民俗学入門書指南

 民俗学について何か定番の本をあげて概説みたいなの、できませんかね、と言われた。当bk1ではノンフィクションの杜の担当で、このあたしの横丁も仕切ってくれている契約編集&ライター、宮島クンからだ。

 そりゃまあ、いかにあたしがドキュンでも一応は民俗学者だからできなくはないけど、でもさ、民俗学ってガクモン自体がもう耐用年数切れで今あるまんまじゃ全く役立たず、ってのが、まだお行儀よさげな学者ぶって大学のセンセ稼業やってた頃からのあたしの持論。大学の講座は言うに及ばず、いまどきの世間で「民俗学」と名づけられて流通している本のかなりの部分からして、そういう耐用年数切れってことがまるで自覚のない代物だから、フツーの本好きがわざわざ読んで役に立つものなんて探す方が難しい。まして、最近「民俗学」に興味持つ向きって、どうやら京極夏彦だの陰陽師だの水木しげるだのを経由してやってくるのが結構いたりして、妖怪やお化けや不思議関係のことを何か知りたい、てなあやしい欲望全開。少し前までのような、ルポやノンフィクションや旅行ブンガクなんて方面からイナカの暮らしに興味を持って、てなルートはもう枯れ果ててるらしいから、そういう世間における「民俗学」イメージ自体の変遷、なんて問題もここにはからんでくる。

 民俗学者の数だけ民俗学がある、てなことを少し前、アメリカの民俗学者も言ってたけれども、そのへんの事情はわがニッポンの場合はさらに深刻。恥さらすようだけど、あたしも何か概説書書いてくれ、って某版元から言われてなかなかまとまらず、未だ約束を果たしていない始末。bk1の読者相手でもさて、どんなことができるかなあ、と逡巡してるうちに時間だけがどんどんたっちまった。

 もういいや、どうせ最大公約数の概論なんてやったところで意味ないし、ここはあたし大月が考える民俗学ってのはこんなもんだぞ、ってことで、気合い一発でやっちまおう。少なくとも今、本屋に注文して手に入る範囲での民俗学界隈の本で、フツーのシトが読んでもわくわくできそうなのはこんな感じだぞ、って意味で、まずは味わってくりゃれ。


 柳田国男ってのがニッポンの民俗学という枠組みをこさえた張本人だ、ってことくらいは、どこかで耳にしたことがあると思う。ちなみに読みは「やなぎた」だ。柳田邦夫ってよく似た名前のノンフィクション作家もいるけれども、こりゃ別人。民俗学柳田国男は明治初年の生まれ、元農林官僚&貴族院書記官庁その他を歴任したお役人で四十代でケツめくって辞めてからは終生野放し、でもって、とうの昔に亡くなってる。

 その柳田国男の本は文庫にさすがに入っているし、ちくま文庫ではまとまった著作集も、まあ、出てはいる。分量が厖大でどこから読んでいいかわからない、という向きに、いいガイドブックがないのが難点だが、それでも読む気になればつまみ食いもしやすいだろう。

 だもんで、ここはまず、その柳田とはまた別の角度から敢えて民俗学の紹介を始めてみよう。たとえば、宮本常一はどうだ。

 ここ二十年ばかり、網野善彦に代表される日本の中世史から発した「社会史」という歴史のパラダイム変換は、狭~いガクモンや思想の世間をはるかに超えて、たとえば隆慶一郎から宮崎駿に至るまで、ブンガクその他さまざまなジャンルの表現にまで広大な影響を与えてきているけれども、その網野善彦の仕事をインスパイアした大きな水源地のひとつがこの宮本常一とその仕事だったりする。「民俗学」がガクモンとしてどんなものか、というより先に、そういうガクモンに携わってきた「民俗学者」というのがかつてどういうニンゲンで、どういう生を送っていたのか、というあたりについてまず知ってもらう意味でも、この宮本常一なんてのはいいエントリーモデルだと思う。

 佐野眞一『旅する巨人――渋沢敬三宮本常一』が、まずおすすめ。宮本と、そのパトロンとして資金その他を提供し続け、事業としてのガクモンのプロモーターとして特異な立ち位置にあった渋沢敬三との関係を、ノンフィクション界隈特有の執拗な取材で肉付けして描いた労作。大学だの研究所だのというエラソ~な場とはまるで別の、「趣味」「道楽」から立ち上がったガクモンとはどういう凄味を備えていたか、をまず知って欲しい。

 宮本自身の仕事は未來社から著作集も出ているが、入り口としては『日本残酷物語』あたりがいいだろう。昭和三十年代のベストセラー企画。宮本は監修者のひとりとして名を連ねているが、民俗学関係の書き手の原稿をリライトしたり、全体の構成を考えたりと、企画自体のプロモーターとして重要な役割を果たしていたと言われている。「底辺」「辺境」といったキーワードでくくられ始めていた、それまであまり光の当てられてこなかった近現代史の小さな局面について、持ち前の聞き書きで明るみに出してゆく手つきは、同じく当時領域を拡大し始めていたルポ/ノンフィクションとも共鳴しながら広く読者を獲得していった。と同時に、単なる酔狂、ちょっと変わった「趣味」「道楽」として営まれてきた民俗学が、この頃からふくらみ始めたジャーナリズムと接触、良く言えば広く本読みに認知されるようになってゆく、悪く言えば消費のサイクルに巻き込まれ始める、いずれそのはしりの仕事でもある。この「残酷物語」というもの言い自体、当時流行ったヤコペッティの映画『世界残酷物語』を下敷きにしているわけだが、ここに込められた「残酷」の奥行きをどう読むか、というのも〈いま・ここ〉の本読みに問われることだ。

 あ、それと、コラムページにも紹介したけど、最近出た近藤雅樹・編『大正昭和くらしの博物誌』が、実はこの宮本常一も含めた渋沢敬三系の民俗学的知性のやろうとしたことをムック形式でわかりやすく教えてくれる一冊。ガクモンっては実にこういう形でも立派に宿る、形になる、ってことに、野蛮な勇気をもらおう。