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去る八月末にJRAから示された地方競馬振興のための提案は、ちょっとした驚きでした。一応の解釈としては、不振の一途をたどる地方競馬にJRAが救いの手をさしのべた、ということのようです。で、それは基本的にいいことだ、とひとまず素直に思います。
言うまでもなく、この国で生まれる軽種馬の半分は地方競馬で走らねばならないのですし、現役競走馬の流通も同じく地方競馬が底辺を支えています。もっとも、この流通がらみの現実はなぜかJRAはおおっぴらに語りたくないようですが、何にせよ、仕事として競馬に携わる人間ならば誰もが知っているはずのこれら当たり前の常識が、外に向かって言葉にされてこなかったことがこの国の競馬にとってどれだけ不幸なことか、心ある人ならすでによくわかっていることのはずです。その意味で、地方競馬の衰退はこの国の競馬全体の問題だ、ということをJRAが本当に正面から認識してくれた結果の提案なら、これは間違いなくひとつの進歩ではあります。
ただし、これが中央競馬の馬房の不足分を補填する外厩として、そして新規建設の難しい場外馬券売り場として、地方競馬を中央競馬の二軍状態にとどめておくことを追認するための布石なら、ちょっと待った、と僕は言わざるを得ません。
確かに競馬は仕事です。仕事である以上ゼニカネです。しかし今、この国の競馬にとって、ゼニカネの問題と裏表になっている大きな問題は、競馬を仕事としている人間、とりわけこの場合、競馬場の外側で生産と流通に携わっている人たちが自分の仕事にどのように誇りを持つことができるかだと、僕はずっと思っています。その意味で、これは正しく第一次産業の問題として農政問題の一環に位置づけられるべきものです。多くの競馬評論家の言うように単に競馬というレジャー産業の問題として第三次産業的にだけとらえることは、これまでと同じように、“人気”と引き換えに膨れ上がっていった消費する観客の傲慢と横暴に押し流されるだけに終わるでしょう。つかみガネをいくらもらったところでこの先、子供や孫の代まで続けてゆける仕事としての誇りを持てる目算がなければ、国際化も強い馬もヘチマもありゃしない。それは、別に競馬に限ったことではない、今のこの国の農業そのものが直面している難儀を見ても、すでに明らかじゃありませんか。
ゼニカネの現実をきちんと見つめようとする態度は、ゼニカネ抜きの空論に悪酔いするよりはるかにましです。しかし、眼の前の苦しんでいる者に対する想像力が、どうせカネ欲しさなのさ、というだけにとどまっていては、それはやはりゼニカネ抜きの空論と同じ水準、最も貧しい意味でのリアリズムでしかありません。馬に携わる人間たちの一部が“カネさえつかめばあとは野となれ”式の発想で仕事をしてきた経緯も確かにありますが、だからと言って、今や好むと好まざるとに関わらず、大所高所に立ってこの国の競馬全体を見渡した施策をせねばならない責任ある立場にあるはずのJRAの世界観が、そのようなシニカルで痩せたリアリズムに縛られたままでは、この国の競馬の将来もまた知れたものです。
先日、村山首相がアジア歴訪をした際、マレーシアのマハティール首相は「日本は半世紀も前のことをあやまってばかりいないで、未来に向けてリーダーシップを自覚して欲しい」と言いました。全く同じことを地方競馬関係者や生産者は、同じ日本人、同じ競馬に携わる者としてJRAに正面から言わねばならないと思います。カネがなければやってゆけない、けれどもカネだけで仕事を支えてゆけるものでもない、そのあたりの健康な感覚というのを、ひとりケタはずれのカネ持ちになってしまったJRAにわからせること。これは競馬の南北問題です。ODAのカネをいくらバラまいても尊敬されない、いつもどこか疑わしいものとして見られてしまう、そんな昨今のわがニッポンと同じ立場に、JRAもまた置かれてしまっていないか。僕はそれを危惧しています。