「軍事」を語るもの言い、について


 「軍事」について語るときに、明らかにこの人たちこういう問題を語るのが“好き”なんだな、とわかるたたずまいの評論家や学者がいる。たとえば、湾岸戦争当時、よくテレビに出演していた江畑謙介氏などは、ひと頃ずいぶんコラムのネタにされたものだ。

 もちろん、仕事の水準というのはそのようなたたずまいや顔つきや印象などとひとまず別に評価されるべきものだと思う。けれども、そういう生身の人間の印象が仕事の中身を雄弁に規定する現実というのも一方で存在する。近年、ことさらに「軍事」を語る性癖をむき出しにしてしまう論者に往々にして見られるどこか不用意で性急な印象は、「軍事」を誠実に語る言葉の回復を志す必要のある現状だからこそ、単なる印象批評とだけ片付けてしまえない内実を含んでもいると僕は思う。

 たとえば、日本の核武装を果敢に説く兵藤二十八氏などの論調に、いたずらに過激に走ってしまう“おたく”世代特有の性癖を感じるのは僕だけだろうか。彼だけでもない。その他、比較的若い世代で「保守」だの「民族主義者」だのを標榜し、「天皇制」や「伝統」を朗々と語ってみせる手合いの中にも、同じ匂いは濃厚に漂っている。たとえ他の局面での議論では誠実で信頼できる論者であっても、こと「軍事」になると急に平衡感覚を失してしまうような印象があるのだ。そして、このあたりの違和感というのは、なぜか四十代から上の年配の人々にはうまく伝わらないものらしい。あるいは、たとえ伝わっても大した問題ではないと思うらしい。同じ「軍事」でも、その言葉やもの言いの背景にある内実が自分たちの世代のそれとは相当に違うものになっているのかも知れない、という斟酌がうまくできない不自由。「軍事」を欠落させてきた戦後半世紀の歴史があるということは、今の「軍事」というもの言い自体にもすでにそのような歴史が介在しているということだ。

 たとえば、少し前、仕事で自衛隊の取材に行った時、広報担当の尉官が、最近は中にいるわたしたちよりずっと詳しい若い人たちが民間にいくらでもいますからねえ、と苦笑していた。正面装備が何で、このタイプはこれこれこういうあたりが強化されていて、とまるでカタログのように細かなデータが立ちどころに出てきて、現役の自衛官の方がびっくりする由。戦後民主主義の純粋培養とも言える“おたく”世代の優秀さは、皮肉にもイデオロギーのタブー抜きに「軍事」を語れる条件を戦後初めて準備したところがあるらしい。

 しかし、「詳しい」ことがそのまま「信頼できる言葉」をつむぎ出すための条件ではない。まして、「詳しい」ことの快楽に身を委ねてしまった主体の危険性はなおさらだ。高度経済成長の「豊かさ」の中に生まれ育った“おたく”世代にとっては、「軍事」は「天
皇制」と同じくらい遠く、よそよそしいもののはずだ。これはそれぞれの思想信条などとはひとまず別に、まさしく平等に与えられた同時代の前提条件である。その自らのリアリティを規定している世代的条件についての自省の薄いまま、知識の普遍性へと早上がりしようとする欲望任せの「軍事」論は、どこかでまたオウムのような“暴走”を始めかねない。なるほど、遠くよそよそしいものになってしまった現実をもう一度身についたものにしてゆく時の手探りは必要だ。しかし、その手探りの中でも謙虚さは不可欠だろう。知らないものを知った、よそよそしいものが知識によって近ずいてきた、そんな喜び任せに舞い上がっていては未来はない。四十代から上の人々がそのことに歯止めをきかせられないのだとしたら、致し方ない、僕のような同世代がその世代体験の内側から“暴走”を食い止めようとする役回りになるしかないのだろうと、今から腹くくっている。

 必要なのは、女性たちが「どうして男の人って、軍隊とか兵器が大好きなのかしらねえ」とつぶやく時の気分をどこまで穏当に織り込んでゆけるかだ。これは決してフェミニズム方面の「だから男は本質的に好戦的なのよ」といったずさんな決めつけに連なるものではない。「軍事」を喋々するのなら、人を死地に向かわせるだけの貫禄をつけることも考えねばならない。申し訳ないが、彼らのあのたたずまい、あの身振りで語られる「軍事」のリアリティの下で死地に向かわせられることは、仮りに僕が自衛官なり軍人なりならば、まっぴらご免被りたい。対現実感覚を喪失した理論や観念が暴走した結果として人を死地に向かわせることの愚かさをわれわれはもう学んでいる民族のはずだ。理論や観念が正しく役に立つとすれば、それらを現実の人間関係の中におろしてゆく時の考慮や斟酌を幅広くできるだけの慎重さ、常識の強さを備えて初めて可能なのだと、僕は思っている。