社台ファームとサンデーサイレンスは、なぜ“ひとり勝ち”できるのか

 「皐月賞、どう思う?」

 北海道千歳。近辺に何ヵ所も散在する社台グループの牧場群の中でも中心のひとつ、社台ファームの事務所のソファに腰かけた吉田照哉は、話が一段落した合間にこう尋ねてきた。なにげない調子だけれども、しかしそれまでの取材という約束ごとの中での構えた会話とは違った、寝藁の匂いの人なつっこさがその声に宿っていて、僕は少しほっとした。
 フジキセキがいなくても、やっぱりサンデーサイレンスの子供たちが強いんじゃないですか、ジェニュインなんか人気になりそうじゃないですか。ほっとしたついでに、素直にそう答えた。

 「そりゃあ、そうなればうちは一番いいんだけどね」

 彼は軽く笑う。

 「でも、ジェニュインよりタヤスツヨシの方が能力は上かもな」

 いかん、間違った。どの馬が勝つか、ではなく、どのサンデーサイレンスの子供が勝つか、だったのだ。




 週半ばの平日の昼間、天候も桜気分の東京と裏腹に小雪がちらつく肌寒さで、これなら調教師など関係者の訪問も少ないだろうと思って選んだ日程だったのだが、なんのなんの。馬主とおぼしき来客があったり、牧場のスタッフが指示をあおぎにやってきたりで、そのたびに彼は「悪いね」と言いながら中座して対応する。電話も入る。事務所の改築工事で仕事師さんは出入りする。こりゃ申しわけないな、と思っていると、戻って来ては「で、なんだっけ」と言葉を継いで応じてくれる。今や日本だけでなく世界でも最も成功した牧場の経営者であるというおごりや気取りは、少なくとも彼自身の身のこなしからは感じられない。

 昨年夏のデビュー以来、とにかく圧倒的な強さを見せて、四歳クラシック戦線の大本命と目されていたフジキセキが脚部故障で突然の引退。その週の日曜日に中山競馬場で行なわれるはずの皐月賞の下馬評は、一転して大混戦と言われていた。

 フジキセキは三年前の四月十五日、この社台ファームで生まれた。父はサンデーサイレンス。九一年、社台ファームアメリカから輸入した種牡馬だ。当時、現役バリバリのアメリカ三歳チャンピオン。これまで「名馬」と呼ばれる馬たちは何十頭もこの島国にやってきたけれども、ここまで世界で一線級の馬が平然と輸入されるようになったのは本当にここ数年のことだ。そして、昨年夏からこの国の競馬場に姿を現わしたサンデーサイレンスの子供たちは、フジキセキ以下、どれもそれまでのこの国の馬たちとは違う、ケタはずれの強さを見せつけ始めていた。事実、フジキセキはリタイアしたものの、それ以外のサンデーサイレンス産駒が数頭皐月賞に出走する予定になっていて、またそのどれもが有力視されていた。

 そんな時期だったから、いいかげん取材慣れしているはずの社台のこと、いずれ競馬シーズン定番の取材と思っていたのかも知れない。実際、社台グループの躍進の秘密を取材したい、と広報に申し込んだわが担当のO氏など、そんな地味な企画で大丈夫なんですか、と先方からツッコまれた由。いやあ、鼻っ柱が強い強い。メディアの舞台で「競馬」が語られる機会が多くなればなるほど、その語り方の文法は、巷のファンのみならず、馬に最も近い場所にいる人たちの意識まで浸食してゆく。

 ともあれ、それから数日後の四月十六日、オウム真理教をめぐる大騒動の余波で「新宿に何かがおこる」という噂が流れ、昨年に比べて三割以上売り上げが減った皐月賞の結果は一着ジェニュイン、二着タヤスツヨシと、見事にサンデーサイレンス産駒のワンツーフィニッシュ。

 翌週の天皇賞はもっとすさまじかった。なにせ出走馬十八頭のうち社台グループの主力種牡馬の一頭リアルシャダイの産駒が五頭もいて、それ以外にもグループの関係する種牡馬トニービンサッカーボーイダイナガリバーの子供が三頭で都合八頭。それらのうち、他の牧場でなく社台ファームで自家生産した馬が五頭。結果は一着ライスシャワー、二着ステージチャンプ、三着ハギノリアルキングと全てリアルシャダイの子供たち。しかも、二着のステージチャンプは、皐月賞馬ジェニュインと同じくグループの持ち馬で、さらに以下八着までを全てグループの関係種牡馬の産駒で独占してしまう始末。全くもって手がつけられない。

 このような“ひとり勝ち”とも言える現象は、とりわけ昨年あたりから顕著になった。今や中央競馬の重賞レースの出走馬に社台グループの生産馬がいないことはまずないし、自家生産馬でなくても関係する種牡馬の子供たちは必ず何頭か出走し、また確実に上位にやってくる。いかに勝負は時の運、浮き沈みの激しい競馬の世界とは言え、ひとつの生産牧場の関係馬がここまで強くなったことは、サラブレッド生産に携わる牧場がごく限られていた戦前ならともかく、高度経済成長期以降、競馬が国民的レジャーとなってこのかた初めての現象だ。あまりいいたとえではないが、相撲の二子山部屋がもっととんでもなく強くなり、それも単なる相撲部屋だけでなく、力士になるような才能を持った人間が生まれてくる家族関係まで全部おさえてしまい、なおかつ相撲協会より完備された稽古施設を自前で作ってしまった状態、と言えば、少しはわかってもらえるだろうか。


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 社台グループの馬たちがここまで強くなったのは、そんなに古いことではない。まずはここ十五年くらい、一九八〇年代以降のことだ。

 それまでの社台ファームは大規模な生産牧場ではあるけれども、天皇賞を頂点とした当時の中央競馬の競走体系の中で大レースを立て続けにとってゆくような馬を輩出していたわけでもなかった。もちろん、六〇年代からリーディングブリーダーの上位にずっと顔を出し続けてきた大牧場だが、戦前から小規模の牧場で職人的に競走馬を作り、育ててきた日高あたりの名門牧場などとは、微妙に違った位置にいたことも確かだ。

 ひとつには、日高ではなく胆振が本拠地だったということもあるかも知れない。さかのぼれば南部藩士族の血を引く屯田兵で、胆振の吉田と言えば北海道では開拓以来の名家。三代前の吉田善助はホルスタインの輸入・繁殖を手広くやっていたが、昭和三年、日本競馬会設立に尽力した安田伊左衛門から、近い将来ダービーが始まる、と聞いてサラブレッドなど軽種馬生産にも手を広げた。照哉たちの父吉田善哉はこの善助の三男で、特に眼をかけられて小さい頃から馬についての英才教育を施されたという。国営競馬では第一回のダービーから生産馬を出走させているし、地方競馬でも戦後の混乱期、道営競馬にダク馬(速歩競馬に使う中間種の馬)を出していた古い馬主の一人として名前が残っている。

 昭和三十一年に本家の社台牧場から独立して社台ファームを設立。繁殖牝馬八頭、土地は千葉・富里の四十町歩。千葉は戦前からの馬産地で古い牧場もいくつもあったが、その頃本場ケンタッキーの馬産を眼にしてきて気候の問題に着目した善哉は、馬たちを夏場だけ北海道へ送り千葉との往復で育成することをやり始めた。馬の輸送手段が発達し、また千葉の名門牧場が軒並み北海道に移住してしまった今では当たり前のやり方だが、当時としては大冒険だった。しかし、これが成功して牧場の生産馬の成績は急激に上がり、折から輸入した種牡馬ガーサントの大活躍もあって、昭和三八年には初めてリーディングブリーダーのトップに立つ。今も浦河で余生を過ごすシンザンの現役当時のライバルで、加賀武見とのコンビで彼を苦しめたミハルカスや、フィニイ、テツノオー、ニットエイト、シャダイターキンなどの活躍馬が出た。とりわけ牝馬に強かった。今もオールドファンにとっての社台ファームとは、この頃の印象で語られることが多い。

 四年前の秋、週刊誌の取材で僕はこの吉田善哉にくっついて歩いた。と言ってもわずか数日間だったが、この日本の生んだ世界屈指のホースマンの印象は鮮烈だった。傍若無人な身振りの裏の繊細な気配り。大言壮語しても決して憎まれない人なつっこさ。そして抜け目ない経営の才覚。彼に接した人たちが圧倒され、時に反発を感じながらも“善哉ファン”になっていったように、僕もあっという間にこの人が好きになった。北海道という土地がその歴史と共に育んだ、「民間」であること、独立独歩であることに固執し続ける精神が、あるひとりの人格を獲得してこの世に舞い降りたような人だった。

 その時、彼が子供のような顔で本当に得意気に言っていた言葉を、今の社台グループの躍進を眼の前にして、改めて思い出す。

 「いいか、今いる繁殖牝馬の腹の子供が生まれて競馬場で走るようになれば、うちの馬は今よりもっともっと強くなるからな、見てろよ」

 その腹の子供たちが、まさに今、競馬場を席巻しているフジキセキの世代なのだ。もっとも、その話を長男の照哉にすると、「あの人はいつもそういうことばかり言ってたから」と苦笑するだけなのだが。

 結局その翌年、「とんでもなく強くなる」現実を眼にする前に彼は亡くなった。グループが経営する乗馬を中心とした観光施設ノーザンホースパークの一角にある、名種牡馬ノーザンテーストとたたずむ彼の銅像の前には、花束が山のように積まれた。誰でもない、巷の競馬好きたちが彼をしのんで持ち込んだものだった。告別式の日、日高から胆振へと向かう国道には牧場関係者の車が長く連なり、渋滞は終日解消しなかったという。だが、それよりも、長い間特殊な世界の特殊な稼業に過ぎなかったはずの馬の仕事が世間に認知されることをめざし、何よりそのような世間を深く信頼することで自身の事業を確かなものにしていった彼にとって、無名の“善哉ファン”がそっと置いていった色とりどりのその花束こそが、何よりも誇るべき勲章だったと、僕は思う。


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 「われわれは馬の仕事の強みも弱点もよくわかってるプロ集団だと思ってます。馬を走らせるためにはどういうことをすればいいのか知っているし、逆に言うと、どういうことをしないでいるとダメになるか、っていうのも知っている。それだけの経験を父の代から、またそれ以前からずっと積んでいるわけです。その上で、企業として安定するためにはどうしたらいいか、を突き詰めた結果、ここまできたんです」

 善哉のあとは三人の息子たちが継いだ。長男照哉。次男勝己。三人晴哉。相続税などの問題もあって社台ファームはそれぞれ三つの会社に分割されたが、社台グループの結束は変わらない。まして、結果が全ての競馬の世界でここまでの強さを示しつつある今、その自信は絶大だ。

 「いい競走馬を生産するには、種牡馬の質、繁殖牝馬の質、調教の質、この三つが重要ですが、わが社台グループは他の日本の生産者を大きく引き離し、どれをとっても一番という状態を作り上げたと思っています」

 あっさり断言した後、一息おいて彼はこう続けた。

 「ただ、他の人たちがある程度あきらめに近い心境になって、自他共に認める状態になったのはこの三年くらいかも知れないね」

 事業としての牧場経営について語る吉田照哉は前向きだった。昨今、競馬を語る時につきものの、あのあいまいな“夢”などという物言いにうわつかない、徹底的にリアリズムに即した経営者の表情と言葉だった。

 「毎年毎年進歩してることを今も感じてますよ。でも、逆にタネ馬なんかが外れるとその蓄積が一気に崩れてっちゃうわけでしょ。だから、その蓄積を崩さないように続けてゆく、ただそれだけですよ」

 飛躍の原動力として彼があげるのは、まず種牡馬ノーザンテーストの大成功。“ミラクルサイアー”(奇跡の種牡馬)と呼ばれ、この国の種牡馬記録を次々と塗り替えた馬だ。これはアメリカで牧場経営をしていた頃の彼がカナダで見つけて、父善哉と共に買ってきた馬だった。

 次に、一頭を十人から二十人で持つクラブ馬主のシステムの導入。七〇年代後半、馬が売れなくなり経営危機まで叫ばれた時期に導入したこの仕組みが、その後の競馬ブームで経営基盤を安定させる力となった。それまで個人のリスクで持つものだった競走馬を、投資の対象として、また「趣味」として大衆化させてゆく。中ぶくれで極端な金持ちも貧乏人もいないこの国の資本主義の構造にこれは見事になじんだ。

 「クラブを発足させたことは、本当に経営の安定に寄与したよね。有名なカード会社と提携したとか、それまでのクラブ馬主は馬の値段をはっきりさせてなかったのをガラス張りにしたとか、賞金とか会員に払うべきものはすぐに払うようにするとか、逆に経費をもらうべきものは自動引き落としできちっとするとか。今までそういうことをちゃんとやったクラブってなかったんだよ」

 このクラブ組織は、晴哉が受け持つ「社台レースホース」が窓口になっていて、現在のべ二百頭あまりの馬を走らせている。前述のジェニュインもステージチャンプもこのクラブの持ち馬。クラブ馬主の馬は大レースをとれない、というジンクスを破ったのも、社台に初めてダービーをもたらしたダイナガリバーだった。亡き善哉が、直線先頭に立った彼を眼にしてあたりを何ひとつはばかることなく「ガリバー! ガリバー!」と絶叫し続けた姿は、すでに伝説となっている。

 「オヤジの代はともかく、戦後のわれわれの世代になるとアメリカ的教育を受けてるわけですから、なあなあはもう通らない、きちっとするところはしないといけない、そうしないと人は信用してくれないし、またかえってその方がトクなんです。クラブにしたって、会員の人はみんな馬のプロでもないのにカタログだけで何十万とか、場合によっちゃ百万以上のお金を出してもらうわけでしょ。最初の年はたった十何頭しか売らなかったのに七割くらい買ってもらえたし、今はその十倍くらい、百七十頭くらいの馬が即日完売する。これこそうちの信用だと思うよ」

 さらに、人材の育成。今や馬が身近にいなくなったこの国で馬の仕事をしてもらうためには、どうしても馬に乗ることから教えなければいけない。そのために自前の研修所という意味も含めてノーザンホースパークを作った。これは勝己が中心になって進めたという。慶応の乗馬部で活躍したその体験もあったのだろう。亡き善哉御大は「あんなのは馬の仕事がダメになった時の保険だよ」と韜晦していたのだが、息子たちにはまた別の目算があった。

 「うちの新入社員はみんな一年間ノーザンホースパークで働きながら乗馬訓練をするんです。観光業だから、七百円なら七百円の対価としてどれくらいのサービスが必要かってことをいやでも教えられる。牧場にいるとお客さんがいるようでいないから、そういうのがわかんなくなるんですよ。それで、一年たったら牧場へ帰ってくる。古い人が勝手なやり方で仕事を教えるんじゃもうダメ。この発想は間違ってなかったと思います。事実、競馬ブームのおかげで以前より優秀な人材がとれるようになってきたし、定着率もよくなった。それだけ馬の仕事も社会的に認められてきたんじゃないですか」(勝己)

 それまではどこの牧場でもそうするように、ある程度馬の仕事をしてきた人を採用していたのが、ノーザンホースパークができてからは、馬をまるで知らない人も積極的にとれるようになった。地元の農業高校を回って人材確保にも努めている。こんな牧場は他にまずない。

 「今までの世の中は親の庇護の下にいた人たちをいきなり寒風にさらすようなことをして、生き延びた奴だけ拾えばいいって考え方できたわけですよ。それをうちは、昔の徒弟制度みたいに見てて覚えろじゃなくて、手とり足とり教える。どんな奴でも落ちこぼれはさせないで、せめて九割はものにする。能力に応じてできる奴は競馬場にも行かせるから、その中から調教師も生まれるんだよ」

 実際、今や中央競馬の厩務員には社台育ちの人間がたくさんいる。「今や京都の帝大出た娘さんが馬やりたいってやってくる時代だからなぁ。まあ、いろんな世間があるからゆっくり考えなさい、って言って預かってんだけど」とかつて善哉が述懐していた、その彼女は後に志を果たして栗東トレセンの厩務員になり、大暴れした女傑ノースフライトを担当した。それどころか、今や調教助手や調教師まで現われている。社台で馬の仕事を手ほどきされた人間が、この国の競馬の仕事のある部分を確実に占め始めている。

 「そうやって育った若い人たちが日本の馬を変えたところは絶対あるね。彼らは、昔の人が十年かかって覚えてたことを五年で覚えるよね。それにうちにいたら重賞で活躍するだろうって馬にさわれるわけだから自信になるし、馬ってのはそんなもんだ、ってのを身をもって覚えられる。これが最大の教育ですよ。最近うちの馬が飛躍的に走るようになったのは、この若い連中が伸びてるってことが支えてると思うよ」

 古い知識、これまでの経験が役に立たなくなる瞬間というのはある。進歩とはそういう瞬間を内包して実現するものかも知れない。そして、今がそういう過渡期だという実感を確かに持てる人間は、この国の競馬を直撃している「国際化」の大波にさえ、怖れることなく立ち向かう。

 「外国と比べたって、こと馬の世界の人材ってことでは今じゃもう平均をとったら日本の方が勝ってる、それは自信あるね。トップには優れた人もいるけど、従業員の隅々までこれだけの知識を平均して持っててやる気もあるってこと考えたら、今や外国に追いついたどころか追い抜いたとさえ思うよ」

 若い力を信じる。信じて任せる。だから、「今の社台グループは若い人たちの集団」と悪びれずに胸を張れる。昔の人に比べて今の若い連中が決して負けない、それどころか優れている、と、ここまではっきり言える経営者は、別に馬の仕事に限らず、そうはいないはずだ。


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 高い種牡馬を買ってきて、繁殖牝馬にも外国のいい血統を導入したから強くなった――社台グループの成功に対してはそんな理解が少なくない。もちろん間違いではない。ないが、しかしそれは馬を単なる工業製品のようにだけ見る浅薄な見方だ。血統と素質だけで勝ち続けられるなら、こんなに簡単なことはない。

 もちろん、馬の素質はある。言いたかないが、僕みたいに地方競馬の〈その他おおぜい〉の馬ばかり見ている人間の眼には、その素質の違いはなおのこと圧倒的だ。だが、問題はそこから先、獲得した素質の高さをさらに生かしてゆく仕掛けなのだ。そして、その部分に社台は徹底的に投資してきている。

 「今まで血統だ何だって言っても、口先だけだった。たとえば、有名なデザイナーの作品ですよ、って言われただけで買って喜んでたのが、今は見る眼ができたから、その同じデザイナーのいい作品しかわれわれは買いませんよ、と言える。今まではどちらかというと失敗作を日本は押しつけられてたわけだよ。まあ、いいカモだったわけだ。これは仕方ないんだよ。だって、今までの日本人の金銭感覚じゃ、馬一頭が二十億だって聞いたらもうびっくりしてたわけだ。そんなカネあったら利子で暮らすよって、俺だって学校出た頃はそう思ってたもの。でも、だんだんホンモノに対する眼が肥えてきたら、二十億だっていいじゃないか、という心境になってきた。そういう心境の変化が熟成されてこないことには、いいサラブレッドなんか絶対にできないね。それができてきたからうちは他の牧場より強いんだと思うよ」

 この“覚醒”が、それまでただ馬を作るだけだった生産牧場に、人材を育てることを行なわせ、さらに育成から調教まで一貫した論理で手がけることを試みさせるようにもなった。「豊かさ」の果実である素質の高さを生かしてゆくための仕掛け。この“覚醒”のもたらす広がりは今や競馬全体を包み始めている。

 「日本の競馬の賞金は世界一高い。でも、競馬場の厩舎は数が限られてて馬がなかなか入らない。調教師さんも厩舎を最大限に使うためには故障したり休養している馬を置いておいたら効率が悪い。だから、うちは故障したり休養している馬をその間牧場で引き受けて、競馬にすぐ出られる馬だけを厩舎に入れてあげるということをしているわけ」

 そのための仕掛けが山元トレセンである。一昨年夏、宮城県に開設した三歳の未入厩馬の育成・調教と、現役競走馬の休養・リフレッシュのための施設。一六〇頭あまりを収容する厩舎と、一周一,一〇〇mの馬場に五〇〇mの坂路コース。三十四人の厩舎従業員の中にはニュージーランドやオーストラリアからの外国人スタッフも。至れり尽くせりだ。

 「いちいち外国に研修に出すくらいなら、いっそ向こうの人間呼んじゃった方が早いからね」(勝己)

 競馬に出走する競走馬は、美浦栗東トレセンにある厩舎に競馬の十日前までに入らなければならない。その期限ギリギリまで、本来トレセンで行なう競走馬としての調教を自前でやってしまおう、というわけだ。

 「たとえば、美浦栗東トレセンでは月曜が全休日ですよね。でも、日曜に競馬をした翌日に全休だからって舎飼(厩舎に入れっぱなし)にしておくと、次の日出した時には馬がすくんじゃう。当たり前なんです。われわれだって運動した翌日には少し身体を動かした方が、疲れが早くとれるでしょ。でも、今の中央競馬の規則じゃそこらへんうまく対応できない。馬のためにどうすれば一番いいかを考えると、むしろトレセンにいるよりこちらにいたの方がいろんな手当てがしやすいところはありますね」(山元トレセン 田中場長)

 事実、栗東の森調教師などは関東で競馬を使った後は馬を栗東に帰さず、この山元トレセンに送ってくる。そうやって休養し、また関東の競馬を使う。限られた馬房をいかに回転させてゆくかを考えればこれは合理的だ。預託料も中央の厩舎の半分程度だから、これからこのようなやり方をしてゆく調教師は増えるだろう。

 いずれにせよ、社台グループが確立していった競走馬についての新たな仕掛けは、生産から始まり育成、調教と、この国の競馬の全ての局面をゆっくりと、確実に覆い始めている。この国の「豊かさ」に伴う果実の部分を最も鋭敏に、しかも短期間に集中的に享受したのが今の日本の競走馬のトップクラスなのだし、そしてそれは間違いなく世界の一流に近づいている。その達成に内包された価値観は、これまでのこの国の競馬の常識を初めて内側から変えてゆきつつあるのかも知れない。

 「日本のトップの馬は世界に負けないと思うよ。血統はもう一流なんだし、体形見てたってそう。でも、層がまだ圧倒的に薄いね。今のこのレベルの馬がもっと当たり前になって初めて変わるんだよ。今はまだ何頭かの種牡馬の成功でようやくここまできたって段階だから、平均的に馬の質を上げるためにはあと十年くらいかかると思う。本当の勝負はこれからだね」


 急激な“覚醒”は、しかしまばゆい光と共に深刻な陰も生む。

 最近の円高の進行で、今年中に中央競馬の登録馬の一割以上が外国産馬になることは確実と言われる。日高では、生まれたものの種付け料が払えず、未だにサラブレッドとして血統書がもらえない馬が昨年末の段階で四百頭も出た。日本の馬産農家の大部分を占める小規模生産者の中には、自家生産馬が売れる見込みが立たないので、自ら海外のセリで馬を買ってそれを国内で売るという馬喰仕事でやりくりする状態に陥っているケースもある。古くから続いた名門牧場でも売りに出されるし、また“覚醒”した資力のある牧場はそれを買い取って系列に組み入れてゆく。古くからの地元の商店が経営難に陥って、大手コンビニエンスストアの系列に入るようなものだ。

 それでも馬は馬。現場でやるべき日々の仕事は、いつも淡々と続く。

 山元トレセンを訪れた日、昼休みにアンちゃんが一人やってきた。たまたまこの日午前中の調教で、休養に来ているフジヤマケンザンに乗っていたので、もしもその姿が写っていたら送って欲しい、もうこんないい馬に乗れることはないでしょうから、と彼は頭をかきながら言う。

 そんなに違うものなの、と尋ねると、頭いいっすよね、と言う。それに乗り心地が最高っすよ、と、またにっこり。尾崎カメラマンは、もし写っていれば送ることを約束した。「おねがいしまっす」と頭をぺこりと下げて、泥だらけの乗馬靴をはいて出ていった彼の横顔には、千歳の事務所でかすかに感じた、寝藁の匂いのあの人なつっこさが漂っていて、僕はまた少しほっとしたのだ。