“高偏差値ヤンエグ女”の顔

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 最近、歳の頃ならおおむね20代末から30代後半、“女ヤンエグ”とでも言うべき高学歴高偏差値女性たちのツラの卑しさ、不愉快さがどうも気になっている。こんなこと言うとまたいたずらにわけのわからない反応が返ってきそうでまずいのだが、しかし、もの言いのずさんさ不用意さをひとまずのおわびと共に棚上げして言わせてもらえば、これはかなり根深い問題を含んでいるかも知れないという予感だけは確かにする。だから、まとまらないながらここらで共通の問いとして投げ出しておきたいのだ。

 最初は湾岸戦争の時だった。いや、当初は「紛争」だったが、いずれにしてもあの時とっつかまった日本人商社マンやら何やらのカァちゃん連中のツラを見て感じたあの“いやな感じ”がそれを自覚し始めた最初だった。なんちゅうのか、高校あたりでクラスに何人かはいたいわゆるデキのいい女たちのなれの果て、ということが一見してピンときたのだ。あ、わが世代の高偏差値女どもはこんなところにたむろしてやがったのか、というある種のカンドーすらあった。中にはガキ持ちもいたが、それがまた軒並み判で押したような帰国子女ヅラで、こいつら日本に帰ってきたら四谷か三鷹のヤソ大学あたりで「比較文化」やら「国際関係」やらうわついた調子でなぞりやがるんだろうなぁ、と理不尽に怒りに血圧上げる程度にはその“いやな感じ”を共有してやがった。ダンナたちは40前後くらい。なるほど、今のこの国でゼニカネにひとまず不自由しないですむエリートビジネスマンの妻子、ってのはうっかりすりゃこういうツラになる可能性もたっぷり含んでるんだな、という意味でも感慨深かった。

 で、それ以来その“いやな感じ”について考えを先に進めることもないまま放ったらかしておいたのだが、先日『日経ウーマン』とか言う雑誌の特集を何気なくめくっていて、おいら本当にあっと叫んでしまった。いたのだ、あのテのツラがずらり数ページにわたったびっしり顔写真として並んでいた。働く女の元気、みたいな特集だったと記憶するが、カメラに向う表情や化粧の具合や服の趣味などから判断するに、どいつもこいつもセルフイメージが小宮悦子や宮崎綠。つまりニュースキャスターなのだ。

 業種はさまざまだが総合職が多い。といって、この先自分たちが起業の中で責任ある中核になってゆくという自覚は具体的に希薄。そしてたとえば、はっきり言わないまでもまずフェミニズムフェミニズムに象徴されるこれまでの声高の権利主張をどこかで馬鹿にしているか、でなければ理屈としては理解できるものの自分と関係ないものと思っている。そのくせ“ネットワーク”は好きで女同士ならなお良く、妙な異業種間の集まりも積極的に組織する。とは言え、話を聞く限りでは単なる女子大のサークル。具体的な“力”を宿すとはちょっと思えない。

 なんなんだろう、これ。手持ちの材料だけでむりやり指標を設けて言えば、男女雇用機会均等法以降の高偏差値女性の意識の具象化、と言えるのかも知れない。しかし、性急な解釈は禁欲しておこう。企業社会に入った男たちが未だ数年ももたずに一律に同じようなツラになめされてゆく一方で、その変形の力から遠いはずの女たちの間にまた違った難儀が存在し始めているらしいこと。そして、それをことばにする仕掛けが今の世間にはまだないらしいことを指摘して、この“眼前の事実”をどう扱ってゆくか、少しゆっくり考えてみたい。

*1:『俄』057 「前線からの1,200字」欄掲載 「萩 龍民」名義