「文学」の歴史性、その鈍感も含めて

 同年代の、というと、具体的には三十代後半から、下はせいぜい二十代半ばあたりまでになるのだが、およそそのような年格好のもの書きや編集者たちと顔を合わせる機会があると、どうしてこれまで「文学」というのはあそこまで特権的な存在でいられたのか、ということが、たまに話題になる。

 それは、「文学」というもの言いにまつわってきた歴史性について、すでにこちらはそこまで距離感、違和感を持ってしまっているということでもある。もうそんなに「文学」が無条件でエラいもの、尊重されるべきものだと思わなくなってしまって以降の時期に社会化していった、だからこそ、今なお「文学」のまわりにさまざまにこびりついているかつての特権性の残滓が、何とも奇妙で滑稽なものに見えてしまう。

 たとえば、何か社会的な事件が起こると、「文学者」たちが「宣言」したり「発言」したり「決議」したりする、そのことがかつてどうしてそんなに意味のあることとして大きく報道され、語られていたのか。当時はまだ「知識人」という立場が確固としてあって、彼らは「文学者」はある意味でその「知識人」の代表であり、だからこそ何かものを言うことについて責任があると思っていたのだ、ということは理屈としてはわかる。わかるのだが、しかし、そのような理屈をごく当たり前のものとして支えていたその頃の空気や感覚というのが、今の自分たちにとってはどうしても実感しにくいのだ。申し訳ないが、本当にもうそのような舞台装置ごと、「文学」は「歴史」の中に繰り込まれてしまっている。そのあたりの文脈を考慮しないまま舞い上がることのみっともなさは、ノーベル賞受賞をめぐる大江健三郎の立ち居振る舞いで決定的にあらわになってしまった。

 その意味では、かの文芸誌という雑誌も、実に謎だ。個人的にはこれまで仕事をしたことはないのだが、何かの縁で文芸誌の編集者だという人に行き逢ったりすると、たとえ同じ出版社の人間でありながら他の週刊誌や月刊誌などの編集者との肌あいの違いに驚くことが少なくない。それは、別に長年文芸誌に携わってきた年長の人たちだけのことでなく、同年代の若い連中からしてそうなのだ。なるほど、こんな連中によって、すでに現実からかけ離れてしまった「文学」至上主義というのは、ひとまずかたちだけにせよ、今もなお細々と保存されているのだな、と思う。そして、個人的にはこちらの方がよほどキツい。

 だが、振り返ってみれば、「学問」というのも事情は似たようなものだ。たとえどのような心萎える事態を眼のあたりにすることがあっても、それが四十代後半あたりから上の先輩たちについてのことならば、ああ、きっとこの人たちが若かった頃はまだ「学問」も何か無条件で依拠できる価値としてあったんだろうな、と斟酌できる。だが、そのような事態が同年代にまであまり変わらぬ有様で共有されているのを見ると、はて、場所はさまざまにせよこの連中も基本的にはこちらと同じ時代の同じ空気を呼吸し、くぐり抜けてきたはずなのに、どうして今のこのご時世でそこまで「学問」を至上のもの、無二の価値として無条件に信じ込むことができたのだろう、という問いが容赦なくむき出しに、他でもない自分自身に襲いかかってくる。

 もちろん、どんな仕事の場所であっても、そのようにして現場の共同性というのは連続してゆくものなのだろう。その連続の中にどのように身を落ち着かせてゆくか、というのは、どんな時代でもあり得た難問なのだろう。しかし、「文学」にせよ「学問」にせよ、あるいはまた「政治」もきっとそうじゃないかと思っているのだが、古めかしいもの言いを弄せば「男子一生の仕事」といった思い込みを前提にした背負い方がしにくくなった状況で、それらを改めて自分の仕事としてどのような言葉で引き受けてゆくのか、という点が今、それらの仕事に携わる人間たちにとって大きなしこりになっているのではないか。オウムの信者が一万人と言われるけれど、文芸誌の部数なんてどんなに頑張っても数千部。そんなセコい内輪の中で何だかんだと口角泡を飛ばしているんだから、今ある文芸評論なんてオウム以下じゃないの、と喝破した女性作家が最近いたという。正論だと思う。思うが、ならばもう一歩先に踏み出すために敢えて言えば、そのオウム以下の状態の「文学」がオウム以下の状態を正しく認知し、そこから改めて言葉を発してゆくことができるためには、たとえ細々とであれ若い世代を含めて今なお保存されている現場の共同性を、一度全部否定してしまう作業が必要になってくる。「文学」に限らず、それらの仕事の現場にそこまでの力業をやってのけられるだけの余力は、果たしてまだ蓄えられているだろうか。