される地域のコミュニティ、一次産業に依拠した相対的に「古い」近代以前の生活文化が「残存」している土地の代表として「ムラ」は想定されてきました。これは柳田國男自身が農政学者として、そして農政官僚としてのキャリアを開始する中で必然的に導き出されたものでもありました。それまで近代的な知性とその視線によって「学問」として捕捉されることの乏しかったそれら「ムラ」に対して、官僚としての職務意識が前提にあったとは言え、新たにことばにし認識し、意味づけてゆかねばならない眼前の事実として「発見」されていったわけです。
この「ムラ」が、単に地理的・空間的な地域という意味だけでなく、ある文化の機能的連関を伴う総体だったり、ひいてはさらに抽象化された概念にまで転化されて、時には「回復されるべきむかし」であったり「早急に記録して保存しておかねばならない文化財」であったりさえするような認識の中に放り込まれることも、ある時期以降は出てきました。 特に、カタカナやひらがなで表記される「ムラ」や「むら」は、自然村的な意味から発するそれに比べて、良くも悪くも抽象度が高く設定された、そのような観念的なものとして意図づけられた場合が多くなってきます。自分自身、1970年代後半ぐらいから、例によって柳田國男経由で民俗学に関心を持ち、大学から大学院にかけて、特に大学院では一応正規と言ってもいいカリキュラムによって民俗学の手ほどきを受けてきた経験から、そのような意味での「ムラ」がどれくらい所与のもので、民俗学の前提として当たり前に存在するものとして教えられてきたことを実感します。
戦後の変貌の中の「ムラ」と民俗学
民俗学が「民俗学」という表記と共に、いわゆる「学問」的な自意識を宿すようになっていったのは戦後のことです。その組織的な中心にいた柳田國男自身が「民俗学」という表記を自ら意識的に、積極的に使うようになったこと、そしてその表記が「戦後」の言語空間においてそれまでと違う意味や内実を、組織としての民俗学やそこに宿る自意識に付与してゆくようになったということは指摘しておいていいでしょう。それまでは「民間伝承の会」であり、「学問」という枠組みからは良くも悪くも慎重に身を遠ざけていた民俗学が、自ら「民俗学」を標榜するようになったこと。これはその後の日本の民俗学のありようを規定する、ささやかながら重要な一歩でした。
しかし、同時にまた、戦前の昭和初期に胚胎した「民間伝承の会」の組織としての初志にあり得た「ムラ」への視線は、そのような「学問」という自意識が前景化してゆくことによって変貌を余儀なくされてゆきました。
戦後、現実としての「ムラ」は変貌してゆきます。言うまでもなく農地解放、戦後の民主憲法下での民法改正などからの一連の「民主化」の過程で。それら変貌してゆく現実の村落、農山漁村に代表される日本の地元、地域社会に対峙して、当時の民俗学はそれら変貌してゆく中で「消えてゆく」「民俗」にそれまでよりも切迫した面持ちでさらに優先的に焦点を当ててゆくようになります。これらが消え去ってしまう前に早く記録しておかねばならない、という焦燥感は使命感と共に、戦後の立ち上がりの民俗学にとって疑うべくもないものになってゆきました。それにはまた、これは「民主化」のために必要な作業なのだ、という同時代的な後押しも加わっていました。
「失われゆく民俗」という認識はそのような意味で戦後の、「学問」としての自意識を前景化し始めた民俗学にあらかじめ初期設定されているものでした。農山漁村に依拠した近代以前から「伝承」されてきているとおぼしき文化要素にだけ合理的に焦点を合わせてゆく習い性は、そのような中、民俗学自身が意識する以上にずっと効率的に、半ば自動的に研ぎ澄まされていったようです。同じ頃、「文化財」というもの言いによって眼前の事象をあらかじめ囲い込んで固定してゆく動きもまた、そのような民俗学とその周辺の移ろいとの相関関係で既定のものになってゆきました。
具体的な眼前の農山漁村=「ムラ」の変貌は戦後、改めて言うまでもない。大きく言えば明治このかた、かつて「地方」と言われてきた頃からそのような有為転変はずっと続いてきたわけで、何より当の柳田國男自身もそのような現実と対峙する中から農政官僚経由で民俗学を志すようになっていった。けれども、敗戦をはさんで新たに広がった「戦後」という現実の前に、その変わり続けるムラの意味はそれまでとひとつ異なる位相を示すようになりました。
「民主化」してゆくムラ、「戦後」の枠組みの内側でそれまでと違う力学によって変えられてゆく農山漁村、一次産業の現場も含めたまるごとの「地域」のありようというのは、単に「変わってゆく」というフラットな認識にとどまらず、そのような変貌をもたらす力学との関係の中で対抗的に「取り残されてゆく」もの、変わらない/変われないまま当の「地域」に生きる人々の意識からも忘れられてゆくらしいもの、として意味づけられるようになってゆきました。
「民俗」というもの言いが特権的な装いをまとい始めるのも、この頃からです。民俗学、という看板を自覚的に掲げるようになったことで、その「民俗」自体もまたそれまでと違う脈絡で濃厚な意味を求められるようになってゆく。folkloreの訳語である、といった辞書的な説明はそれまでもあったにせよ、実際にそれが使われる文脈においては、そのような変貌の現在から「取り残されてゆく」もの、変わらない/変われないもの、という意味が下敷きにされた理解が、「民俗」にもまた拭いがたくまつわるようになってゆきました。
「現在」はこのように民俗学の視線から、あらかじめ排除されるようになってゆきます。少なくとも、ことばの最も可能性の大きな意味での「現在」=〈いま・ここ〉としては。さらに、ジャーナリズムの発達、変貌もまた、そのような「現在」との関係を変えてゆく大きな要素のひとつでした。当時の言葉で言えば「風俗」的な表層を闊達にとらえてゆこうという意志は、民俗学の側からは必然的に希薄になってゆきます。
たとえば、戦後の「ムラ」を変貌の中にとらえて記述しようとした当時の同時代のジャーナリズム界隈から出てきた新たな仕事について、民俗学の内側から言及されたり参考にすべき対象としてとらえようとした形跡はありません。 戦後の言語空間において「学問」「科学」という新たな椅子にふさわしい自分を夢見ながら、「民俗」をそれら眼前の現実からはっきり切り取って認識し、さらにそれを「文化」という上位の抽象的な概念に包摂して処理しようとしてゆくことで、最も激しく動揺していたはずの「現在」のムラをあらかじめ自身の間尺にあった額縁の中に切り取ってしまうことを民俗学は結果的にやってきたようです。
「民俗誌」という内実の戦後的変貌
「民俗誌」という言葉もまた、そのような過程で少しずつ特権的な意味をまつわらせてゆきます。
Ethnographyの訳語としての「民族誌」は、それまでも「殊俗誌」などとも訳され、日本語の語彙にはなっていましたが、一般的に使われる言葉にはなっていませんでした。 同様に「民俗誌」もまた、民俗学の脈絡で特に必要があって内発的に出てきた用語とは言い難いところがあります。それ以前の「地誌」や「郷土誌」などと連続しながら、しかし質的には少し異なるところに、戦後「民俗誌」は民俗学の領分で独特な意味あいを持たされてゆきました。アメリカ的な実証主義の学風が社会学などを窓口に一気に流入してきたことも作用していたでしょう。いわゆる文献史料偏重とされていた歴史学との対抗関係において人文地理学との連携がそれまで想定されていたのに対し、実証的な社会学、特に農村社会学といった領域が戦後、新たに民俗学の自意識に重要な「隣接諸科学」として意識されてゆきました。
地域に、ムラに一定期間関与し、できれば実際に住み込み、そこに住む人たちの目線や気持ちに即した上でその地域の、ムラの生活を記述する。科学的・統計的なデータに基づいてというよりも、「民俗」という単位に分解された素材を介した現実の断片の集積として、そしてその後にはそれらを前提とした散文的な叙述記述の水準としても、また。「民俗誌」というもの言いにまつわる戦後の民俗学の文脈での意味づけられ方は概ねそのようなものでした。
同時にまた、読み手の側の意識の変貌もありました。「民俗誌」として提示されたテキストに対して、「民俗」という資料を拾うために読むという態度から、それら記述の全体を読み、その地域なりムラのありようをいきいきと現前化させてくれるかどうか、といった基準がそれまでよりずっと意識的なものとして読み方の裡に介在してきます。この変貌には、読み手の側がそのような散文的な眼前の現実に対する「読み」を〈リアル〉なものとして日常から具備してゆくような環境の伸張が、その背景にあったはずです。 先に少し触れた戦後のジャーナリズム界隈からの仕事、もっと言えば当時一気に開化した「暴露」系ジャーナリズムの百花斉放なども含めて、戦後の情報環境の変貌がそれら読み手の側の「読み」の水準もまた変えていっただろうことは、考慮に入れていいことでしょう。
このように民俗誌が、資料として素材としての「民俗」を含んだデータベースとしての意味から、良くも悪くも散文の水準に開いてゆかざるを得ない流れが顕在化してゆきます。高度成長期に注目が集められるようになった宮本常一の仕事の読まれ方などもまた、そのような読み手の側の「読み」の水準の変貌に対応して現前化していった面があります。
そのような「読み」はまた、対象となっている地域やムラの暮らしの手触りや感覚と同時に、それらを読み手の「読み」の裡に現前化させた書き手という存在に対してもまた、否応なく意識させることになります。地域やムラに滞在し、そこに住む人たちと共に暮らし、時間をかけて体験し見聞した書き手のありようが、その地域やムラのリアルと相互に切り離せないものとして読み手の「読み」のうちに立ち上がる。言わば「英雄としてのエスノグラファー」がそれらの「読み」の中に立ち上がってきます。 単に学術的な記述のひとつのスタイルという地点から、民俗誌それ自体が価値であり目標でもある、といったイデオロギーが形成されてゆく環境は、概ねこのように編成されてゆきます。それはひとり民俗学などのことでなく、文化人類学なり社会学なり、あるいはもっと広く「戦後」の言語空間一般に包摂された日本語を母語とする広がりの内側での人文・社会科学一般が関係していたような環境でもありました。
そのような環境の下、「現場」という言い方を介してもまた、「ムラ」はそれまでと違うものになっていった。客観的対象としての、そこへ向かって接近し対峙するこちら側とはあらかじめ切り離されたリジッドな客体としての存在から、こちら側との境界が必然的にあいまいになってゆかざるを得ないような可変的な存在への移り変わり。そのような意味で、いわゆる「科学」的な記述から離陸せざるを得ないところに「民俗誌」は必然的に位置することにもなってゆきました。
「郷土」と「ムラ」のあいだ
「ムラ」は民俗学以前においては郷土誌としてとらえられるようにもなっていました。初期の民俗学にとっての民俗誌もまた、それら郷土誌の文脈の上にその改良形として想定されていたところがあります。とは言え、全国のムラを個別に実地に調査してそのような民俗誌が次々と生まれてゆくことを当時の柳田國男が夢想していたとしても、それは戦後にまでうまく持ち越されたとは言い難い。
たとえば、地理学から入って郷土研究を手がけるようになり、後には郷土教育を主導していった小田内通敏は、「一軒家」を単位とした「郷土」を規定しています。
「村の一つの民家と其の周囲を通しての生活から出発しなければ、其の真の姓名を見出す事が出来ないと思ふ。一つの民家と関係深井其の附近の数多の民家を形造る人達とそれなの立ってゐる土地即ち一群の住民と一定の土地とが、ここに特定の郷土を生み出すのである。彼等の精神生活は神社をつくり寺院を建て、其の経済生活は土地を耕し林を仕立て、ここに郷土観念の基礎が成立つのである。」
当時の人文地理学に軸足を置いた「ムラ」理解から発する、ある種標準とも言える「郷土」についての認識かも知れない。一方、柳田國男は大正期に郷土研究の脈絡でたくさん出されるようになった郷土誌の類の質を見分ける際の注意事項として、序文の文体やもの言いをとりあげながら要注意物件として以下の三種類をあげています。
① 「序文に「広く我郷の形勢を天下に紹介し」などとある者」
「汽車の時間表を握んで災天を駈けあるく新聞記者などが之を代表し、其場次第の奇妙とか愉快を絶叫し、さうしてやがて忘れてしまふ人が多い。忘れられても又可いとしてあります。土地繁盛が当の目的であることは、広告の多いのでもわかります。宿屋の名や現在の宿賃までも掲げて居るのは、それが實は客商売の徒の回し者である証拠です。」
② 「先輩に由って「愛郷の精神を養ふは即ち愛國心を盛ならしむる所以」などと讃められて居る品」
「軽薄なる世の快楽追求者に媚びず、少くも郷土の佳民を以て讀者として居るだけ、志は遙かに高尚であります。併し之に依つて愛郷精神を養つてもらふ位の讀者では、もともと古い事などはなんにも知らぬのですから、存外説明は容易なもので、虚誕を吐いたらいかんか知らぬが、昔の本を少し位和解して聞かせても、此序文の廉には該當することが出来ます。」
③ 「「予煙霞の癖あり公務の暇云々」などと序して居る郷土誌」
「邪推をすれば此中にも贋物がありましやうが、果して風聴の通でありとすれば、此は郷土の為に郷土を傳へんとするもので、假令一生涯を費やすと云ふ程の熱心は無く、従つて其功程は著しからずとも、能く郷黨を誘って郷土の面目を自覺せしむり労は之を認めねばなりません。(…)唯困つた事には斯云ふ類の風雅人の を曳く場所は、神社佛閣に非ざれば古碑や歌名所の類のみで、幾人寄つても趣味は偏るばかり、やはり驛長の相談でも受けて、停車場の立札に書く位の舊跡智識を以て満足して居るのです。」
①はいわゆるよそ者、ムラの外部からの観察者の目線での記録記述、②は①に比べればムラ在住者の目線ではあるけれども、その読み手に想定されているのがムラ在住者であっても意識の高くない、ムラについて知ろうという意識の薄い層であるような記録記述、③は②と同じくムラ在住者の目線でも、書き手が②よりもインテリ層である分、読み手として想定されているのもムラ在住者より遠くに住まいし生活するインテリ層であるような記録記述、とまとめられます。つまり、記述そのものの質や水準だけでなく、読み手との関係においてどのように読まれることを想定しているかに合焦しているのであり、それらも含めた「読み」のありよう、間主観的とも言えるありかたがこれら民俗誌的記述の本質であるという考え方です。つまり、彼が理想として想定としていたムラについての民俗誌的記述というのは、ムラの内側から記述しムラの者が読み手として想定されるような記録記述、ということになります。
「村の教員乃至は心有る青年」「分別辯口のある村の観察家」「大體から言ふと村に生れて暫く他國に居た人などが、他所から入込んで久しく住んで居る人ならば、右に言ふ如き缺點はありますが、其人たちが果して村の生活を根本から調べて見なければ、國家社會を説き政治経済を論じ人類未来の福利の為に劃策することが出来ぬと確信し得るであらうかどうか。是亦大問題であります。」
ムラの小学校教員を自らの主要読者と明確に想定して著書をつくっていたという柳田の「戦略」は、この頃すでにその輪郭が固まっていたようです。ムラに生まれた身で、その後ある程度の教育を受け、その過程に宿った自意識と知性とを携えて、「学校」という装置を介して再びムラ≒郷土に戻って当事者的目線を共有できるポジションにある者――それが柳田の想定した組織としての民俗学の中核を構成する理念型でした。寺社の僧侶や神主、という近世以来のムラの有識層よりも、明治期以降の新たな教育環境で育ってきた知性や自意識により重心を掛けて期待していた。この時期に時折激しくもらされるような「趣味」への軽侮、蔑視の感覚もこのような期待と共に前面化していったのでしょう。
このような柳田の構想からすれば、戦後の言語空間でジャーナリズムの情報環境が拡大変貌してゆく中で出現してきた、新たな書き手の存在は「郷土誌」的記録や記述の主体としてひとまず歓迎すべきものだったはずです。けれども、戦後の民俗学はそのような評価の視線をすでに持ち合わせていませんでした。郷土教育を戦後の社会科教育に転生させたいと願い、柳田個人はさらに国語教育にもまた晩年の情熱を傾けたりもしましたが、情報環境と自分たちの学問の初志との関係についてそのように自省する余裕は持ち得なかったようです。
実際、柳田にとっての「科学」とそれに基づく使命感は、どこかで彼の内務官僚としての地図と重なっているところがあるらしい。まんべんなく全国を歩き、見聞を重ね、でもどこかひとつの特定の地域やムラについて、それこそ後の「民俗誌」の語に見合うような濃密な記述を残したわけでもない。あの「喜談書屋」と称した砧の自宅の書斎の壁面を埋め尽くしていたカードのように、資料としての事実断片を「資料」として蓄積してゆく過程は間違いなく彼自身のものだったとしても、それら「資料」を統合し、編成してゆく主体性は決して「民俗誌」の側に委ねたりはしない、という覚悟すら感じられます。
読み手として想定もされていたそれら小学校の教員に代表されるような知性の脳裏に〈リアル〉として立ち上がるような「ムラ」。後にはそれは「日本」「日本人」にまで敷衍されてゆきますが、いずれにせよそのような関係性の中で有効な記述の水準を彼は選択していました。ですから、彼の最晩年から没後にかけて一気に花開くことになったような「民俗誌」に準じるような散文の記述のありようからは、書き手の彼自身むしろ疎外されていた、と見る方がいいように思われます。
柳田国男自身が「民俗誌」に比すことのできるような記述をものしたのは、自覚的な仕事としては戦後に出された「北小浦民俗誌」だとされています。けれども、これはすでに指摘されてきているように、倉田一郎のフィールド・ノートをもとに構成したもので、柳田自身が現地に実際に滞在して記録した素材をもとにしているわけではありません。しかし、いやだからこそ、このような記述を彼が「民俗誌」と名付けてみせたことの意味は、決して小さくない。
彼にとっての「民俗誌」、戦後の過程で彼の弟子たちの手によってそれなりに連続して提出されていったようなそれは、しかしどこか突き詰めれば「よそごと」であるような記述の水準だったのだと思います。書き手としての自分自身が積極的にコミットしようとは思わない、そんな記述のありよう。それはおそらく、彼が想定していた望ましい常民の具体像とも切り離せないようなものだったはずです。寡黙で、自己表現にはそれほど習熟せず、文字を介さない「伝承」には誠実かつ忠実であるような、集団としてのそれも含めた生身の記憶志向な「野の知性」。彼好みの常民はそんな「日本人」でもあるようなものでした。しかし、改めて言うまでもなくそれは圧倒的に「消え去りゆくもの」でもありました。
「現場」に赴き、書き手が同時に経験者であり主体であるような記述。それを柳田は必ずしも要件にしていなかった。有名なあの「遠野物語」自体、佐々木喜善からの聞き取りを素材に構成したものです。「書く」ということ、あるまとまりを持ったテキストに、「作品」に整えてゆく作業というのは、「現場」を実際に経験し滞在した主体のその現場体験の連なりとはまた別の過程だ、という認識の明快さは改めて指摘しておきたいと思います。書かれたものは記録であり、しかしそれは時空を超えた生命を宿す可能性を与えられる。「書く」立場の責任ということも含めて、柳田はそのような「書く主体」としての矜持をずっと持ち続けていました。けれどもそれは、どのような主体にとってもフラットに訪れ得るものでもない、という意識もまたはっきりと抱いていたはずです。
このように、民俗誌を「書く」ということがどこかで英雄のような、スーパーマンのような主体を想定してしまうようになってゆく過程で、しかしそのような「書く主体」としての自省はどこかで偏頗なものになっていった側面もあるように思います。記録文学でありルポルタージュであり、ノンフィクションであり、ドキュメンタリーでもあるような、いずれそのような「現場」のリアルをひとつのテキストを介して読み手の側に立ち上がらせるような領域。「民俗誌」はしかし、そのような領域が同時代の情報環境で広汎に同時多発的に出現してゆく動きに対して、無自覚なまま推移してゆきました。
未だ読まれざる民俗誌、そのように意識されていない未発の〈リアル〉は日本語環境においてまだたくさん残されています。農山漁村の「民俗」を「記録」することに特化していた民俗学がすでに使命を終え、自ら疎外してきた「現在」を回復しようとする試みもまた、不十分な自省のうちに葬られてきた果ての現在、眼前の現在に向かい合うための主体を輪郭確かなものにしてゆく作業のひとつとして、そのような「読み」の水準で未発の民俗誌を「発見」してゆくことも、主体再編成のエチュードとして重要だと信じます。