岩田準一。志摩の入江に宿った 一途で美少年好みの小さな学問。

 テーマは一貫して男色。昨今取りざたされることの多い、かの南方熊楠との間にも、たっぷりと往復書簡が残っている。

 男色とひとくくりに言うものの、今はよくわからないものになっていて、ゲイだの何だのといきなりの横文字に突然この世に舞いおりたようにさえ思われていたりするけれども、とんでもない、およそ人がこの世で行なうこと故、当然歴史がある。病だれに寺と書く病いは、それが寺に棲む者たちにつきものだったからこそなのだし。

 彼の名は岩田準一。明治三三年、三重県鳥羽の雑貨商の家に生まれる。宇治山田の中学校を出てから神宮皇学館本科へ。そしてそこを中退してから東京へ出て東京文化学院美術科へと進む。絵の方は中学にいる頃から竹久夢二に手紙を出して弟子となり東京へ行っていたというから、まさに当時最もトンガったハイカラの一人。同郷だった江戸川乱歩とも交遊を深め、ふたりで競って男色関係の文献を集め、カードに記していった。後に、ついに乱歩があきらめて、自分の集めたカード三百枚余りを全て岩田に託した。それも含めてひとりこつこつと集成したビブリオグラフィ『男色文献書誌』は研究書『本朝男色考』と共に、彼の残した男色研究史上の労作である。もちろん、自身も少年好みだったという。

 民俗学者としては、地元志摩の「はしりがね」と呼ばれた小舟に乗って沖の本船に色を売りに行く遊女たちのことを綿密に調べた書物を残している。こんな稼業もある時期以降、この国の港には珍しいものでもなかったらしい。彼は近世文書を広くひもとくと共に、明治の半ばまで存在していたこの「はしりがね」の記憶をたどり、土地の古老を訪ねて回る。ちなみに同じその頃、若き日の真珠王御木本幸吉もまた鳥羽のうどん屋の息子で、小舟を駆って沖に泊まる船に野菜や卵を売っていた。

 やみくもに歩き回るだけが民俗学というわけでもない。その意味では、この岩田準一などはむしろ書斎派。書物を渉猟しては、その蓄積をもとに野に足を運び、文字の空隙を埋め合わせてはものを言う。このような往還の作法は何より柳田国男自身が身につけていたものだったはずなのだが、その後の民俗学の経緯の中ではこのような書物に裏打ちされた野歩きの効果は、案外軽視されている。中山太郎や倉田一郎、早川孝太郎、そしてこの岩田準一といった黎明期の民俗学に集まったいずれ得体の知れない、しかし間違いなく器量の大きな巷の知性たちの再評価はこれからの課題だ。で、彼らにはなぜか絵描きが多かったりするのは、偶然だろうか。

 昭和二十年二月、渋沢敬三のアチックミューゼアムの仕事で空襲のさなかを押して出た東京で突然吐血し、死去。享年四六歳。胃潰瘍だったという。