「ムラによって違う」の底力――赤松啓介vs.上野千鶴子『猥談』刊行に寄せて

「そらあんた、ムラによっていろいろ違いがありますわぁ」

 こちらのつたない問いかけに対して、実に人のいい顔をしてにっこり笑いながらつるりと頭をなでる、そのしぐさがいつも眼の底に深く焼きついた。

 「呵々大笑」というもの言いにそのまま実体を与えたような、「学問」の身振りにともすればまつわりがちないらぬ屈託や偏屈、ひとりよがりの思い込みや自意識過剰や尊大さや、いずれそんなもろもろの文字読む知性の難儀がふわっとほどけてゆく瞬間。そしてそのあとにまた連なってゆく、ついこの間までこの国の上に当たり前にあり得た人々の暮らしについての粒の立った微細な言葉たち。昭和の終わりをはさんだある時期、いつの間にか何かと機会を作っては赤松啓介さんのもとを訪れるようになっていたわれわれ民俗学まわりの若い衆の愉快とは、そんなこの国の民俗学が本来はらんでいたはずの言葉と処世の穏やかな批判力が眼のあたりに上演される場に身を置くことだった。

 「ムラによって違う」――赤松さんのこの何でもないもの言いが、学問としては脳死状態に陥っていることが最終的にあからさまになりながらそのことを認める能力すらなく未練がましい延命工作ばかり続ける年長の民俗学者たちの醜態に辟易し、学問そのものにさえ希望を失いかかって道端に行き暮れていたわれわれ若い衆を、当時どれだけ元気づけたことか。

 明晰さと効率の良さとで世界を席巻してゆくかに見える大文字の概念や理論を、そしてそれらを武器に居丈高に振る舞う手合いを恐れることはない。あんたらがこれまでもそうしてきたように、身の丈の微細な現実、眼の前の具体的な現われに忠実に歩き、見、聴くことを続けなはれ。

 ただし、そのことに寄りかかってその作業を絶対化したらあかん。人の世にまつわる“もの”や“こと”について「知る」営みには、知ろうとする身の分際に応じてこれ以上踏み込めない限界が存在する。そのことを忘れて、空高く舞う鳥になろうなどと思たらあかん。

 ただそのように眼の前にある世界においてただそのようにそこにいる、そのことから見えてくる現実にまず足をつけて考える。この世に鳥の眼があり得ることを、そのような眼がつむぎ出す大文字の言葉と現実とが存在しそのことが切り開く未来もあることを充分に含み込みながらなお、ともすれば性急に天駆けたがる文字読む知性の習い性を自らの手で穏やかに抑制してゆこうとすること。それこそが、民俗学に志願した知性たちがこれまでさまざまに体得してきた生の航海術の最大公約数なんやから。

 今をさかのぼること五七年前、最初の著作『民俗学』のまえがきで、二十代最後の初夏を生きていた、しかしまだ充分に若い衆だったはずの赤松さんはこう書きつけている。

「私達にとって何が基底的な問題であるかといへば『実在の世界――自然および歴史』をあるがままに把握するといふことだ。」

 それから数十年、「あるがまま」を規定する条件もまた時代によって、ムラによって違うことを静かに思い知りながら、赤松さんはこの国に生きる同胞たちの微細な暮らしについてつぶさに目撃し、書きとめ、語り続けてきた。

 われわれの前にも同じように赤松さんの言葉とたたずまいとに元気づけられた若い衆たちがいたと聞く。主に考古学の分野で、今は滋賀県大津市の博物館に勤務する兼康保明氏などはその代表格だった由。ああそうか、そんな先輩だってすでにいたんだ。ならば、今ある腐れ果てた民俗学民俗学者の行く末なんかもうどうでもいい。赤松さんの八十数年の生の軌跡の中、夢のように宿ったあるべき民俗学、未だ見ぬ“われわれの学問”の姿の側にこそ身を置こう。それはかつて、西欧からあわただしく輸入されて蔓延していった借りものの言葉への健康な違和感を前向きに結晶させ、この国の歴史と現実とに即したオルタナティヴな言葉と立場とをつむぎ出すために構想されたはずの「 地方学 (ぢかたがく)」の水脈にも連なる、この国の近代が準備してきたある知の伝統なのかも知れないのだから。

 「ムラによって違う」ことに最低限の忠誠を誓い、日々無差別爆撃のように降り注ぎ堆積してゆく大文字の言葉に対して「勝てないが、負けない言葉」だけを淡々と差し出し続けようとする態度の底力。舞台がひとめぐりした後の新たな「国際化」へとそぞろ浮き足立ち、ますます混迷を深めてゆくらしいこの国の人間と社会を語る言葉の現在にとって、よく調合された漢方薬のような息の長い治癒力をそれはもたらしてくれるはずだ。