民俗学者(上)――赤松啓介さん

 「路上の達人たち」というタイトルで、永らくこの誌面をお借りしていろんな人の話を聞かせてもらってきた。

 バナナの叩き売りの北園さんから始まって、「人間ポンプ」の安田さん、個人タクシーの坂口さん、鯨とりの川崎さん……などなど、移動する仕事、言わば“流れる”ことを常とするようなさまざまな「路上」の生き方に出会うことができた。

  その間、読んでいただいた方から、これは「路上の達人たち」というのとはちょっと違うんじゃないですか、とご質問を受けたこともある。天体望遠鏡製造会社を経営する高橋さんや古美術商の中村さんを訪ねた時などがそうだった。

 なるほど、この人たちの仕事は、言葉通りにとらえると「路上」の暮らしというわけではない。一ヵ所に腰落ち着けて稼業するという意味では、世間のどこにもある商売に他ならない。

 ただ、僕としては、このタイトル「路上の達人たち」の「路上」という部分に、もう少し広がりを込めたつもりだった。大道芸とか、テキヤさんとか、そういう本当に道端で稼業する人たちというのはもちろん今もいて、日々仕事としての生を続けているのだけれども、それだけにとどまらず、自分自身はとりたてて動き回ることはなくても仕事の感覚として“流れる”ことを当たり前に織り込んでしまっているような商売、といったところまで含み込んだもの言いとして、この「路上」をとらえようと思っていた。だから、いくつかの事情でうまくまとまらなかったけれども、いわゆるディスカウントショップ、俗に「バッタ屋」と呼ばれるような仕事や、事務机やロッカーなどのスチール家具を再生してまた売る商売なども取り上げようと思い、話を聞いたりしていた。そういう商売の感覚や、世間の視線の中にポコッとできてしまうエアポケットを発見してすぐさま何か稼業に結びつけてゆくノリ、といった部分を、「路上」という言葉でうまくすくい上げられればと思っていたのだ。

 これまでこの国では民俗学という学問が、そんな意味も含めた「路上」の稼業のありようについて敏感に反応し、そしてまた実際に歩いて、見て、聞いて、つぶさに書きとめようとしてきた。最後に、そういう「路上」の人生を追いかけ回し、話を聞こうとする性癖を持つ民俗学者の手練れに一人、話を聞いてみよう。


「そら、昔の人はおもろかったで」

神戸の市内、バス通りから坂道をたらたらっと降りた途中にある小さな家の二階、きちんと整頓された六畳ひと間の書斎に座り、赤松啓介さんはこう言った。

「実地に歩いてみなわからんようなことっちゅうのは、ほんまになんぼでもあるんですわ。概念や何やで全部まとめて切ってしまえるような、そんな単純なもんやない。そやからまた、おもろいとこがあるんですわ」

 赤松啓介さん。神戸在住民俗学者であり考古学者。といって、大学や博物館などに勤務する研究者などではまるでない。八十歳を超える今の今まで定職らしい定職についたことはない、文字通りの在野の学者だ。今でもわずかな年金と、これまた気紛れのように入ってくる印税収入、原稿収入で日々の暮らしを支えている。

 とは言え、考古学的に貴重な遺跡の発掘・保存運動を行ったり、それまで誰もやらなかった地元神戸の産業史を豊富な現地調査や聞き取り調査をもとに少しずつまとめたり、それぞれの世界で高く評価されるような仕事をいくつも手がけている。ここ十年足らずの間に何冊も本を出し、学会からも改めて注目されるようになった。地元の新聞社から賞をもらったりもした。それでも、赤松さんの生活ペースはそれまでも変わらない。

「もう今さらゼニ儲けしようと思たかて間に合わへんしね。まだまだ元気やさかい、やりたい研究をやっとかなと思うから、まぁ、今でもぼちぼち歩いてますわ」

 この国の民俗学という学問のありかたを作っていったのは、柳田国男という人だった。明治生まれの元農商務省官僚にして元貴族院書記官長。彼が大正末から昭和の始めにかけて組織していった「民間伝承の会」というのが、彼の読者を中心にして民俗学者を全国的に作り出すことになった。

 当時、赤松さんは大阪の郵便局に勤めていた。労働組合を組織し、活動もしていた。それまでも丁稚奉公から始まっていろいろな仕事につき、生きてゆくためにさまざまなありようを選んでゆく生の現実を図らずも見つめてきた。

 そんな中、地元の小さな民俗学研究サークルのようなものに顔を出すようになった。柳田国男を先生とあがめ、その指導の下に勉強をしようという良く言えば真面目な、悪く言えば融通のきかない若い学生や教員たちが中心だった。彼らのありようにじかに接するようになって、赤松さんはあきれたという。

「なんや、民俗学や何や言うからこいつらもうちぃとましなんかいなと思たら、ほんまにあほんだらやな、と(笑)。どっかムラ行って帰ってくるでしょ。すると、柳田先生がどこやらで書いてはった資料がどこそこにもあった、てなこと真面目くさって言いよる。いったい何を見てきとんのやろ、と思てあほらしゅうなったね」

 そう思うだけの経験を、なるほど赤松さんはしていた。同じような歳恰好で、こちらも大学など行ったことのないままに民俗学に足突っ込むようになっていた親友の故宮本常一さんなどと一緒に、まさにそれまで自分が携わってきた“流れる”仕事のノリで、近郊のムラを歩いて回り、土地の人に話を聞いて歩いていた。

「こっちは宮本(常一)君みたいにスポンサーつけんのは下手やから、ゼニはあらへんのやけどね」

 戦後、近畿日本ツーリストの協力をとりつけて研究所を作った宮本さんの“手腕”を、赤松さんはそのように冗談めかして言う。もちろん、認めているからこそのことだ。

「そのかわり、ちょっとゼニがたまるとじきに休暇をとって、二十日ひと月ぐるーっと神戸から東京、東北回って北陸あたり通って帰ってくる。あれ、行きと帰りとで同じ線通ったらあかんねん。たいていそれくらいの期間行っとった。そないして回り歩いて資料集める。当時から歴史や民俗方面の雑誌なんかちょいちょい載せたこともありますわ」

  旅行とも調査とも取材ともつかない、そんな旅は、若き日の赤松さんにとって切実なものだった。

「その頃、僕ら持って歩いたのはせいぜい弁当代だけですわ。水は駅で飲んだらええ。弁当いうても、身欠きニシンを細こうに割いてパンと一緒に食べるんですわ。パンやないともたへんのです。飯やったら朝買うて晩食べるいうわけいかんけど、パンは日持ちするでしょ。食パンや餡パンです。二日や三日はもちます。ただ、パンばっかりやとやっぱりあかん。身体がいかれてきよる。三日に一遍くらいは少しちゃんとしたとこに泊まってそこで飯を食えばなんとか大丈夫ですわ」

 ただし、泊まると行っても、旅館やホテルに泊まるのとはわけが違う。

「昭和十年くらいやったですかね。周遊券が出てから便利になりましたわね。それ使て上野からずっと青森まで乗ったら宿賃がただになりよったんです」

 そんなサービスがあったのか、と思うのは早合点。列車に泊まる分宿賃が浮く、それだけの話なのだが。

「これ、夜行の鈍行やからええんですよ。急行なんかはあかん。上野から二十二時発くらいの夜行に乗る。常磐線経由やとじきにガラガラになりよるんです。そやからのんびりしたもんで、どこでも勝手に横になれる。ただ、明け方の四時から五時くらいになると混んでくる。海岸の漁師が魚やら干物を積んでオバハンが並んでくるんですが、これがまたおもろいですわ。お客をごまかす話やら何やらもうロクな話しよらん。朝七時くらいになるとまた学生とかね。そんなことしとるうちに昼頃に青森つきよるから、まぁ、そういう道中がええ勉強になりよる」

 さまざまな土地の、さまざまな生の上につむぎ出されてくる言葉。それらに耳傾けながら、言葉の向こうにある生の現実に思いを届かせる。それが、本に書きとめられたことだけでなく、自分の足と耳とで資料を手もとに引き寄せようとする民俗学という学問にとって、貴重な“勉強”になった。文字通りの耳学問だ。

 実は、後に赤松さんは組合活動がらみでつかまり治安維持法違反で投獄されることになる。当時の言葉で言えば立派な「アカ」、筋金入りの活動家だ。何もやましいところはなくても、国内をウロウロしているのをとがめられると面倒なことになるのは眼に見えていた。

「自分のこと説明する時は、学生です、いう時が多かったですわ。関西大学の学生証ちゅうのをよう持ってたんです。知り合いに、おい貸せ、いうて取り上げてね(笑)。やっぱり学生いうた方がいろいろ都合がよかったんですわ。車掌が検札かねてきよったら、昔はそれが警察にもつつ抜けやったりするんやから、そら学生証あればまず太鼓判、便利ですわ」

  ただし、学生であるがゆえの限界というのもあった。

「そら若い人で学生の方がまわりも警戒せんちゅうのはあるけど、逆に現地へ行くと、学生服や背広ちゅうのはそれはそれで限界がありましたな。そんなん着てムラに入って行って難しい顔して、正月行事はどのようなことを、とか尋ねても、いや、正月の四日に集まってそれから青年団に第一条何々、第二条何々、いうて言うてきかせまんねん、てな話しか出えへん。本当はその地方の言葉がすぐわかるようになりゃええんやけど、まぁ、我々みたいなもんやったら遠くに行っても播州方言でいられるわけですわね。なんか播州から働きに来たような顔してね。逆に村役場とか行って町勢要覧みたいなもんもらう時は、東京の難しい言葉の方がええですわね。そやけど、ムラに住んどる百姓相手に、おい、おまえんとこの小作料ほんまのとこなんぼや、みたいな話をする時にはそれじゃあきません」

 柳田直系の学生や教員の民俗学者たちに対して持っていた違和感は、そのような、自分が相手を見ようとしている時には同時に相手からも自分を観察されている、という、言わば世間に当たり前に存在する視線に対する自覚のなさだった。

「そんな当たり前のことが、その頃のほんまの学生の民俗学者にはしゃべってもわからへんのですわ。そやから我々と見るとこが全然違う。仮りに同じムラ行っても、違うとこ見とったでしょうな。あっちは、俺は何々大学の学生や、いう意識があるんです。三角の帽子かぶって行きよるわけでしょ、学生帽を。今の大学生とまるで値打ちが違いますからね、当時の大学生は。田舎の方では、はぁ、偉い人が来はった、いうわけで、地主やら学校の先生やらが出てきて相手してくれる。そらもう、同じ学生のふりしとっても、我々のような立場でムラに入るのとは違いますわ」

※この項、続く
http://d.hatena.ne.jp/king-biscuit/19940219