「センセイ」という幻想

 幻想があくまでも関係性の中で立ち上がるものである以上、「センセイ」幻想も単なる一方の勘違いというだけのものでもない。生徒の側がそのような幻想を作動させてゆく事情というのも、ことの半分として充分に存在する。

 これまで述べてきたような予備校の場合、生徒の側から見た「センセイ」は、おそらく、のべたらにくだらないものとして認知されていった「学校」との距離感で、時に不均衡に輝かしいものにもなっていった。とりわけ、それはさまざまな文脈で「学校」の神話性が完膚なきまでに世俗化させられていった八〇年代の過程において、顕著なものでもあった。

 「学校で教えてくれないこと」「学校では聞けない話」がその場合、「センセイ」神話を立ちあげる媒介項になる。それは具体的には、受験についてのミもフタもないリアリズムに即した話だったり、あるいは学校そのものをめぐる裏話だったり、時に「世の中」をめぐる床屋政談的な解釈譚だったりする。いずれにせよ、「リアルなもの」「信じるに足るもの」という意味が付与されるようなものではあるが、そのように扱われるのは、「学校」においては通常そのような「リアル」で「信じるに足る」話は存在しないという欠落感を前提にしている。

 彼ら彼女らは、たとえばこんな感じで「センセイ」に近寄ってくる。

 授業の後、何となくそばへ寄ってくる。この場合、具体的にどのような話をしたいのか、ということは当人にもよくわかっていない。授業の内容についての質問というようなわかりやすい形をとることもないではないが、それよりもむしろ、自分でも良くわからないけれども何か個人的なところで言葉をかわすような可能性を持ちたい、という程度の場合の方がずっと多い。だから、何となくそばへ寄ってきてはとっつき悪そうな顔で立っている。といって媚びる風でもない。何人か集まってきても、自分から発話せずにじっとこちらの言葉に耳傾けている、という程度。要するに、それまでほったらかしだった自分の内面に突き刺さるような言葉の存在に直観的に気づいた、てなものなのだ。

 もちろんそれは性的存在としての自分という部分も含めてのことだから、「センセイ」が男性か女性か、そしてまたその生徒が男子か女子かによって変わってくるのだが、何にせよ学校的空間の約束ごととしてその部分に相渡ることはひとまず避けられるのが当然だし、何よりそこを守っておかないことには学校的空間の秩序は保たれない。昨今、やたらと生徒との関係、とりわけ男性の「センセイ」と女生徒との関係に馴れ馴れしさ増しているのは、双方ともそのあたりに自覚がなくなっちまったからではないのだろうか。