森 銑三

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 書いたものを読んでいるだけで、どことなく読み手の気持ちを萎縮させる、そんなタチの書き手がいる。

 ものが面白くないのではない。むしろ逆だ。面白い、興奮する、読んでゆくうち中身にぐいぐいと引き込まれもする。だが、どこかでそれらの文字をつむぎ出す書き手の狷介さ、偏屈な人となりの気配が匂うように立ちのぼり、読めば読むほど紙の向こう、多くの場合時間さえはるか隔てた彼方から、〈いま・ここ〉でそのように読み立てているこちらのありようを底意地悪くじっと見つめられているような心持ちになってくる。

 たとえば、“鳶魚”三田村玄龍だ。厖大な割りになぜか古書市場で値のつかないあの全集を持ち出さなくても、『大衆文芸評判記』なんかどうだ。昭和初年、飛ぶ鳥落とす勢いだった大衆文学の、それも名のある作家の作品をタネに、当たるを幸いその無知を斬りまくる、その意味では痛快無比の一冊――のはずだが、しかしその痛快さを追い越して、どうしてこの人はこうまで偏屈なんだろう、という思いの方が強くなり、ついにはそちらに意識が集中してしまう。学問的真実の前の真摯というだけではない、何か偏屈としか言いようのないものなのだ。「この人の書いたものは、小さい事では蹴躓くことが少なくて、大きなことで蹴躓く」とやられた長谷川伸が、「三田村鳶魚氏の批難は批難でなくて誤謬の指摘であるから、答えるも答えないも無い、教えられているのだ」と礼儀正しさを押し立てた応対をしたのはその意味で賢明だったな、と思ったりする。もっとも、その長谷川伸からして、時に同じような偏屈の影がさすのだからことの根は深い。後年の史伝風の書きものになるほど、それは濃厚になる。

 あるいはまた、南方熊楠などもその類かも知れない。これはこれで偏執型知性の代表、興乗れば諧謔味というか奇妙な軽さも混じってくるけれども、しかし文章から明らかにうかがえる偏屈さは人後に落ちまい。一時もてはやされた南方マンダラなど、世間並みの愚才凡才からすればどうひいき目に見てもアブない人の落書。あれをまことしやかに「解読」してみせる中沢新一など、そのアブなさにおいて同類としか思えない。

 その他、思いつくままに名前をあげればきりがない。今生きている人では、谷沢永一小林信彦などに同類の匂いがある。しかもこれらの御仁、実際の年齢とは別に、印象としてみんな年寄りに思えるから不思議だ。

 だが、彼らとて初手から“年寄り”だったわけではない。当たり前だ。しかし、文字を読み続けた者の、その読み続けた果てに結果する偏屈という点において共通している。そこに必要以上に気後れしてしまうのはこちらの問題ではあるのだが、しかし、「知性」とはそういう偏屈を宿痾のように伴った「物識り」と同心円である、という常識の堆積された重さが、これらの人々の“年寄り”イメージにはからみついているように思う。

 森銑三の書き残したものに触れる時にも、ハナっからそれらと同じ、どうにも憂鬱な気分があった。後に写真を見、人となりを語るまわりの人たちの書きものなどを読んでゆくに至って、その気分はほとんど確信にまで高まった。いやはや、おっかなくて気詰まりでさ、一から十までアラを指摘されそうでさ。「学者というにはあまりに奔放に過ぎ、好事家というには見識があり過ぎる、形に嵌まらぬ大読書人」(八木昇)というのは彼ではない、前出の鳶魚を評した言葉だが、明治二十八年愛知県刈谷に生まれ、学歴は高等小学校卒で地元の図書館を降り出しに言わば情報管理のテクノクラートとして終生書物に埋もれ、ほぼ独学で近世の漢学者系の人物研究に邁進したこの人などまさにそういう類。もっとも、彼は暗に鳶魚をさして「あらさがしをして喜んでいる人たちもありますからね」と言っているほどだから、これは逆縁の引きごとかも知れないが、それでも、僕にはやはり彼らを敢えてひとくくりにしたくなるよく似た感触があるのだ。そして、「学者」の人格をそのように規定してきたこの国の文字のありようの歴史、その深さを改めて思う。

 七〇年代初めに出された『森銑三著作集』(中央公論社)も、最初図書館でめくって、面白いけれどもやはり気後れがして、でも結局は持ってなきゃならないんだろうしなぁ、と腹くくって最近ようやく古書で入手したけれども、白状する、箱入りのいかめしいたたずまいのそれらより、同じ文章でも『新橋の狸先生――私の近世畸人伝』(二見書房 昭和十七年)などの単行本の形に盛られたものとして読む方が、僕にはよほど愉しい。人物にひたすら執着して書きつづってゆくその筆致には、世間の速度からかけ離れた文字固有の速度、もっと言えば文字を媒介に「読む」という行為によって制御される意識の速度、
思索の呂律の心地良さがある。ゆっくりと安定した速度で走り続ける列車に身を任せているような、あるいは、内海をゆく船の航行にもたとえられるような、そんな信頼感なのだ。で、それは先に恨みがましく述べたような「学者」の偏屈さとはまた別の、文字を介した知的営みそのものの闊達さによって開かれているものだ。いや、もちろんそれはこっちが近世の文書資史料を読むだけの力を持っていない素人だからという面もあるだろうが、いや、それだけでもないぞ、とここは敢えて抗弁しておきたい。

 書物に埋もれた暮らしをし、文字の速度におのが生の速度を同調させ、我れと我が身を人間フロッピーディスクと化してゆくことが「学問」だった。いや、今でも基本的にはそうだと思う。自ら喜んで積極的にフロッピーディスクと化すか、何らかの制度的なしがらみの中で消極的にそうなるかの違いはあるにせよ、「学問」する人としての「学者」とは、そんなフロッピーディスクと化すことによる偏屈さや狭量さ、少なくとも世間を普通に世渡りする者としての人格から些かズレた部分を背負わざるを得ないものであり続けてきた。森銑三に代表されるような偏屈を伴った知性のありようがどのように語られ、「評価」されていったのか。それ自体がすでにこの国の「学問」の歴史として、僕には興味深い。

 とてもできるものではないことを承知で夢想すれば、森銑三が生涯かけて読んだものを全て余さず電子機器に読み込ませ、その上で縦横無尽に相互引用をしてゆけばどんな「仕事」が現出するか。いや、それらの「仕事」を可能にするような人格とはどんなものかを試行して立ち上げるソフトなど併せて組めればもっといい。シミュラークルとしての森銑三、てか? いやいや、これは半ば本気で言っている。そこまでできねば、またやろうとする知的腕力が宿らなければ、ここまで上滑った電子メディアのありようを文字の知性の歴史と正しく連絡づけて役立てる未来など、とてもじゃないが覚束ないぜ。

*1:朝日新聞社『二十世紀の千人』掲載原稿のひとつ。