ランドセルと北海道

*1
*2

関連のご当地『北海道新聞』新聞記事

NA)ところで、ランドセルって何年生まで使いましたか?


道民への街録ON
★6年生まで使っていない
★何年生で何に変えた?なぜ?変える事への抵抗なかった?
「周りが変えていたから」「ランドセル格好悪いから」「変えるのが当たり前」


NA)道内出身者100人にアンケートを取ってみると、
   およそ?割の人が6年生まで使っていないという結果に。


NA)そこで今度は道外出身者にも同じ質問をしてみると・・・。


道外出身者への街録ON
★6年生まで使っていた
★変えようとは思わなかった?なぜ?周りで変えていた人は?
「6年間使うのが当たり前」「変える必要がない」「学校で決められていた」


NA)ランドセルメーカーが行った調査によると、
   全国の76%の人が、6年間使っていたという結果に。


NA)なぜ北海道ではランドセルを6年間使わない小学生が多いのか?
調査しました。

*3
*4
 おもしろい事例ですね。どこかで決まった/決められたことでなく、何となくそうなっていった、というあたりがとてもおもしろい。北海道っぽいなぁ、と。

 そりゃ個々の地域でそうなっていった事情はいろいろあるとは思いますし、理由の説明の仕方もあるでしょうが、ただ、やっぱりその下地の部分、ベースには道民気質というか道産子かたぎみたいなところもあるんじゃないですかね。

 ランドセルは別に法律や規則で使わなきゃいけないものでもないですよね。どこからも使えとも使うなとも言われていない。何となくそういうことになっている、という言わば生活の中の慣習、習い性なわけで。だから自分たちで不便と思ったりしたら「変えていい」という感覚。「上」からの規則や命令などには従うけれども、でも〈それ以外〉の日常生活の部分は関係ないよね、という公私の住み分けというか、日々の暮らしと「上の方」とがきれいに別のものになっている。

 これ、内地だったらいくら慣習的なものでも、「やめよう」となったらいろいろしがらみとか利害関係とか出てきてなかなかそうならないと思うんですよ。こういうのは業者さんの利害とか学校側の思惑とかはっきりした規則などで決まっている部分以外のあれこれが絶対出てくる、まあ、世の中ってそういうものなんでしょうが、ただどうも北海道の場合は、あ、それ確かに不便だわ、だったらこうしたらいっしょ、で割とすんなりみんな納得してしまえる度合いが大きいように感じています。同じ「決まりごと」にもふた通りあるというか、「上から」決められた枠組みとしての「決まりごと」と、自分たちの日々の暮らしの中の「決めごと」の違い。現実ってのはその後者の部分、自分たちの「決めごと」が基本なんだという感覚ですね、そうとははっきり言わないし自覚もしてないけど、でもそういうもんだよね、とみんな何となく思ってる。

 「なんもだよ」って、よく言うじゃないですか。あの「なんもだよ」って実は翻訳できないですよね、外国語にも、同じ日本語の中でさえもかっちり定義があるわけでもない実に何でもありな使われ方してますよね、文脈に応じて意味がものすごく変わってくる。でも、「なんもだよ」で日常はすませてゆけるし、すませるからこそ回ってゆくみたいな。それまでやっていたことでも不具合出てきたり不便だったりしたら変えてゆく、あれこれリクツや意見の違いなんかあっても「なんもだよ」でくくって実用性や実利に即したところに適応してゆく。

 良く言えば「おおらか」悪く言えば「いい加減」なんでしょうが、それくらい「生きている」こと「日々のこの現実」第一になっている、そうせざるを得ないくらい環境的にものが大変だったということと共に、内地の「日本」と違って生きているだけで否応なくしがらんでくる歴史とか伝統とかしきたりみたいなものの縛りが薄かった、そんなものいちいち気にしていられなかった、というのもきっとあるんでしょう。

 地元と学校のつながり具合があたりまえに強い。運動会でも朝から場所取りして、家族から親戚みんなして弁当作って持って来て一日中楽しむじゃないですか。学校以前に、神社やお寺だってそうで、そもそも神社やお寺のあり方が内地の「日本」とは違ってます。内地だとそれぞれそこの神社にどんな神様がいて、それは地元や地域とどう関わってきた歴史や来歴があって、てのが絶対あるし意識もされてる、お寺もお寺で宗旨や派閥なんかでしがらみが強いのが当たり前、でも北海道じゃ神社もお寺も割と同じハコに入れられてる感じで、どんな神様がいるのか宗旨が何かとかあまり気にしない。でも、何かある時に地元のみんなの集まる場所という実用性の部分だけはしっかり共有されてて、お祭りでも何でもそこでやることにはなっている。そのくせ、そこにどんな神様が祭られてるのか、とかは年寄りでもよく知らないし気にしてない。実は「歴史」や「伝統」に基本的に興味ないんだろうと思ってます、北海道の人って。生きてく上でそんなの関係ない、〈いま・ここ〉にいて一緒に生きてかなきゃしゃあないんだから、でそのことが何より優先されてきた。だから神社もお寺も同じような意味でしかなく、学校もそれと同じような感じです。そういうゆるい「地元」意識の強さ、ヘンな言い方ですがそれは北海道っぽいのかなあ、と思っています。

 ファイターズだってあれ、勝っても負けてもみんなニコニコしてるじゃないですか。中田なんであそこで一発打たないんだ、だから負けちまっただろう、給料返せボケェ、みたいなのはほんとに薄い。ドームから帰るお客さんたちの顔見てても、今日ファイターズ勝ったのか負けたのかわからないですよ。これ、たとえば甲子園だったら帰りの阪神電車乗ったら一発で、あ、今日タイガース負けたな、ってわかりますよ。そういうのがない。いやぁ、負けちゃったね、でもまあ、明日もあるし中田見れたからいっしょ、で穏やかに帰る。あきらめがいいというか、まさに「なんもだよ」で、こだわりとかそういうのが薄く見えます。悪く言えば「反省」がない。失敗したこと悪かったことを振り返って、よし、次は失敗しないようにしてやろう、的な方向にあまり持続して考えない、「なんもさ」でスルーして、優勝しても日本一になっても「あん時いかったね、いやあ、ほんといかったんだわ」でひとくくりにする。

 北海道的デモクラシーというかナショナリズムというか、別にそんな大層な言い方しない方がいいんですが、とにかく自分たちの日々の暮らし優先、実用本位でつながっている「地元」意識ってのがそれこそゆるく広くあるんだろうと思ってます。それっていわゆる「地域」「地元」意識、おらの村が地元が一番で隣村とはやってけねえ、的な偏屈な自分中心のこだわり方とも少し違う。だって、自分たちの地域以外の地元だってあまりお互いに興味関心ないですもん。道内の他の地域のこと互いによく知らない。でも、「北海道」ってくくりについては「日本一いいところだ」とみんな何となく思ってる。なんかそういうフシギなナショナリズム、地元意識みたいなのがあるみたいですね。

*1:ご当地地元某テレビ局のコメント取材用草稿。北海道ではランドセルを小学校6年間通じて使わないのはなぜか、というお題で。夕方の帯番組のニュースワイドショウ的な番組内でのコーナーもの、というよくある企画。1週間くらいしか取材期間がなかったそうだけれども、でも担当PDはひとりでよくしらべものしてあった。

*2:聞けば、制作会社からの派遣スタッフの由。40代始めでこの業界入って10年ちょっとだそうだが、企画ネタ出しから取材、撮影、編集その他全部ひとりでやらされている、と。予算その他のリソース不足と若い衆はすぐに辞めてゆくのでシワ寄せが自分あたりのところに集中してます、と疲れた苦笑いをしながら話してくれた。

*3:事前に送ってくれた番組構成案のハコ書き冒頭部分抜粋。もちろん取材中なのだから草稿なのだろうが、こちらに連絡してきて取材交渉の段階でこういう台本を示して企画全体の意図や取材過程含めて示して説明してくれる、というあたりからも、このPD氏がいまどきオワコンありありなテレビ業界、それもご当地のような地方民放の末端の現場で淡々とまともな仕事をしている御仁なことがわかった。

*4:で、もちろん以下もコメントの手控え程度の草稿。この通りしゃべったわけでもないし、何より実際の放映では「つまんで」≒編集して使われるのだろうからせいぜい数十秒、そんなことはこちらも承知しているけれども、でも昨今良く言われるそういうテレビ作法の「編集」にしても、取材担当のPDなどとよくすりあわせをする/できる関係で、こうこうこういう文脈でこっちはこういうことしゃべるけどいいかな? 的なことを伝えておけば、まともなPDならその「つまんだ」個所のつまみ方、抽出編集の仕方もそのこちらの発言の意図の文脈に沿ってやってくれるもの、ではあるんだとまだ信じているところはある。まあ、それすらしない/できない「速度」で日々まわっているトーキョーエリジウムなメディアの現状の荒廃ってのもまた全面化してはいるんだろうけれども。