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北海道とマンガ、の関係について考えてみました。これもまた「ホッカイドウ学」の一環です。
去る3月始め、『ホッカイドウ学的マンガ学夜話』と銘打って、札幌市内でトークセッションを行いました。登場してもらったのはNHKの隠れた名物番組『BSマンガ夜話』のレギュラーメンバー、いしかわじゅん、夏目房之介、岡田斗司夫に笹峯あい、という面々。放送自体は現在、一時休止中ですが、その分いつもの番組のノリを思い出すつもりで、北海道とマンガの関係について縦横に語ってもらいました。
マンガに限らず小説などでもそうですが、ある作品や作者とそのゆかりの土地との関係というのは、語るのが実は難しい。その土地、地域で生まれ育ったことと、その作者の作風や作品のあり方がどのように関係しているのか。あるいはモデルとされる場所と実際のその土地との関係というのはどう考えればいいのか。単に印象論で語るのは簡単ですが、ならば実際それを説得力を持って、ああ、そういうこともあるかも、と世間一般の感覚にとって腑に落ちるように語ってゆくのは、さまざまな意味で難しい。
折からこのところ、荒川弘さんの『銀の匙』という作品が話題になっています。荒川さんはアニメにもなった大ヒット作『鋼の錬金術師』の作者として知られる、北海道出身の描き手。そんな荒川さんが次に挑んだのは、北海道にある全寮制の農業高校が舞台の作品。帯広農業高校がモデルと言われていて、現地にはすでにちらほら「聖地」巡礼的な動きもないではないとか。もっとも、作品の大蝦夷農業高校はとんでもない山の中にある設定で、帯広畜産大学に隣接する実際の帯農とはロケーションが違いますが、それでもフィクションの世界を現実に結びつける力を持つ作品、メディアコンテンツが実際の人々を動かすことはこれまでも映画や文学、美術などの領域で起こってきたこと。昨今はそれがマンガやアニメを介して起こっているということでしょう。近年凋落著しいマンガ誌市場にとってもひさびさのコミックス(現時点での2巻分)累計百万部規模のヒットになったと言われるこの作品を糸口にして、この北海道という土地が案外多くのマンガ家を輩出してきた理由について、少しでも迫れれば、という思いでした。
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マンガ家と地域性といった問いは、これまでもないではない。たとえば、高知県や新潟県などは著名なマンガ家を多く出す土地柄と言われてきましたし、昨今ではそれらを逆手にとって地域振興や町起こしに利用しているところも少なくない。妖怪マンガで知られる水木しげるさんと鳥取県、震災で被害を受けた気仙沼市には故石ノ森章太郎さんの記念館もあって復興に努力しています。それ以外でも、美術館や博物館などでもマンガの原画展といった企画は目白押しになっていますし、何より実際の観客動員にもつながっている。マンガを当たり前に読む世代がすでに壮年を超えて老年にまで達し始めているのは、今のニッポンのマンガ状況の強みではあります。
北海道に縁のあるマンガ家は、ほんとにたくさんいます。モンキーパンチに吾妻ひでお、寺沢武一、少女マンガ方面では大和和紀、いがらしゆみこに山岸涼子、山下和美、佐々木倫子、ギャグでも相原コージに唐沢なをき……お好きな方ならどれも、ああ、と代表作やキャラクターなどが思い浮かぶでしょう。このように北海道、実はかなりの「マンガ大陸」であるにも関わらず、それぞれの地元はもちろん、北海道自身にしても、それらマンガやマンガ家との関係をちゃんと自覚したことは、あまりなかったのではないでしょうか。
彼ら彼女ら北海道出身のマンガ家たちの描く作品やその世界に、何か特徴があるのか。当日、会場でもそのへんは議論になりました。いずれ数字をあげたり理論を駆使したりの論証ではないものの、ひとつ言えそうなこととして、マンガ史的に一世を風靡するようなメガヒットの作品、画期的な作風を確立したような、大文字で語られるようなストライクゾーンの作家が少ないこと。その一方で作家として寿命の長い、現役をしぶとく続けるようなタイプが多いらしいこと、などがあげられました。東京に出て頑張ってプロに、といったありがちな経緯だけでなく、地元で同人誌などに描き続けて評価を受けたり、メジャーになってから北海道に戻って地域で生きてゆきながら作品を発表したり、そんな自分の速度に見合った創作活動を続けている例が眼につくのも、どこか北海道らしいのかも、といったことも。ともあれ、今後の展開も含めて、議論の種を蒔くイベントになりました。
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個人的に気になっているのは、何というか、北海道的だなあ、と思わざるを得ないような〈リアル〉の感覚です。生き死にも含めた現実のありように対して、どこか突き放したような淡々とした、「しゃあないべ」ですませて粛々と現実的に対応をしてゆくような、乾いた感覚。でも、と言って決して薄情というわけでなく、むしろココロは素朴に動いているのだけれども、それが明確なカタチとなって表現されることが薄い。ココロとカタチとをつなぐ回路がうまく張りめぐらされてない分、鈍いようにも見えることがある、けれどもほんとのところは……そんな感じでしょうか。
『銀の匙』は、主人公で札幌出身の八軒くんがひとり「異物」として大蝦夷農業高校にやってくるところから始まります。彼の目線、感じ方が読者の側への媒介になっているわけですが、いまどきの若者なりの疎外感、自分の居場所を未だ見つけられない寄る辺なさなどを抱えて閉じ気味な彼が、寮生活前提の農業高校での生活を経験してゆく。実習で可愛がっていた豚を「出荷」して食材として還ってくる過程を淡々とやりすごす、そんな〈リアル〉な現場をひとつひとつ当事者としてくぐり抜けてゆくことで、彼もまたひとつひとつ生身として手応え確かな存在に変わってゆく――連載途中で現在進行形の作品ですが、マンガにとって言わば王道とも言える、主人公の「成長」モティーフが北海道という環境の中にしつらえられていることで、これまであまたあったそれらの作品ともまた少し違う、今の時代状況やそこに生きる〈いま・ここ〉の若い読者のココロのありように寄り添ったものになっているように感じています。
以前、やはり「ホッカイドウ学」の一環でご紹介した、こまどり姉妹のイベントの際、上映したおふたりの記録映画の中に、小さい頃、銭函時代の思い出を語るシーンで、冬場の荒れた海を眼前にしたおふたりが「こういう季節って、よく沖合におぼれてる人がいたりしたのよね~」「そうよね~、こうやって(手を振って)助けを呼んでたりするのよね~」「そうそう、でも助けられないのよね~」「そのうち見えなくなるのよね~」とまあ、何とも淡々と語っていて、状況の深刻さとその乾いた語りとの取り合わせ具合に思わず吹き出すような感覚があったのですが、どこかそんな感じにも近い。
うっかり生き死にに関わるような大変な現実というのはそこら中、何でもない日常に当たり前にあって、もちろんそれは過酷だし残酷だし、気の毒なことではあるんだけど、でも、一歩間違えたらそれは誰もが当事者になるかも知れないような現実なんだよ、というある種諦めの感覚。今はたまたま違う人にとっての現実だけれども、ひとつ間違ったら自分がそうなってるかも、という認識。でもだからと言って、こわいよね、そうならないようにしようね、といった方向にだけジタバタすることを発動してゆくのではなく、むしろ淡々とただそういうもの、の水準にだけしっかりととどまるタフな揺るぎなさに垣間見える北海道らしさ。他人と自分、自然とニンゲン、そんな普遍の二分法を共に等価として、同じものとして平然と橋かけてそこにいる、そういう盤石さの気配がすばらしい。
生きている、ということを確認する作業。きれいごとでなく、露悪的にでもなく、淡々と「そういうもの」として。そのためには死や、そこに至る運命なども同じく、きれいごとでも露悪的にでもなく、ただ淡々と「そういうもの」として認識する度量がないといけない。それがあって初めて、生も死も等価の境地が自分のものになり、それに応じて生きている、ということもその本当の素晴らしさを見せるようになる。
北海道の風土の生んだ表現、は何もマンガだけではありません。言うまでもない。けれども、小説や詩や映画や絵画、彫刻などなど、あまたある芸術一般のいろんなジャンルを超えて、もしかしたらマンガこそが今、北海道のそういう「生」の感覚に最もフィットした表現になり得ているのかも知れない。大げさに言えば、マンガ表現がその読み手との関係含めてこのように成熟することを、北海道の風土の側が、そしてそこに生まれ育った生身の感覚の側が待ち構えていたのかも、とさえ思っています。