「男前」の存在感――解説・岡本嗣郎『男前』

 山本集さんと初めて会ったのはもう何年か前、確かどこかのホテルのロビーだった。

 同席していたのは、ルポライター朝倉喬司さんと、この『男前』を最初に単行本として刊行した南風社という小さな出版社の社長Hさんのふたり。Hさんが岡本嗣郎さんの筆で山本さんの半生を本にする計画を持っていることはすでに耳にしていて、その日ちょうど上京していた山本さんに打ち合せがてら会いに行く、というのを幸い、連れて行ってもらったのだ。

 吹き抜けのテラスに観葉植物が置かれた、さんさんと陽の降り注ぐ明るい席だった。真っ黒に日焼けした大きな身体に紺色のブレザーを羽織った、まるで発破をかけねば動かない工事現場の岩石のような風貌の人がいた。山本さんだった。こちらを認め「やあ、どうも」と立ち上がったのを見て、大げさでなくビビった。劇画じゃないけれども、遠近法も度量衡もいきなり無視した渾身のGペン描き、“ぬおおお〜っ”と擬音付きで眼の前に立ちはだかった感じ。「雲突くような大男」といった立川文庫調のもの言いがぴったりで、いや、それはもう何というか、この世のものとは思えないものすごい第一印象だった。

 物理的な大きさに驚いたというのではない。山本さんにしても体格は185センチの90キロといったところのはず。第一、身体の大きさだけならば、僕も決して小さな方ではない。タッパが178センチ、体重も、今は体調を崩して減ってしまったけれども、その頃はゆうに100キロを超えていたと思う。けれども、そんな数字上の比較ではない。とにかくそういう大きさと共に充実した「力」を伴った生身の存在がそこに確かに“ぬおおお〜っ”といる、そのことに理屈抜きに威圧されるのだ。「まるで交通違反のような顔」というのは文中、岡本さんが使っている表現だが、まさにその通り。すでにその道から引退してから後でこれだから、“現役”の頃ならば、と思うと本当におっかない顔だった。

 けれども、Hさんに型通りに紹介してもらい、「ああ、そうでっか、よろしく」という野太い大阪弁と共に差し出されたグローブのような大きな手が、がっちりとした手ざわりと共に何とも言えない穏やかな暖かさをもっていたので、あれ、と思い、思いながらちょっと安心した記憶がある。

 握手をしながら顔を会わせた山本さんの五分刈りの頭の生え際、ちょうど額のすぐ上のところにひと筋、明らかに何かの傷跡があってはげたところがあった。何の気なしに、その傷、どうしたんですか、と尋ねた。

「ここか? ここな、鉄砲のタマがピューッとかすっていきよったんや」

 別に笑わせようと思ってそう言ったわけではないはずだ。しかし、その言葉を聞いた瞬間、僕は笑ってしまった。それは、鉄兜と頭のすき間を撃ち抜かれた、とか、飛行服と背中の間を機銃弾がすりぬけていった、といった戦時中の最前線での体験談などにも通じる、日常の感情の均衡を外れたところに宿る言葉の気配があった。本当にそんなことがあるんかいな、という事実と虚構のギリギリのはざまをぐぐり抜けた言葉だけが持つ、ある種突き抜けた響き。それは必ずこのような平手打ちの哄笑を誘う。ちなみに、この傷跡がつくに至った顛末は本文「大阪残侠編」に記されている。

 同じような、まさにいきなり笑ってしまうしか始末に負えないような種類の感覚が襲ってくる体験は、山本さんの描いた絵を初めて見た時にもあった。

 最初の個展の時だった。原色を基調にした強烈な色づかいで、「ふるさと」」とか「夏休み」とか、ひと昔前の『週刊新潮』の表紙を飾っていた谷内六郎の絵のようなモティーフで、山本さんの中に堆積していた原風景がいくつもいくつも、どこか似通った調子で並べられていた。個人としての描き手とその管理の下にあるひとつの作品、といった近代芸術の枠組みに収まり切らない、不特定多数の何か民俗的な記憶の層に食い込んでいるような絵だった。「力」がむき出しでそこに具体的な油絵具の量として盛り上げられ、詰め込まれていることの迫力。もちろん、絵について何かまとまったことを言えるだけの知識も感覚も僕は持ち合わせていないけれども、そこにある“絵という形式を借りて凝縮されているもの”が、確かに何かただならぬものであるということだけはよくわかった。そして、そのように世の中とつきあい、そのように自分を表現してゆくことをしてきた人であるということもまた、どんな言葉を連ねるよりも一目瞭然で了解できた。

 そんな山本さんの波瀾万丈、疾風怒涛の半生を文章で描き出したものとして、この『男前』は出色の作品である。評伝でもなし、ルポでもなし、小説でもなし、どう分類すればいいのかわからないが、とにかくひとつの“おはなし”として明確なかたちを持っている。ここに盛られた、本当にそんなことがあるんかいな、と誰もが言うだろう挿話の数々は、書き手の岡本さんが山本さんとおそらくは全身で共鳴しながらつむぎ出していったものだ。

 ここ数年、黄民基『奴らが哭くまえに』、中場利一岸和田少年愚連隊』、梁石日『夜を賭けて』など、ついこの間までこの国の世間で「男」という表象にどのような内実がまつわらされてきたのか、について、改めて“おはなし”の器に盛り直して示す仕事が続けて出てきている。いずれも力作揃い。単なるエンターテインメントという以上に、さまざまな“読み”に耐え得る良質のテキストだ。それらの系列にこの『男前』も堂々並べられるべきものだと思う。それ自体が豊饒なわれわれの戦後史なのであり、断固そのように読まれるべきものだ。

 どこまでが“おはなし”で、どこまでが事実なのか、読んでゆくうちに、そのような問いそのものが馬鹿馬鹿しいものであることに気づいてゆくはずだ。智弁学園野球部初代監督としての奮戦期は、そのまま何か映画にしたいようなものだ。星一徹が本当にそこにいる。石灰を塗っての薄暮のノックや、そしてそれは、同時代の想像力のありようとして共通している。スポーツとはそのような濃密な共同性の中でのみ支えられるものだったし、それは別に特別なものでもなく、当たり前に日常の中に埋め込まれてあった。

 その後、何かの機会で会うたびに山本さんの表情はやわらかくなり、世間並みの整い方をしていった。世間とどういう風に話をしていいのか、その距離を測りかねているという感じだったのが、「元ヤクザの画家」という、器が与えられ、テレビや雑誌などに出演することなども重ねてゆくことで、身のこなしなどもやわらなく世慣れたものになっていった。

 実はいま、この本を大学の講義で学生たちと一緒に読んでいる。今はすでに昔話と化した「男らしさ」の純粋結晶を生きた記録として、その背後に介在する「歴史」を読み取るテキストとして最適と判断したからだ。そう伝えたら岡本さん、「はあ、そうでっか」と言い、少し間をおいてから、「どうです先生、もしよかったら、わし、いっぺんその生徒たちに何か話しに行きましょか」と言ってくれた。今どきの大学生たちがこのある意味ではジュラ紀の恐竜のような「男」の言葉をどのように聞くか、もしも実現できたらそれを楽しみにしている。