駅伝の不思議

これまであんまり意識して考えたことはなかったのだが、正月には駅伝を見る、という人は意外に多い。西日本の人がとりわけ駅伝好きだ、という妙な話も耳にしたのだが、そりゃ本当かあ? 西日本の人、教えて下さい。
個人的には何が面白いのかよくわからない。いや、そりゃね、正月だし他にテレビで見るものもないし、何となくそこにつけっ放しにしてありゃ少しは気にしてつまみ食いみたいについ見てしまうのだけれど、でも、考えてみたらありゃかなり妙なもんだ。第一、ナマで見たって何も面白くない。選手が目の前を通り過ぎるのはほんの一瞬。走る選手の表情や仲間たちの様子などを、その背後のさまざなエピソードも含めて何時間にもわたって延々と映し続けるテレビカメラが介在して始めて、あれは“見るに足る何ものか”になってるんだもの。 スポーツを見る、ということの楽しみにはいくつかの水準がある。同じ野球を見るのでも球場へ出かけてその場で見ることの楽しみもあれば、テレビ中継のナイターを風呂上がりにビールかっくらいながら見る楽しみもある。それは同じ「野球を見る」という行為ではあっても、楽しみの質としては全く別のものだったりする部分もある。
これは前々から言っているのだが、テレビのプロ野球中継というのはほとんどもう伝統芸の域にまで達していると思う。見世物の見せ方として完成しているのだ。見る方はそんなものまず意識しないが、クローズアップの使い方やカメラの切り替えのタイミングなど、そういう映像も含めたさまざまな“おはなし”の作り方によって料理されて初めて、野球というスポーツは“見るに足る何ものか”になるわけで、それは球場で大騒ぎして応援合戦する面白さとはまた別だ。そして、「プロスポーツ」というのは、きっとそういう「見る」を前向きに引き受けるだけの度量を持った見世物のことなのだ。
思えば、ただ何となく見る、ブツ切りで見る、ということにわれわれはずいぶん慣らされてきている。ブラウン管やディスプレイに映し出されるものをいちいち凝視したり注視したりしていたら、カーナビなんか危なくて仕方ない。今やテレビは凝視や注視のメディアでなく、ラジオのように流しっ放しにされるメディアになっている。いや、民俗学から見た歴史の教えるところでは、ラジオもまた最初はじっと耳傾けるものだったらしい。メディアに対するつきあい方は、慣れるに従って空気のような何気ないものになってゆくということなのだろう。漠然と見る、ブツ切りで見る、というそんな今どきのテレビの見方に、結果として最もフィットする見世物になったのが、あの駅伝中継ということなのかも知れない。