大江健三郎「ノーベル賞」の無惨

 大江健三郎ノーベル文学賞受賞は、やはり大きなニュースとして報道されました。

 仕方のないことなのでしょう。彼の出身地の人たちにまでコメントを求めるのは、昨今のニュース報道の紋切り型ですから別にどうということもありません。その地元の人たちが「本当に名誉に思います」などと本当に借り着のような不自由さで口をもぐもぐさせながらもっともらしい感想を述べるのもよくあるブラウン管の光景です。まして、それまで売れ行き芳しくなかった著書がにわかに売れだす珍現象など、その程度にこの国の「読書人」が大衆化していることの証しで、何も名誉なことではありません。

 ただ、その後文化勲章を辞退したことが明らかになった時に彼が吐いた「戦後民主主義者として」という言葉がたいそう耳ざわりに感じたのは私だけではなかったようで、少々議論を呼んでいるようです。かくいう私も不勉強なもので、ノーベル賞ならよくて文化勲章ならいらないという「論理」が「戦後民主主義」のものとはついぞ知りませんでした。なるほど、理屈はどのようにもつけられるものです。しかし、通りいっぺんの報道によってしか「文学」とつきあうはずのない国民の大多数にとっては、そんなもの明治このかた綿々と続く赤毛布(あかげっと)、西洋のものならば何でもありがたい、という卑しいインテリ根性の伝統的現われにしか見えないのではないでしょうか。

 何より、我こそは戦後民主主義者、という気負い方こそが、時代から決定的にとり残されていることを証明していて哀れをもよおします。「戦後派の旗手」として「文学者」をやってきた人の衿持なのでしょうが、しかし、今となってはその「文学者」という言葉自体もうとうに朽ち果てた旧家の如き代物だということに、この人は気づかないようです。その無自覚さは、文化勲章よりむしろ重要無形文化財こそふさわしいかも知れません。(舞)