ディープインパクト「薬物」疑惑の示したもの

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 2006年10月1日、フランスはロンシャン競馬場で行われた凱旋門賞に出走したディープインパクトから、禁止薬物が検出された。

 言うまでもなく、ディープインパクトは当時の日本最強馬。単に生身の競走馬であると共に、JRAを頂点とした、年々減少しつつあるとは言え未だ三兆円近い売り上げを叩き出す実質半官半民レジャー産業としての戦後ニッポン競馬のシステム (メディアで表現される場合は通例、「サークル」と称されたりする) 内部においても、存分に使い回されるべき、そしてだからこそ二重三重に保護され、慎重にコントロールされるべき重要コンテンツであった。ミもフタもなく言い直せば、システムがなりふり構わず全力をあげて護持するべき最重要の「資源」として認識されていた。

 問題の薬物は、「イプラトロピウム」。現地ヨーロッパでは禁止薬物に指定されているが、日本では当時、されていなかった。ちなみにその後、あわてて禁止薬物に指定され、現在では使えなくなっている。

 一応は気管支拡張剤で、人間の治療にも使われる由。競走馬に投与した場合の効能については、いわゆるドーピング効果があるという説もあった。まただからこそ、現地フランスでは禁止薬物になっていたのだろう。

 だが、こと薬物使用の規制については、世界一厳しい、と自他共に認め、そのように喧伝もしてきたはずのニッポン競馬において、なぜかこのイプラトロピウムはそれまで禁止薬物に指定されていなかった。その理由については、これまで現実に国内で使われていなかった薬物だから、というのが今回の事件に伴ってJRAから出された「説明」だった。

 しかし、仮に競走馬用の薬物として流通していなくても、同様の成分を持つ薬物が人間の治療にも使われているのだから、国内で入手することは可能だろう。何より、競走馬に使っても国内では無問題だったということは、ドーピング効果をあてにしたのでなく純粋に治療として使っても、何も規制や制裁は加えられていなかったということだ。当然、公的にはその使用実態は捕捉されてなかっただろう。それはつまり、「治療」という形さえ整えてあればお構いなしだった、ということでもある。となれば、常識的に考えれば、それまでも国内でも使われていた可能性は充分あり得る、ということになる。

 国内最強馬ディープインパクトの「強さ」は、実は薬物によるものだったのかも知れない、という「疑念」が、ファンの間に広がったのもひとまず当然だった。


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 もちろん、メディアの舞台であれだけ人気を煽られていたスターホースだ。この「事件」は国内でも大きく報じられた。だが、競馬の海外遠征は他のスポーツと違い、国内のほとんどの「ファン」にとってはどうしても他人事にならざるを得ない。

 なぜか。簡単だ。国内では、それら海外のレースの馬券を買えないからだ。

 高度経済成長と共に大衆レジャーとして成長し、そして80年代、あのバブル期と相前後して訪れた第何次かの競馬ブームは、ニッポン競馬 (JRA独裁の競馬システム) を最終的に世界水準に押し上げることに貢献した。と同時に、それは「ファン」のありようをそれまでと大きく変えもした。ギャンブルでありながら、バーチャルな〈リアル〉に大きくシフトしたことによって成長してきた、そういう情報環境の整備と手に手をとってニッポン競馬は大きくなった。

 それは、言わば情報競馬であり、言い換えれば、生身のウマなど実際に走っていようがいまいが本質的に関係なく、単なる「情報」の断片とその組み合わせによって仮構される「競馬」に過度に埋没する、いわゆる「おたく」に最もなじむような情報消費のモードとして現れた。ダビスタなどのゲーム経由で競馬に、実体と遊離した「血統」の能書きばかり肥大させたような、そんな新たな膨大な「ファン」が競馬を支えた。一時は四兆円産業とまで言われたニッポン競馬の我が世の春、とは、このような下支えによって実現された。

 「国際化」がそれに重なった。「世界」はそのような「ファン」の意識に投影され、新たな舞台に雄飛する日本馬も視野に入るようになった。実際、90年代半ば頃から国内調教馬が海外で活躍を始め、ディープのような国内生産馬もそれなりの結果を出し始めるようになって、ニッポン競馬は「世界」からも認知されるようになってきた。それはジャパンカップ創設以来、JRAとシステムの側が強く望んできたことだったし、その流れは今も基本的に変わっていない。「世界」に向かうニッポン競馬。国際的にも認められるようになったJRAの恍惚。国連の常連理事国入りを悲願とする霞ヶ関官僚の自意識とも、それはどこかで通底していたように思う。

 だが、繰り返し言うが、それらのレースの馬券は相変わらず国内では買えないままだった。ギャンブルという現実を介して初めて大衆レジャー、あるいはスポーツとして成り立っている競馬の重要な部分は、「世界」に向かった時、あらかじめ切り捨てられることになった。

 いや、だからこそ、だったかも知れない。競馬バブルを下支えした新たなファン層の中から、それら「海外競馬」というジャンルに特定した細分化された「おたく」も湧いてきた。「国際化」のお題目の前で、それら「海外競馬」も少しは底上げされた。大リーグに挑戦する日本人野球選手たちを応援する、それと一見よく似た構造のように見えるくらいには。

 とは言え、それはやはり一部にとどまった。馬券を介してこそ最も競馬と身近になる、そんな〈その他おおぜい〉の普通のファンは、JRA農水省が笛吹き煽ってきた「世界」の舞台からは疎外されたままだった。だから、あのディープの「事件」も一応は大きく報じられたものの、実際に何が起こっていたのか、はもちろん、何より今のニッポン競馬にとって何が本質的な問題なのか、といった部分も含めての解説はうやむやのままだった。それはメディアの責任というだけでもなく、むくつけに言えば、馬券を介していないファンの最大公約数にとっては、そんなものどうでもいい、でもあったのだった。

 だから、ディープインパクト、という、今のニッポン競馬を象徴するなけなしのコンテンツ、の引き際は、ひいきめに見てもみっともないものになった。フランスから帰国、そのまま栗東トレセンには戻らず、北海道はノーザンファームに移り、そのまま「引退」表明。その間、金子オーナーは北海道にカンヅメだったとも言われ、メディアに「引退」の情報が出た時には池江調教師も厩舎スタッフも「えっ、聞いてないよ」状態だった由。すでに厩舎でなく、システムの管理下にある馬になっていたということか。

 同時に、ダーレーと社台との駆け引き、というのも水面下で熾烈なものがあったと言われている。もしも凱旋門賞を勝っていれば、本気でダーレーは手に入れようとしたはずだ、ともささやかれ、ニッポン競馬「国際化」の象徴的ひとコマ、のようにも。薬物疑惑が出て、キャリア的にはミソをつける形になったことで、日本国内で繋養されることになったのは社台グループ、およびその周辺的にはラッキーだったかも知れない。

 現地フランスの主催者側から処分が決定され、JRAからも一応の最終報告が出されて、当のディープはというと「引退」の日程を発表、何ごともなくその後ジャパンカップ有馬記念と予定通りに使って、しかもあっさり連勝までやってのけ、それはそれでファンにとっては盛り上がり、めでたく種牡馬に、という経緯をたどり、かくてもとの「事件」は都合よく、ファンの脳裏からは適当に忘れられていった。


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 JRAの最終報告書を眺める限り、フランス人獣医が禁止薬物イプラトロピウムを処方したのは確からしい。ただ、レース前一週間以内に投与すると体内に薬物が残るので使うな、と指示したという。それを誤って厩舎側が使ったのだろう、というのが当初のフランス側の「解釈」。「ケアレスミス」といった表現をしていたようだが、要は、うまく言葉がつたわらなかったゆえのミスだったんでないの、という感じも強い。

 対するJRAの「解釈」は、処置(吸入させたらしい)する時に寝藁に薬物の飛沫が飛散してそれをディープを食ったか何かで体内に入っちゃったみたい、というもの。断定でなくあくまで推測の形をとらざるを得ないあたりには触れないとしても、まず厩舎スタッフ以下、人間の側はあくまで善意だったんですよ、考えられがちな「八百長」などはありませんよ、というニュアンスがまず前面に出ている。

 とは言え、最終的に帯同獣医を厳重処分にしている。調教師も厩務員も、厩舎のスタッフは、JRAとしては一応お構いなし、で、帯同獣医“だけ”を処分、なのだ。

 「池江泰郎調教師は既にフランスギャロから制裁を受けておりますので、改めてJRAからの(二重の)制裁はいたしません」とJRAは「説明」し、同時に、ディープ自身については「(フランスから)出走に関する処分を受けておりませんので、今後日本国内においても出走できることになります」と、あまりにも手前味噌な解釈を臆面もなく披瀝した。処分は現地フランスに丸投げ、でも興行としてディープがいなくなると引退までの数ヶ月間、馬券の売り上げ響くから国内で競馬を使えるようにはしておきたい、という思惑がありありだった。

 以下、思いっきり偏見や憶測も含めて、JRAのとったスタンスについての解釈を、いくつかの選択肢として。

 

 1. 帯同獣医 (ある意味、システム側からのお目付役) の管理不十分だったんだから、おまえが責任とらんかい。実際、手をくだしたのはおまえだっていうし。

……(これには、以前からおまえら厩舎とつるんでうまく書類なんかも整えて使ってたみたいじゃないか、といった「制裁」のニュアンスも含まれているかも知れない)

 

 2. ほんとは調教師以下厩舎スタッフのチョンボなんだけど、いろいろあってそうは言えないんで、悪いけど獣医のおまえが責任かぶってくれ。

 

 3. 厩舎サイドの確信犯なのはわかってるけど、いろいろあってそうは言えないんで(以下略)

 ……(以上ふたつの場合は、共に「内厩」制度の障壁によって厩舎の人間を処分しにくいJRAの体質、もからんでいるだろう)

 

 厩舎は悪くない、意図的にやったことではなくて「事故」なんだ、調教師自身そのように申し立てをしてフランス側から処分されたし、事実として手をくだした日本人獣医にはこちらからも責任をとってもらう――システムの側が提示した〈おはなし〉はそういうことだ。事実、事件そのものの処理はそのように終わり、ディープ自身も現役を去り、ことはすでに順当に忘却のステージに入っている。

 だが、ファンの側に残ったものの大きさは、結構根深いものがある。それは、JRAとそれを中心とするいまのニッポン競馬を稼働させているシステムの側が、懸命に支えようとしている「国際化」というやつが、われわれファンの側にとっての競馬の〈リアル〉とは、実は全く別のところで勝手にうごめいているだけ、ということを改めてわかりやすく思い知ることになった、という意味においてだ。

 禁止薬物、とはその比喩である。ドーピングについては厳しい規制をしていたはずなのに、それを容易にかいくぐっていろいろやっていたらしい、なんだやっぱり「八百長」ってことかよ、と、ファンの共有する気分の水準では、あの古くて新しい〈おはなし〉が頭を持ち上げてくる。クスリ、八百長、自分たちがどうしてもあずかり知ることの出来ない馬主や厩舎、「サークル」の現実からの疎外感……それらが要素として互いにからみあいながら、古典的な〈おはなし〉としての「八百長」を励起させてゆく。

 改めて、今回のディープの「薬物」疑惑騒動が、「八百長」か否か、という争点についになりにくかったことをかみしめるべきだろう。そして、いまのニッポン競馬が必死にめざしている「世界」とは、どれだけひとりよがりのものだったのか露呈してしまったことも、共に。

 だって、どれだけニッポンの馬が「世界」に出てゆき、いまや条件さえ整えばそこそこ重賞でも好勝負、恵まれれば勝つことだってそう珍しくもなくなってはきていても、それらニッポン国外で行われている競馬の馬券は、国内では買えないまま。いかに応援団と称する連中がツアーを組んで出かけようとも、そしてまた、「国際競馬通」と言われるような手合いが提灯つけようとも、〈その他おおぜい〉の主流派「ファン」にとっては関係のない話なわけで、へえ、強いんだ、くらいのもの。サッカーやその他の一般のスポーツの「日本代表」が国際試合でいい結果を出せば、普通のファンもそれなりに盛り上がれるのに、ああ、競馬ときたら。

 ニッポン競馬にとっての「国際化」とは、その「世界」とは、実にJRAとそのまわりのひとにぎりの競馬エスタブリッシュメントにとってだけ、必要なものだったのであり、多くのファンにとっては全く関係のないもの、だった。そういうことだ。


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 クスリと競馬、というのは、古くて新しい問題である。と同時に、決して表立っては語られない領域でもある。とりわけ、「公正」確保がパブリックセクターの「正義」と貼り合わせで行われててきた、戦後ニッポン競馬においては。

 その脈絡で言い添えれえば、あのディープの「事件」はさらに、競馬にとっての「公正」とは何か、を、当のJRAが哲学を持っていないことを改めて暴露もした。

 ニッポン競馬は変わった、とよく言われる。何がそんなに変わったのか。少なくともここ十年ほどについて言えば、馴致と育成の過程、そして飼料関係、と答えて間違いないだろう。血統の改良や競馬場に入って後の調教、管理のあり方などの改良よりも、育成過程の変化の方が大きく、「強い馬」づくりのためには重要だった。要は、それらの部分にカネがそれだけ集中的に投じられてきたし、またその効果も出てきたということだ。

 BTC (財団法人軽種馬育成調教センター……日高は浦河にある大規模育成調教施設)  とその周辺に代表される、いわゆる育成牧場たちが、それまでの生産牧場に代わって日高の新たな「勝ち組」として台頭してきた過程とも、それは重なっている。自分で繁殖牝馬を持って生産し、それが大きなレースを勝つような活躍をすることを夢見る、それまであり得たような “牧場のサクセスストーリー” は現実にも難しいものになってゆき、その分、社台グループに代表される大手のひとにぎりの生産牧場の寡占状態が強くなった。かつてのオグリキャップのような“僥倖”はさらに遠くなり、それに見合ってファンの間で語られるべき〈おはなし〉もやせていかざるを得なかった。

 「結局、「世界」に眼を開いたホースマンたちが自前で育成のシステムから完備してきたわけですよ。それは単にスタッフの技術や調教のやり方といったことだけでなく、飼料や薬品、装蹄なども含めて、事実上もう、(JRAの) トレセンの厩舎よりも「世界」に近いところで仕事をするようになってましたから。皮肉なことですけど、「世界」は、鎖国状態のトレセンよりもそれら先端の牧場経由で流れ込んできた、ってことですね。」(ある大手生産牧場のスタッフ)

 そして、薬物だけが、そのような「世界」の側から無関係でいられるわけもない。

 競走馬用の薬物は、素人が輸入できるものではない。資格も知識も必要になる。当たり前だ。だが、そこは蛇の道は蛇、密輸とは言わないけれども、まあ、抜け道というのはどこにもあるわけで、そういう形で新しい薬、まだ国内では流通していない薬物というのは、たとえばそれら生産地界隈にそっと流れたりする。特に、育成牧場がその稼業の焦点にするトレーニングセール (二歳馬を馴致育成まで手がけ、言わば「半完成品」として売るセール) では、当初そのような薬物のチェックはないに等しかったから、それらさまざまな「世界」が創意工夫と共に流れ込んできた。

 「トレーニングセールが真っ先に、「国際標準」になってたわけですよ」と言うのは、ある育成関係者。

 アメリカのセールで使われているような薬が、ライバル牧場の眼を盗んで使われる。実際、あり得るわけです。だって、明け二歳の若馬を無理を承知で仕上げて、そこでひとハロン (約200メートル) かそこら、ぶっ叩いてでもいい時計を出せば高く売れるわけですから、年々どんどん時計が速くなっていった。現役の黒帽 (ジョッキー) 呼んできて乗せて追わせたりするようにもなった。そりゃ動きますよ。でも、馬にとっちゃダメージありますからね。その時はよくても、無理矢理仕上げたものを一度ゆるめて仕上げ直さないといけなかったりするケースが多かった。トレーニング (セール) で買った馬は案外走らない、などと言われるようになった理由には、正直、そういう事情もありましたね」

 「世界」とは、馴致育成の過程からも確実に入り込んできていたのだ。競馬場は「内厩制度」が障壁となって、なかなか開かれないままだった分、馬産地、北海道経由で「世界」はニッポン競馬に浸透してきた。社台グループが誇った至宝、サンデーサイレンス最後の傑作、と言われたディープインパクトが、そのような「世界」をうっかり表現してしまう最も尖鋭なノズルになったのも、そう考えれば必然だったかも知れない。


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 そもそも、競馬において「八百長」が忌避されてきたのは、レースとして、スポーツとしての「公正」の問題というよりも、馬券がからんだところでの「公正」と貼り合わせになっているから、という部分が大きかった。

 何も知らない一般大衆の「ファン」に馬券を買ってもらって儲けるのだから、彼らが不安になるようなあやしげなことは排除すべき、という、それはそれでまっとうな意識が、主催者側だけでなくファンの側にも広く共有されることが、「八百長」という想像力の最初の培養基、でもあった。

 ファンがカネをかけている、しかも、刑法としては禁止されている賭博、バクチを国であれ自治体であれ、「公」が関与することで許容されている、という立ち位置が、「公正」の意味を単にスポーツとしてのフェアネス、というところだけでなく、ゼニカネが直接からんだ何らかの不公正があったんじゃないのか、という方向に増幅させてゆく。

 人々は、それをひとまず「八百長」と呼んできた。最近はそれほど言われなくなったが、しかし想像力のありようとしては今も継承されている。「こちら側」から見えない領域である「厩舎」や「馬主」が、自分たちのいいようにレースを操作している、という疑念。それはいくら制度を整備し、メディアぐるみで「公正」を喧伝しようとも、ことの本質として排除し尽くせるものではない。競馬とは本質的にそういうもの、としか言いようがない。だからこそ、「公正」とはあらゆる努力をしながら確保、維持されねばならないのだ。

 だが、ギャンブルとしての「公正」と、スポーツとしての「公正」とが、意識もあまりされず融通無碍に癒着したまま、いまのニッポン競馬のシステムにおける「公正」は形成されている。 今からすると意外にも見えるが、たとえば戦前、大正時代の競馬では、スポーツとしての「公正」を奉ずる立場からも「八百長」が論じられていた。

 当時の帝室御賞典 (今の天皇賞にあたる) が、一度勝った馬は再度出走できないというルール (これが廃止されたのはついこの間だ) についても、「八百長」という口吻で語られている。当時の主催者である競馬場の競馬倶楽部が、会員たる馬主に利益を平均して配分しようと画策した結果、勝った馬がいくら強くても再度天皇賞に出走できなくしたのだ、という主張。それでも出走した馬がいて、でも勝ってはいけないから負ける、これは立派な「八百長」だ、と。

 「倶楽部は此の恩典を各馬主即ち各會員に、均霑せしめようといふ方便を採ったといふ形跡がないとは云へない、然し、夫れも其勝利馬の馬主が自發的に自ら出場を見合はして、受賞の名誉を他に譲りたるならば、兎も角であるが、同じく出場して負くべき馬にあらざる馬に敗れたとしたならば、ドウしても其處に疑はしい處がある。即ち八百長と謂はねばならぬ次第である。」 (河邊立夫『競馬と相馬』大正一三年 博文館)

 「スポーツ」としての「公正」を言うなら、確かにこれもひとつの見識ではある。同様に、「数萬の観客をして、肉躍り血沸くの感あらしむる競馬にして、所謂八百長なるものが有ったならば、実に公衆道徳上許す事の出来ない事である」という表記も、「公衆道徳上」というあたりに力点が置かれていることに気づくべきだし、また、その「数萬の観客」というもの言いの背後に、勃興期の大衆社会の気配を敏感に感じるべきだろう。

 「要するに観客としては、競馬場裏に於ける相馬及此れに連系する事項と、騎乗の技術につき研究を重ねて、以て公衆の面前に於て往時ありたる如き八百長を許さぬ様に進歩せしめねばならぬ次第である。」

 〈その他おおぜい〉のファンよ、だから賢くなれ、競馬についての知識を増やし、経験を積み、「八百長」を許さないようにしよう、という明朗な叱咤激励。そしてこの一線は、戦後もある時期までは変わっていない。

 武智鉄二は、「作戦的八百長」「一人八百長」「騎士道精神型八百長」「サービス型八百長」に分類し、「こういう八百長レースを見やぶってこそ、大きい配当をとることもできるのだから、読みの深いファンにとっては、かならずしも、有害無益なものばかりとはかぎらない。(…) 八百長あればこそ、競馬は深く、たのしく、おもしろく、したがって、「八百長は競馬の華である」という考えも浮かんでこようというものである」とまで言い切っている。と同時に、このような八百長は「大部分、(競馬を仕事とする人々とその社会の……引用者註)封建的な基盤や、生活の貧困に根ざしているのを見るとき、それは、かならずしも健全な現象とは言いにくい」とも明言している。

 「八百長」と呼ぶかどうかはともかく、そのような領域も含めて競馬なのであり、それをファンの側も見抜くのはファンの権利であり、楽しみ方のうち、という認識である。そういう認識において「公正」とは、今考えられているような杓子定規なものでもなく、誤解を恐れずに言えば競馬に携わる者たち相互の関係性の中で、共有される哲学に裏打ちされてあらゆる努力と共にかろうじて支えられるようなもの、のはずだ。

 それはざっくり言えば、法と司法、それによって現前される「正義」をどのように考えるのか、という領域とも関わってくる。生身の当事者たちによって制御され、それによって初めて立ち上がる状態としての「公正」という認識。だからこそ、馬券とカネを介してしかひとまずギャンブルとしての競馬の当事者にはなり得ない〈その他おおぜい〉のファンの立場にとっても、改めてスポーツとしての「公正」の当事者としても成長してゆけるのか、という大きな問いが投げかけられている。

 ディープの薬物疑惑については、結局のところ真相は「わからない」というのが最終報告の落としどころだった。イプラトロピウムがディープの体内に入った過程についても、あくまでも池江調教師の申し立ての追認にとどまっていて、真偽の判断はどこもくだしていない。現場でほんとうに何が起こっていたのか、についてはついに「わからない」まま、なのだ。

 「国際化」に向けてすでに舵は大きく切られた。ニッポン競馬が再びかつてのような「一国内」の「強さ」への安住に立ち戻ることは、まずもう無理だろう。システムそのものはそのような環境に新たになじめるように変貌をとげてゆく。だが、肝心のファン、馬券を介して当事者たり得ることしか教えられてこなかった〈その他おおぜい〉は、ますます「世界」から切り離されたまま、早晩、このニッポン競馬そのものにも興味や関心を持てなくなってゆくだろう近い将来、ディープインパクトの子どもがデヴューし、仮に活躍馬が出たとしても、ファンの心に鮮烈に響くような〈おはなし〉の憑代になることはないだろう。。ああ、そんな馬、いたよね、で片づけられ、「八百長」のイメージだけがそのあとに残るばかり。それはゆっくりと、しかし確実に訪れる、ニッポン競馬の「死」である。

 

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