「作詞家」と「作詞」の今昔



 「作詞家」という肩書きも、もうあまり見かけなくなった。

 いや、商売としては現存しているのだろうが、それが仕事の肩書きとして眼に触れる機会が少なくなったというだけのことなのか。web検索を叩いてみると、それら「作詞家」志望をあてこんだとおぼしきサイトや広告の類はまだたくさんヒットするし、オーディションやコンテストの類もそれなりにあるらしい。また、昨今のこととて「資格」商法の一環に取り入れられていたり、あるいは専門学校のコースになにげなく組み込まれていたりと、ふだん気づかないものの、「作詞」という言葉自体はある種の創作として、それこそ「クリエイティブ」な仕事として、本邦の世間一般その他おおぜいに向けて、今なお夢を与えるものになってはいるようだが、ただ、よく見ると様子が違う。

「ひと昔前には、作詞家を目指す若者はレコード会社や音楽制作会社を直接尋ねていくことがデビューへの登竜門でした。自分が作詞を担当した曲のデモテープを売り込み、プロデューサーやディレクターに聞いてもらい、デビューや仕事のチャンスをうかがっていたのです。しかし現在のように音楽がデータ化され、メール添付でデータのやりとりができる時代になると、こうした持ち込みはほぼなくなりました。」(ある職業紹介サイトの「作詞家の仕事」)

 「作詞家」になる道としてデモテープの持ち込みが、それもすでに過去のこととして語られている。要はシンガーソングライター、楽曲と一緒に歌詞も作るのが自明の前提で、最初から「歌詞」だけを売り込むようなかつての「作詞家」のルートは、もう想定すらされていない。つまり、言葉としての「歌詞」を「うた」として創作し、文字にするという作業を商売に繋げることは、今の時代、考えること自体もう現実的ではなくなっているということなのか。事実、いま「作詞家」という肩書きですぐに思い出せる名前は、たとえば阿久悠だったり、松本隆だったりする。また、それが昨今、世間の大方のはず。現在第一線で活躍中の作詞家の名前など、誰も気にしなくなっている。

 逆に、曲を作るということ自体、すでにデジタル機器を介したデータ上の作業になって久しい。五線譜にオタマジャクシを書き込むのでなく、キーボードでモニタ上に打ち込む、それも手指と身体で楽器を操ることをせずとも、各種デバイスを使ってひとりで何種類もの楽器の音を作り出し、かつそれらをひとつにとりまとめて編曲さえしてかたちにしてゆくといった段取りがあたりまえというご時世。「歌詞」にしたところで、今世紀に入ってあのボーカロイドが普及してこのかた、半ば自動的に「うたわせる」ことは同じくデータ上で容易になった。仮に歌詞が必要でも曲が先にできていて、それにあわせてつけるのが「作詞家」の、もしもまだあり得るとしたら残された分担らしい。

 だが、かつては必ずしもそうでもなかった。「歌詞」と「曲」とは一心同体、むしろ「歌詞」が先にできて、それにあわせて曲をつける過程が、商品としての「流行歌」の現実の制作現場にはあった。そしてそれは、戦前は大正末から昭和初期、レコードを介して「流行歌」が商品として市場に流れるようになった頃からの、言わば業界の習い性のようにもなっていたようだ。

 とは言え、当時の日本人にとって、曲を作ることと歌詞を書くことの間は大きかった。いかにラジオやレコードを介して「流行歌」が世の人がたのこころをうっかり刺戟するようになっていたとしても、だからと言って誰もがおいそれと曲を作って五線譜に転記することができたわけでもない。なのに、紙媒体としての楽譜は、「十銭楽譜」と称され、レコードと共に爆発的に売れるようになってはいた。

「一方楽譜出版はすさまじいものがあった。当時の楽譜は現在のレコードに比較されるほど有力なものであった。「ハーモニカピース」と呼ぶハーモニカ用の楽譜(ピアノ楽譜とちがうところは、ビアノは本譜、ハーモニカの方は123の数字で書く略譜)と、ピアノ用の大きな版のものと、二種出たがこれまたすごく売れた。(…)当時の大衆の多くは、このハーモニカ楽譜で、ハーモニカを使って流行歌をおぼえたもので、これは現在のギターに匹敵する役割を果した。」(時雨音羽『人生流行歌』有隣書房、1972年)

 大衆楽器としてのハーモニカの役割や、その略譜を介した「うた」の浸透過程などは別途また俎板に乗せたいが、この場でひとまずおさえておきたいのは、紙媒体としての楽譜にもまた、そこに「歌詞」が共に印刷されていたということだ。このへん、レコードに歌詞カード(当時は「文句カード」と呼ばれていたらしい)が附されるようになっていった経緯など含めて、本邦同胞の「うた」がやはり言葉で、それも眼にする文字を介して記憶されるようになっていったという、リテラシーに関する新たな経緯が重ね焼きされている。言葉に曲が、「ふし」がつけられる、それは明治期の演歌師が一枚二銭程度で実演しながら売っていたという歌詞だけのザラ紙の紙片が、より立体的な、身体的な躍動を導き出す媒体になってゆく過程でもあった。


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 言葉で、うたの「文句」をとりあえず自在に考える、そしてそれを「作詞」と考えることの方が、いきなり曲を作ることに挑むより敷居は低かった。だから、その「流行歌」からの刺戟は「自分でもうたってみた」から「作詞してみた」という方向での発露がなされてゆくことになる。もちろん、「ひと山当てたい」「儲けたい」という、「流行歌」ならではの広がりを獲得し始めた市場に向けて、これまたうっかりと解放されるようになった欲とふたり連れで。

「私のところへ、いろいろ歌詞を書いて送つてよこす人がある。みんな、レコード會社へ紹介してくれといふのである。一人で十篇二十篇と書いてよこすなかには、かなりいいものを發見することもある。が、私は、その一篇がよかつたからと云つてすぐその人を紹介するといふやうな輕い考へ方をしたくない。」

 こう言うのは高橋掬太郎。北海道は根室の漁師の子として生まれ、地元の新聞社で記者をやりながら各種創作を手がけた当時よくあった地方の文筆系趣味人で、自身もレコード会社への投稿をきっかけに、昭和6年にあの「酒は涙か溜息か」で作詞家デビュー、戦後も後進の指導に邁進して星野哲郎や石本美由紀などを育てたという、まずは本邦職業的「作詞家」の濫觴のひとり。とは言え、文字のリテラシーからの出自は争えず、作詞は「詩」であり「文学」だ「芸術」だ、と実に調子高く、諭してゆく。

「レコード小唄の眞似は出来ても、文學とはどういふものか、詩とはどんなものか判らないやうでは困る。(…)歌謡の勉強をすることはいいけれど、レコード歌謡の眞似だけではいけない。もつと廣く、もつと深く、文學を學び、藝術を識り、人生を究めなくては、本當に力の入つた作品が描けるものではないと、常に説いてゐる。」(高橋掬太郎「歌謡研究」 佐藤惣之助・髙橋掬太郎『民謡と歌謡研究』所収、1943年)


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 彼は、当時から「歌謡詩人」という言い方もしている。その「歌謡」の部分に込められた内実は、いわゆる「うた」の既存のジャンルなど越えたところにあった。それを可能にしていたのは、「大衆」に向けて「受け入れられるもの」を作るということ。眼前の聴衆ではない、その場にいない顔も見えない、でも確かに自分の作ったものを買ってくれる不特定多数の茫漠とした、新たに現前し始めた広がり。だから、「歌謡」というもの言いも無限に間口を広げられてゆき、定義や枠組みといったたてつけは事実上意味をなさなくなる。耳にするものすべてが「歌謡」であり、それに携わる「詩人」という自意識のたてつけが完成する。そうなると、浪花節もあっぱれ、その「歌謡」になる。

「「唄入観音経」の作者として知られてゐる畑喜代治君の如きは歌謡詩人の出であり、その他秩父重剛君にしろ、水野草庵子君にしろ、此の方の作者のなかには、歌謡も書くといふ人々が多い。いや、歌謡も書くといふよりは、歌謡を書ける人でないと、浪花節の名文句は書けないと云った方が本當かも知れない。」


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 流行歌だから「売れる」ことが目的で、間違いなく「通俗」ではある。しかし、それだけを目的にすることは許されない。そういう感覚がまだあたりまえに理屈抜きに標榜される程度に、時代はまだ大衆社会化の現実に対して、うぶでおぼこで青臭かった。

「このやうに歌謡の種類は多いのであるから、はやり言葉の片鱗を拾ひ集めて、ネー小唄の一篇やハー小唄の一篇を書いたところで、これで歌謡詩人に候とは、世間が認めない、一角の歌謡詩人となるには、特別の天才でまづ五年位、普通は十年以上、みつちりと勉強しなくてはいけない。それも、レコードの文句カードなどを蒐めて、獨り勉強をしてゐる程度では、何時までやつてどの程度に成長するか判らない。」

 一方、同じ時代に「歌謡詩人」になっていた、われらがサトウ・ハチローは、こうだ。

「作詩家は詩人ではない、レコード屋にたのまれて、唄をでつちあげる職人である。」

「「やあ、チクオン機屋さん、いらつしやい」
僕はそのコーヒー店へ這入ると、そこの主人である早大の生徒は必らず、かう聲をかけた。僕は詩人ではない、いままさに立派なポリドールの一員である。僕はチクオン機屋さんと呼ばれてゐる方が、詩人だと言はれるよりずつと嬉しい。」

「僕は、現在蒲田のテーマソング屋の一人である。」

 韜晦しつつの、昂然たるマニフェスト。だが、志は同じ。「作詞」も当初は「作詩」だったようだ。少なくともサトハチにとっては。だから当然「詩人」だったし、そういう前提での扱いをされるものだった。そしてそれは「作曲家」と対等、あるいはそれ以上の関係でもあった。作曲する方も「詩」としての言葉を存分に尊重するし、その上で自分の曲作りの肥やしにもしていた。いい「詩」ができたからこちらもいい「曲」が書けた、といった同志的感覚。「詩」だから当然「文学」である、「芸術」である。そういう権威が「文学」にはあったし、流行歌の制作現場にも「作詞家」を介して色濃く揺曳していた。

 サトウ・ハチロー、戦前昭和初年の浅草徘徊時代のものを眺めていると、とにかく「詩」が次から次へと湧いて出ている。ただ、それを書いたものとして見せるのと、自らうたってしまうのと、表現と伝達については経路が複数あったらしい。「書いた」ものはいわゆる「文学」的な、おそらくは「読む」こと前提の形式の「詩」。人に見せるのも紙に記した状態だったが、ただ、当時の盟友エノケンですらそういうのには素っ気ない。

「僕は、こんな詩を書いて、「どこかに木下杢太郎の匂ひがござるでせう」と鼻をうごめかし(…)エノケンにしめした。エノケンは、「それがいゝんですかね」と、わからねぇが七分、わかッたが三分みたいな顔をした。」

 だが、そういう「書いた」詩とは別に、それを容易に「うたう」ことも彼は日常、あたりまえにやっている。全身で「詩」を生きる、それが習い性となっている中から、流行歌にも小唄にも、あるいは現代詩にもなり得るようなものが日々、湧き出ていた。

「あの頃はよかッた。僕の神経も、いつもたのしくピリピリとふるへて、何でもかんでも詩になつた。唄になつた。ピツコロを聞けば――寒さうな音をお出しなさるなピツコロ殿 そのたは、やつがれのふところ具合をあまりによくごぞんじで――とやるし(…)詩はノートへ書き、友達に聞かせ、節をつけて歌ひ、その日その日にうれしかッたものである。」(サトウ・ハチロー「浅草詩抄」 『昨日も今日も明日も』所収、草原書房、1947年)

「歌謡」と「曲」の来歴

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 戦前、ざっと大正末期から昭和初期にかけて、「童謡」と「民謡」はうっかり隣り合わせになり始めていた。そこでは「童」と「民」、つまり「子ども」と「民衆」≒普通の人々が、共に「謡」≒「うた」を媒介としながら、文字・活字ベースの情報環境で編制された〈知〉の側から改めて「発見」されるようにもなっていた。

 とは言え、ことお題が「うた」という、いずれ生身とからんだ茫漠とした領域にまつわるゆえ、それらの言葉の定義は使う人により、また場合によりさまざまに揺れ動き、それぞれの文脈を落ち着いて斟酌しながら立体的に読もうとしないことには、なかなかその内実にまで届かない憾みが常にまつわってくる。たとえば、こんな具合に。

「童謡とは童心を通してみたる事物の生活を音楽的旋律のある今日の言葉で言ひあらわされた芸文である。」(野口雨情『童謡教育論』、1923年)

「一口に民謡と申しても、その定義といふものは大變に複雑して居りまして、理窟の上から申せば、歌謡といふのも、俗謡、俚謡といふもの、又は童謡といふのも、悉く民謡であつて、昔から古く唄はれたもの、或は地方から發生した唄は、みんな民謡なのであります。」(佐藤惣之助「民謡の研究」、佐藤惣之助・髙橋掬太郎『民謡と歌謡研究』所収、1943年)

 定義自体が目的化するのは、いずれ文字・活字ベースの情報環境で編制された〈知〉の宿痾のひとつではあるだろう。だが、それにしても、これら行儀の良い、だからその分平面的でゲームめいた味気なさもまつわる説明にひとつひとつ律儀に向かい合うだけでは、「うた」としての「童謡」「民謡」がうっかり隣り合わせにさせられるくらいに当時一緒くたに はらんでいたらしいある気分のふくらみについて、〈いま・ここ〉から手ごたえある「わかる」に到達することはできないものらしい。

 「明治初年から民謡は歌われていたが、それは地方でうたわれたもののうちで、座敷唄として適用するようなものを、花柳界で芸者が三味線にのせたのであった。(…)それで、民謡といっても、三味線流行歌のような形であった。レコードができてからも、歌手は芸妓か寄席芸人であった。それほど、民謡は当時百姓唄として音楽界からは重く見られなかった。」(森垣二郎『レコードと五十年』、1960年)

 この時期の「童謡」と「民謡」の隣り合わせは、児童文学と民俗学の本邦近代思想史上の相似という補助線を引くことによって、また別の様相も呈し始める。共に近代的な〈知〉の通俗化と凡庸化の過程にあった当時、それぞれの版図をうっかり拡大してゆくことになったという意味においての、大衆社会化に伴う〈知〉の側からの現実認識、〈いま・ここ〉を把握してゆく新たなたてつけの前景化の過程として。そしてそれは、あの柄谷行人がある時期から今さらながらに柳田國男をあれこれ相手取るようになった、その脈絡の必然ともおそらく重なってくる。

 柄谷的な、あの本邦ポストモダン流儀を愚直に反映した文芸批評の作法に従ってみるなら、「児童」の発見にはそのための「文体」があらかじめ発見されることが必要であり、それゆえ「内面」「自己」という近代的自意識がその輪郭を明確なものにしている必要があった。そして、「児童」は「風景」のように発見されていったというわけだが、それと同じく、「民俗」や「常民」もまたそのように発見されていった過程があったと考えられる。それはいわゆる「現実」の発見、さらに押し進めれば「日常」や「生活」「暮らし」などのもの言いで表象されてゆくことにもなるであろう〈いま・ここ〉をそのように見出してゆくからくりの歴史性にまで敷衍してゆくことになる。あるいはまた、違う方向に視野を広げるなら、柳田的な意味あいとは異なる折口信夫的な意味も含めての茫漠とした「古代」や「むかし」、「文化の古層」といったもの言いによって表象されようとする領域を発見していった過程にもつながると思われる。だが、そのような考察はこの場の間尺になじむものでもない。ここでもまた、初発の問いである「うた」の場所から何度でも、だ。


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 「歌謡曲」という言葉も、最近では使われなくなってきている。

 Jポップなどというすわりの悪いもの言いが一時期編み出され、その後少しは広まったけれども、それも商品音楽の一部のジャンルをカバーする言葉でしかないまま霞んでしまったようだ。まして今やボカロだのYouTuberだのを介した新たな楽曲すらいくらでもwebを介して手もとのデバイスにダウンロードされてくる昨今の情報環境では、そのように日常にあたりまえに遍在するようになった商品音楽をその属性から定義する大きなもの言いは、もはやその必要すらなくなっているのかも知れない。対照的に「楽曲」という、おそらくもとは商品音楽を生産する現場で使われていたような無機的なもの言いが、個々の曲についてのみならず「音楽」一般にまで置き換えられる大きな言葉として、少し前までの「歌謡曲」に代わって使われるようになっているのも、またいろいろ示唆的ではある。

 その分、かつての「歌謡曲」のその「歌謡」の部分がある時期まで独立したひとつの単語として使われていたということも、忘れられかけている。「歌謡曲」とは「歌謡」プラス「曲」であったことの経緯には、その前段の「歌謡」と後段の「曲」とが成り立ちも来歴も別ものでもあったこと、「歌」と「謡」は共に「うた」と読み得ていたのに対して「曲」はそれらと少し距離がある内実を伴っていたということなども確かに含まれていたはずなのだ。

 もちろん、「曲芸」や「戯曲」などのように、それら「曲」という一語に込められてきた意味あいやニュアンスから考えてみようとすれば、そもそもその漢字の本家本元、大陸からの由来や来歴がそこにこってりとからんできていることに思い至らざるをえず、いずれ門外漢には手にあまる。だが、それらを十分承知した上で、とりあえずこの場の「歌謡」プラス「曲」という言葉の成り立ちにおける近代このかたいまどき日本語の脈絡での「曲」について言えば、生身の主体の動作にまつわる「うた」の部分とは別の、それら主体の外側からアタッチメントのように取り付けられる客体としての楽曲の部分、といった意味あいになるだろう。つまり、近代西欧的な意味での「作曲」と地続きな、あらかじめ楽譜に置換され整理された形式で「うた」とは別の主体の制御の下に作り出される生産物としての「曲」、である。そして、その「曲」の部分こそは当時、レコードという新しい媒体を介して拡散されてゆくことになった商品音楽――「レコード歌謡」という言い方もあった――に必然的に伴い始めていた、「作曲家」の手による創作物という新たな属性を付与した「うた」のありようを受止めるために必要だったらしいのだ。

「レコード音楽が成長するとともに、歌謡の詩すなわち歌詩は純然たる文学的色彩を次第に失いながら、音楽と結びついた文字表現の新しいジャンルの芸術として発展していったのである。ここに「流行歌」が普及するとともに歌謡作家という新しい職業が出現することとなった。」(小山心平『我つらぬかむ――作詩家・髙橋掬太郎小伝』(財)北海道科学文化協会、2004年)

 「歌」と「謡」は共に「うた」であり、前者の「歌」が「歌手」に、後者の「謡」が歌の「文句」を創作する「詩人」「作詞家」に、そして「曲」はそれらに伴う楽譜化された客体的な楽曲を創作する「作曲家」に、それぞれ対応していた。そしてそれは、レコードという当時の新しい媒体を介した「うた」の共有のされてゆき方、「流行歌」と呼ばれるようになっていたその「流行」の部分についての当時の情報環境の変貌を期せずして反映した言葉でもあったらしい。

 それらは単に個人の主体的な創作物というだけでなく、あらかじめ不特定多数の読者や受け手を想定したところで作られる、いわば「市場」的な広がりを視野に入れた上での創作という意味において、当時急速に前景化していったものだった。「純粋詩」との対比として「レコード歌謡」「ラヂヲ歌謡」といったもの言いが生まれてきたのはそういうことだ。そしてそれは、あの「純文学」と「大衆文学」という、近代の文学史において定番になっている図式と同じく、今世紀に入ってからそれまでと異なる様相を示して変貌し始めていた大衆社会化の現実に伴い、広義の文学・文芸がそのありようを変えてゆかざるを得なくなった同時代状況の反映でもあった。

 そう考えてゆけば、「流行歌」の「作詞」に詩人が関わっていったことに、何の不思議もない。ただ、いわゆる正当とされる「文学」史のたてつけにおいて、それら「詩」の立ち位置からそれら「流行歌」に手を染めていったかつての詩人たちの系譜は、ほとんど正面から取り上げられることはなかったように見えるし、まして、その彼らの仕事について、その正当とされる「詩」と「文学」の側からでさえも、改めて位置づけ、評価しようとすることなど及びもつかないままだったようだ。それは、吉川英治長谷川伸など「大衆文学」とされた側の仕事が、戦後のある時期までそれら「文学」史の正統の視野にうまくおさまれないままだったこととも、間違いなくパラレルである。

 十代の頃から西条八十に見出され、また、当時のオトコとしては極めて異例にピアノが弾けて楽譜も読めるという、恵まれた生まれ育ちからのアドヴァンテージをフルに活用、早く頃からレコード産業に「作詞家」として関わってきて、敗戦直後「リンゴの唄」で一躍、国民的な知名度を獲得することになった男でさえ、このように愚痴っている。

 「實際こんなにヂヤーナリズム(チクオンキ屋と映畫屋)に支配されてはやり切れない。僕自身のことにしても、自信のあるいゝ唄を作つた時にはきつと映畫會社から文句がくる。


「先生この歌は大變結構です、ケツサクです、でもヒツトにする為には「林檎の唄」のやうなのがいゝやうですな、如何でせう、先生、一つ「林檎の唄」のやうに直していたゞけませんか」


 さうして僕の氣持ちなど少しも考へず、次の如くのたまうのだ。


「先生小説の筋なんかに、こだわつては困りますよ、何でもやんやと大向うから受けるやいに流行語をはさんで、くださればそれでいゝのですよ」


 人と生れて小唄つくりとなるなかれである。」
サトウ・ハチロー+松坂直美『流行歌謡の作り方』全音楽譜出版社 1948年)


リンゴの唄 - 並木路子、霧島 昇 (1946)
 敗戦後、「流行歌」はそれまで以上に大きな市場を獲得してゆく。「歌」も「謡」も「曲」も、それぞれを担当する人間が新たに求められるようになり、だから「歌手」をめざし、「作詞家」を志す世間一般その他おおぜいは沸騰した。「うた」もまた、それまでと違うありようで世間に浸透し、同時代気分の大事な血肉になっていった。

雨情は必ず「うた」にした

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 詩が「うた」であり、「うた」である以上、それは実際に声に出し「うたわれるもの」であったということは、今のように活字・文字を介して詩を「よむ」のがあたりまえだという認識になっていると、すでに気にかけることすらないままに忘れられている。同じく、詩を作る人という意味での詩人もまた、それら「うたう」ことをあらかじめ想定しないのが普通だろう。「吟遊詩人」といった、どこかなつかしい響きを含んだように思えるもの言いもまた、ある歴史的な文脈においてしか通用しなくなって久しい。気ままに、自在にうたい、時に楽器を携え自ら奏でもしながら「詩」を「吟遊」していたと言われる彼らにとって、詩は自明に「うた」であり、肉声を介した音や響き、リズムなども含めた「節」の属性も当然に含まれているものだったはずだ。

 とは言え、詩人がそのように当然に「うたう」ものでもあったことは、本邦においても、書き言葉を介した散文が音読、朗読されるのがあたりまえだったのと同じように、ある時期までそう異例のことでもなかったらしい。

 たとえば、野口雨情。北原白秋西条八十と共に、童謡界の三大詩人などと呼ばれる御仁だが、いわゆる大正期の「童心主義」系のムーヴにおいて、これまで言われてきた文脈とは少し違うところで、「うた」をめぐるもうひとつの歴史の相に関わる重要な位置を期せずして占めていた気配のあることを、かつて朝倉喬司が鋭敏にも指摘している。

「雨情が童謡を書くにあたって、対象として想定した子どもは、まずなによりも「境界」上に心身をあそばせる存在としての「子ども」だった。このことは、ひとり雨情に限らず、大正童謡の形成全般のキーポイントであり、(…)北原白秋においては、彼以上に自覚化された、表現の問題だった。異界から、あるいは民俗の古層から境界域ににじみ出してくる、容易にはコトバにならぬ信号、これが雨情における「声」だった。それにその「声」は、あらかじめ歌に連動すべきリズムと抑揚を内包した「声」なのである」(朝倉喬司「民俗の古層からの「声」」、『流行り唄の誕生――漂泊芸能民の記憶と近代』所収、1989年)

 わかったようでわからない文章、と微妙な顔をするなかれ。これは朝倉の文章が難解というのではなく、もともとこれら民俗レベルまで深入りするイメージや想像力の水準での人のココロのささやかな動きや気配を察知するためのことばやもの言いとは、輪郭確かな概念や術語による規矩明らかな細工もののようなわけにはゆかない、それゆえの読み取りにくさ、なのだから、しばしご辛抱を。

 こういうことだ。この世とあの世、というのは常にそんなにはっきり線引きされたものでもなく、日々生きて棲んでいる眼前の現実とは異なるもうひとつの現実の手ざわりや確かさも含めて、初めて〈リアル〉である、と感じられるような事態が、どうやらわれらニンゲンには訪れるものらしい。その程度に現実とは〈それ以外〉と隣り合わせになっていて、だからこそそれらは、「境界」と仮に言いならわしておくしかないようなあいまいな領分をどこかに隠し持っている。そのような意味で、子どもは〈それ以外〉に半身を浸した存在であるし、ゆえにうっかりと「異界」や「民俗の古層」とでも呼ぶべきもうひとつの、水準の異なる〈リアル〉の気配をこの世に伝える媒体ともなり得る。だが、それは明示的で理にかなった表現、意味のたてつけに収納され得る範囲を越えた向こう側の「声」や「音」、生身の「気配」やそこにある「感じ」などの融通無碍な領分を自在に駆使して迫ってくるようなものになる。「あらかじめ歌に連動すべきリズムと抑揚を内包した」という部分は、そのような意味で読まれるべきなのだ。

 そのように「雨情の詞のコトバがもともと「声」をひきよせ“内在的に”歌を成りたたしめる方向に成立していたこと」からの一点突破で、ここでの彼は「当時の童謡(詞)にはかならずしも歌がついてなかった」こと、そしてそれら活字・文字として表現された「よまれる」べき詩として作られていたはずの童謡が、読み手の側で勝手に気ままに「節」をつけて「うたわれる」ものになっていたらしいことなどと共に、雨情とその作物が当時の「童心主義」系ムーヴにおいてうっかりと占めていた独特の立ち位置について、果敢にほどこうとしている。おお、その志やよし。及ばずながら自分もそれを受け止めて、先へ行こう。


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 近代的な文学作品としての詩の脈絡に「童謡」は現われた。とは言え、「当時、「童謡」という語は一般人のほとんど使わない特殊なタームであり、もっぱら子どもが歌う歌をさすコトバとしては(学校)唱歌とわらべ歌の二つが一般的だった。」(朝倉、前掲書) 「よまれる」詩の形式として「童謡」は、少なくとも作者においてそのように意識され、実作されるもので、だからこそ「児童文学」の脈絡で当然のように「評価」されることにもなってきている。

 それら児童文学史の標準的な「童謡」理解は、たとえばこんな感じになる。

「大正期童謡は、その詩精神において、そしてそのメロディーにおいて、前代の唱歌を完全に克服し、その新しい芸術的開化のゆえに、限られた階層の子どもたちにだけでなく、およそ同時代に生きる日本のすべての子どもたちに迎えられたのであった。〈国民的児童文学〉というのがわたしの理想とする児童文学の在り方であるが、大正期童謡のいくつかは、その概念にもっとも接近していたと言って過言ではない。」(上 笙一郎「「赤い鳥出身の童謡詩人――赤い鳥童謡会から「チチノキ」へ」、『赤い鳥研究』、1965年)

 「よまれる」詩としての童謡という形式は、文字で表現されるものとして理解され、また実際、だからこそ普及した。雑誌『赤い鳥』を主宰していた北原白秋は、彼を師と仰いで自分たちも実作したいという全国の読者たちを組織し、運動的なムーヴを起こそうともしていた。それは同じ時期、雑誌を介して読者を組織し、ある種の歴史認識の改革を運動として画策していた柳田國男の初志とも共通する、同時代の情報環境に足をつけた内実をはっきりと持っていたはずだ。だが、それは「流行り唄」としての「うた」が「流行る」メカニズムの、民俗レベルも含めた来歴とは、また別のものだった。

 一方、雨情はというと、「童謡」というたてつけで詩作をしながら、同時に「民謡」にも意識を開いている。

「それまでの雨情は、札幌や小樽の新聞社に転々と籍をおいたり、故郷にもどってまた出奔したりの“放浪生活”を送っていた。在来の俗謡や俚謡からモチーフやコトバを詩にくりこんだ「民謡」(当時にいう俗謡、俚謡が現在民謡といいならわされている)を主体にした彼の詩は、自然主義象徴主義隆盛期の詩壇、文壇の主流からはずれざるをえなかった。大正期に勃興した『赤い鳥』『金の船』などによる童謡運動、あるいは、時期的にほぼ併行した流行歌の台頭がなかったら、詩人としての雨情はおそらく無名のまま、その生涯を終えただろう。」(朝倉、前掲書)

 この雨情に才能を見出され、戦前から戦後高度成長期にかけて活躍した作詞家に時雨音羽という御仁がいる。フランク永井の「君恋し」の作者と言えば、作風含めて何となく、ああ、と思われるかも知れない。この音羽氏、北海道は利尻島の出身で日本大学卒業後は一時、大蔵省に勤めたという経歴の持ち主。先に触れたような「児童文学」系ムーヴとは、おそらく縁の薄いところで自己形成されていた人と考えていい。

 その彼が書き残した、雨情との出会いの場。大学法科を終わろうとする時、関東大震災に遭遇、落胆している時に友人から同人誌に誘われた。だが、下宿の女主人が「自分に天分があるかないかを見きわめないで文学になどに手を出すことは危険である。幸い私は有名な人を知ってるからその人に作品を見て貰って自分を確かめてからにしなさい」と説教の上、添書きまでしてくれ、草稿を持って雨情のもとを訪れたとおぼしめせ。時は大正13年、春3月の東京は巣鴨

巣鴨宮仲にあった雨情さんの宅を訪れたのは夜であった。格子戸の玄関のある平家で古い借家らしかった。若い奥さんに案内された六畳ほどの部屋でかしこまっていると、やがて和服姿の雨情さんが現われた。四十がらみの小柄な人で、きれいな目にいいしれない光があった。「えらい人だから……」と下宿の女主人にいわれたが、ちっともえらそうでない。しきりに武田さん(下宿の女主人)と私の関係をきく。わけを話して私は持参の風呂敷包から、自作の短章、四、五十篇を出した。雨情さんはそれを幾度も繰り返しみていたが、その中の一篇を指して「これはあなたが本当に書いたものですか」と私の顔を見た。目がキラリと光って射るようであった。そうですと答えると、どこで着想を得たかという。駒込から下って私の下宿先初音町へのぼる途中の料亭にその札が貼ってあった。女の人がそれを見上げていたのが印象的だったので、それを素材にしたと答えると、雨情さんは大きな目でふたたび私を見詰めてから、うなずいてやがて鼻のつまったような声で歌い出した。」

はすかいに 貼るものですよ うり家札
わらうでしょうね 待合の
おかみが男に だまされて
家を売ったと きいたなら

 その時の「うり家札」の一節。小唄か都々逸のような調子だが、音羽自身がこれを「詩」として同人誌に出そうとしていたとこと、さらにこれらの詩作が雨情の紹介で同名の「民謡集」として出版されたということにもひとまずご留意の上、再度経緯を確認。

 見て欲しい、と持参し示された文字の詩編を、最初は「みていた」雨情が、その詩編の着想をどこで得たかを尋ねる。音羽が遭遇した場面を説明することで、おそらく雨情の裡に何か具体的なイメージとしてその詩の宿った情景が合焦してゆき、ある確かな情感と共に〈リアル〉なものへとみるみる変貌してゆくことで、何か感じ入るものがあったのだろう、次には自ら「歌い出した」。

「何回も何回も繰返し低い声で歌ってから奥へ向かって、「酒もってコウ」とどなった。やがて六、七歳の女の子が銚子を捧げるようにして現われた。(…)のちに雨情ぶしといわれた雨情独特の節まわしは、えんえん、めつめつとして銚子四本をひとりで空けるまでつづいた。」(時雨音羽『人生流行歌』、1972年)

 すでに「船頭小唄」などで流行歌の作詞家として名声を得ていた雨情だが、このように「うたう」のは習い性だったようで、その「船頭小唄」にしても「(作曲者の)中山晋平は、この曲について「野口さんが気分まかせの節をつけて歌っていたので、その節を土台に、少し修正を加えただけですよ」と語った」由。「童謡」と「流行歌」の間をつなぐ「作曲」は、その頃にはこのようにあり得るものだったらしい。

「憲法違反」と留学生問題、他

① 学問の自由の侵害と言われたことについて

 1月の3回目の裁判の準備書面において札幌国際大学側は、なんと留学生に日本語能力を問うことが「学問の自由」「大学の自治」に抵触するおそれがある、と主張してきました。学ぶ意志のある者の自由を阻害する、という理屈のようですが、話にならないのは言うまでもなく。これだと、大学の入学試験自体がそもそも憲法違反という理屈になりますよね。

 逆に日本人が海外の大学に留学する際にも、たとえばアメリカの大学ならTOEFLその他で英語の能力問われるのはあたりまえですよね。日常会話ならいざ知らず、大学という高等教育の場で使われる外国語としての日本語が理解できなければ、いくら熱意だけがあっても現実に教育の実はあがるわけがない。もう、こうやって説明するのもバカバカしい主張ですが、仮に裁判における戦術だとしても、こういうバカバカしいことを法廷に提出する準備書面に平然と書いて主張してくる、そこまで論理的思考ができなくなっているのが札幌国際大学の経営にあたっている法人だということを証明しています。

 こちらが主張している留学生入試や在籍管理のコンプライアンス違反やガバナンスの不適切について、反証をあげて反論してくることができないらしくて、こういう大風呂敷をいきなり広げてきたというのはあるでしょう。また、憲法をひきあいに出すのは「最高裁までいくからな」というブラフの意味もあるようで、これは裁判所に対する牽制も含めてなのでしょうが、ならば上等、こちらも最高裁まで憲法判断を求めることもやぶさかではありません。それくらいメチャクチャな状態になっています、札幌国際大学の問題は。

 実際、本訴とは別に先日高裁で棄却された自分の仮処分申し立てにおける大学側の主張でも、実際に大学が教員を雇用しても、大学の図書館その他の研究施設を使わせる権利まで自動的に付与するわけでもなく、また特定の講義をもたせるとは限らない、と主張していることも、これまた「学問の自由」「大学の自治」に抵触するおそれのある議論になってくるわけで、これはもう最高裁に抗告する手続きをとりました。


② 中国の侵略を肌身で感じられるか? 事例をあげてください

 大学で日々の仕事をしている限りはそういう実感は正直、薄かったですし、「侵略」と呼ぶような事実もまあ、なかったと言っていいかも知れません。

 ただ、たまたま懲戒解雇を喰らって裁判沙汰になったことで、いろいろ勉強したり取材したりすることがたくさんあったおかげで、ああ、これは「侵略」という言い方が適切かどうかはともかく、何らかの意志が働いてこうなってきているんだな、ということは実感するようになりました。それが中国という国家なり何なりの意志かどうかまではわかりませんが、少なくとも中国側とこちら日本側とのある部分、ある組織などが複雑にからんで、結果的にこういう事態になってきているんだな、と。

 大学の留学生というたてつけで労働力としての外国人、実質中国人を大量に入れよう、という目的にために、「大学」という聖域をそれこそ「学問の自由」「大学の自治」など戦後憲法の枠組みを利用して治外法権にした、それは戦後このかたの過程の上にそうなってきたところがあるわけですが、それを逆手に取って、大学にだけはN2の日本語能力を文書その他にはっきりと明言しないままだったわけです。日本語学校などにはN3とか明言して指示しているにも拘わらず、大学だけは「そんなこと言わなくてもあたりまえだよね、高等教育機関だし、それくらいわかりますよね」ということなのでしょう、いずれにせよN2明示をまずしてこなかった、2年前に東京福祉大学の一件が露呈するまでは。

 結果的にグレーゾーンをつくる抜け穴をそのままにしておいた、と見られても仕方ない。政策的な意図があったかどうかはわかりませんが、文科省が結果的にそういうことをしていたのは事実で、それを悪用して何でもかんでも「大学側の解釈の範囲」で留学生を入れまくるビジネスモデルをやらかす私大がたくさん出てきた。それらの結果の「留学生三十万人計画」の目標達成でもあったように思います。

 例の前川の片腕の嶋貫和男理事が、国際大学の経営戦力委員会というところで「N2どうこうは大学の運用によって解釈の幅があるので」といった発言をして、それをきっかけに大学側の暴走が加速されたということは、議事録その他で確認しています。ということは、文科省時代にこういう認識は省内で共有されていたのでしょうし、その上でそのようなビジネスモデルを結果的に後押しするようなことも、全国的にされていた時期があったんだろうな、と。

 ただ、国家安全保障の観点から、外国人留学生についての政策転換がされるようになり、労働力としての外国人は留学生枠ではなく研修生なり何なり別の枠組みでするようになりつつある中、これら古い留学生ビジネスモデルは清算されるべき時期になっています。それは日本語学校などでは数年前から予測して動いてましたし、大学でも留学生はこれまでよりずっとハードルを高くして精選して入れるような仕組みに変えてきています。なのに、そのタイミングで国際大は古いワヤなビジネスモデルに飛びついてポカをやらかしたということでないかと。


③ このままいったらどうなるか。

 大学については、国際大は早晩、留学生ビジネス破綻で大学自体、危機に陥るでしょうが、その他の大学の留学生ビジネスは新たな状況に対応しながら、粛々と維持されてゆくとみます。日本語学校も少人数で精鋭を育てるような、外国人留学生向けの大学予備校みたいなビジネスモデルに移行していますし、実際東京などもう中国人経営のそういう中国人向けの大学予備校ができて動き始めています。

 観光と同じで、中国人が中国人留学生のために高校や予備校から大学まで、言わば一貫教育でシステムを整えてきているとみれば、国際大の問題はそのバグみたいなポカの例にすぎず、本体の思惑やシステム整備は今後も行われてゆくでしょうし、それは大学からあと、日本国内に中国人向けの就職先を準備することと連動して、結果的に「侵略」と見ていいような事態がどんどん露わに、普通の日本人の眼にもあらわになってくると思います。

*1

【ch桜北海道】いよいよ危険水域!中国の侵略が進む北海道[R3/1/21]

*1:以下の番組のための事前取材といった形の質問に対するメモ。20分頃から

「外国人留学生ビジネス」利権の背後にある文科省

*1
*2

 ごぶさたです。大月隆寛です。かつて、「つくる会」2代目事務局長をつとめさせていただいていたこともある、あの大月です。

 とは言え、いまやもう四半世紀も前のこと、今の会員には、何のことやら、という感想が大方でしょう。今回、何かのご縁でまたこのように「つくる会」の機関誌に顔を出す機会を頂戴しましたが、まずはあれこれ型通りなご挨拶などよりさっそく本題を。

 すでに報道その他で何となく耳にされている向きもあるかも知れませんが、自分は去年の6月29日付けで、2007年以来足かけ13年間、籍を置いていた北海道の札幌国際大学という大学から「懲戒解雇」という処分を受けました。

 理由は、その大学で2018年度から新たに導入した外国人留学生をめぐる入試のあり方や在籍管理等、制度の運用にさまざまなコンプライアンス違反、ガバナンスの不適切な状況が学内で生じていて、それを当時の城後豊学長以下、学内の教員有志らと共に何とか是正しようと努力していたのですが、それが大学法人側の経営陣によってことごとく阻害され、学長は手続きも不透明なまま事実上の解任に等しい仕打ちをされるまでになっていた。なので、致し方なく外部の関係諸機関、文部科学省出入国在留管理庁、労働基準監督局から札幌弁護士会などにそれら内情を訴え、各報道機関にも協力を求めて世間の眼から公正に判断してもらおうとした――まあ、単にそれだけのことだったはずなのですが、なぜか、それら一連の行動が「懲戒解雇」にあたる、という判断を、法人側お手盛りで立ち上げた賞罰委員会による強引で一方的な答申に従うという形で、弁護士でもある上野八郎理事長自らこちらに申し渡してきた、とまあ、ざっとこういう顛末でありました。

 当然、これは報復的な処分であり、解雇権の濫用、内部告発者と目した者に対する見せしめ的な恫喝、威圧でありハラスメントでもあると考えざるを得ず、地位保全等を求める仮処分の申し立てと共に、民事での訴訟も札幌地裁に提起させていただきましたが、仮処分の申し立てはなんと地裁では却下、高裁に抗告するもこれもつい先日、1月下旬に棄却されたので、現在、最高裁に特別抗告の手続きをしています。一方、本訴の方はというと、昨年10月より開始され、冒頭陳述を自分自身で行った後、現在公判が進行中、次回は3月上旬を予定していますが、まあ、向こう数年はかかるでしょうし、相手側も現状、その先まで戦う構えですから10年戦争も覚悟しています。

 なんだ、地方の小さな私大の内輪もめ、よくある内部紛争か、と思われるでしょうが、しかし、どうやら事態はそんな局地戦を越えて、「留学生30万人計画」時代の外国人留学生ビジネスを支えてきたからくりのようなものが、期せずしてうっかり見えてきてしまったようなのです。つまり、少し大げさに言えば、文科省とそのOBを介した外国人留学生ビジネスを取り仕切ってきた利権構造との戦いらしい。こう言えば、教科書採択などをめぐって文科省との丁々発止を繰返してきた「つくる会」のみなさんにとっても、ああ、そういうことか、と腑に落ちるところは、少なからずあるのではないでしょうか。


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 紙幅が限られています。もろもろ端折って骨組みだけまとめて投げておきます。

 おそらくは「留学生30万人計画」を達成する目的ともあいまって、文科省が国内の大学――要は私立大学に、留学生を実質国内の単純労働力補填という意味あいも含めて大量に受け入れやすくするための政策的なたてつけの一環として、言わば「抜け穴」を作っていたらしい。

 「大学」を憲法23条の「学問の自由」「大学の自治」を盾にして「治外法権」「聖域」化し、外国人留学生という、これまでの日本人学生と意味の違う学生を受け入れるに際して、法務省(入管)その他が直接手を入れられないようにした。そして、入学に際して当然問われるべき日本語能力について、明確な基準を極力文書化しないようにして、申し合わせ程度のやり方で慣習的・常識的な縛りとして、あいまいにしてきていた。その一方で、大学以外の日本語学校などに対しては、留学生の入学に際してN3,N4など日本語能力の基準を明示して、その入学資格を文書化していた。

 つまり、大学「だけ」は入学資格についての日本語能力をあいまいにして、それぞれの大学(つまり私学です、国公立は直接管理できますから)の「裁量範囲」がある、というたてつけにし、グレーゾーンを意図的に作ったのではないか。しかも、日本語学校から大学へ入る際の入学基準についても、日本語学校入学時と同様、日本語能力の基準を明示しているのですが、かたや海外から直接国内の大学へ入ってくる留学生について「だけ」は、ここでもまたそれら日本語能力の基準は明示せず、結果的に大学の「裁量範囲」任せにしてあります。もちろん、現場があまりワヤなことをしないよう、必要に応じて文科省は「後見的に指導助言」はするけれども、それは暗黙の裁量範囲で伸び縮みするし、何より「私立大学」のことですから、問題が顕在化しない限りはお手盛りでどうにでも、ということにもなり得ます。

 京都育英館という日本語学校が、当時の外務省の領事館を介して中国の瀋陽日本語学校をまず作って、そこから直接国内の大学に留学生送り込むシステムを確立し、現地のエリート家庭の優秀な子弟に特化したやり方で、すでにここ20年来結果を出しています。ここは最近、北海道の苫小牧駒澤大学稚内北星大学などを買収し、事実上留学生専門の大学に変貌させつつあるのですが、実は札幌国際大も同じ瀋陽にある日本語学校を「海外事務所」として看板を与えて、そこを経由して直接留学生を送り込むやり方を採用していたことなど考えあわせると、これら一連のビジネスモデルは、ある時期の文科省の政策的思惑と合致した、もうそれなりの年月、すでに稼動してきたものなのだろう、と考えざるを得ません。

 少し前、文科省天下り問題で槍玉にあげられた前川喜平という元文部次官がいます。最近も新聞や雑誌その他で盛んに政府に対する批判的なコメントなどをしてマスコミ文化人として世渡りしていますが、この前川氏の天下り利権の元締めとも言うべき番頭格だった嶋貫和男という文科省OBが、数年前から札幌国際大に関わっており、昨年4月からは理事として堂々と表に姿をあらわすようになっています。この嶋貫氏が一昨年の学内の経営戦略委員会で「留学生の入学資格については大学の裁量範囲が……」という趣旨の発言をして、そこから大学法人側の暴走が加速されてことが内部資料から確認されています。また、自分の裁判においてもここにきて大学側が「留学生の入学基準にN2など日本語能力の枠をあらかじめはめるのは、「学問の自由」「大学の自治」に反する「憲法違反」のおそれがある」などという、ちょっと見には眼を疑うような主張をし始めているのですが、これもまた、嶋貫氏や前川氏が文科省内部にいた現役時代に熟知していた留学生ビジネスを支えるからくり、当時の文科省の政策的たてつけを反映した文言ということなのでしょう。

 ざっとこのような次第で、自分の「懲戒解雇」はどうもうっかり妙なもののシッポだか小指だかを踏んでしまっていたゆえのこと、らしい。

 とは言え、このような留学生ビジネスはすでにもう、外国人に対する国際情勢の変化に伴ったより大きな国策レベルでの政策的変更が明らかになってきている昨年半ば頃から、当の文科省自身、大臣発言として「見直し」を明言もしているような、その意味では早急に清算せねばならない「過去の遺物」になっているはずです。何より、一昨年の夏に東京福祉大学という私大が留学生の在籍管理の不手際から大量の行方不明者を出して問題化し、その後も文科省と入管共同の「措置」が行われたにも拘わらず、ガバナンスの不適切が再度あらわになっていたりと、どうもこの「過去の遺物」のはずの留学生ビジネスモデルは、ちゃんと始末されないまま往生できずにのたうちまわっていて、当の文科省自身、手をつかねて枯死、自然死を待つしか打つ手がないようにすら見えます。

 文科省が管轄する「教育」「文化」「スポーツ」「アート」、さらに「宗教」「信仰」なども含めた領域が、互いに癒着しあいながら「戦後」の環境で予想以上に妙でいびつな「治外法権」「聖域」をつくってきてしまったらしいこと。それらが「大学」に限っても、自浄のしにくい構造を温存してしまっていて、たとえば先の日本学術会議をめぐる問題なども含めて、単に「教育」の問題というだけではない悪さを下支えしてきているように、自分などの場所からは見えます。自分ひとりの身分がどう回復されるか、以上にもはや、それら少し前まで稼動していた利権構造の清算を意識しないことには、この戦いの見通しはつけられないと腹をくくり始めています。

*1:あたらしい歴史教科書をつくる会、の機関誌『史』掲載原稿。

*2:表紙に高市早苗センセと並んで名前が……