「たまごっち」騒動

コンピューター(パソコン)と英語とがこれから先、新しいリテラシー(読み書きの能力)として「国民」を選別するものさしになってゆき、同時にこれまで経験したことのない陰微な「差別」意識を生む母胎になる、としつこく言い続けている小生であります。 

ここ数年でドーッと普及の進んだわが国のパソコン事情ですが、もはや好き嫌い抜き、少なくとも仕事では老いも若きも今やパソコンを使わざるを得なくなっている状況はよくわかる。にしても、そこから先、私生活にまで喜んで持ち込んじまって本当にいいんだろうか、という疑問は小生には根強くあります。昨今の「オヤジ」差別の根っこにも、この新しいリテラシーを振りかざした「差別」意識が宿り始めている気配がプンプンして実に気に入らない。それは昨今の企業のリストラのありようにまで影を落としている気さえする。「できない奴は切り捨てたっていいんだ」という狭量さが、パソコンと英語をタテにした「改革」や「合理化」の名の下に正当化されていないだろうか。同じく、学校でもやたらパソコンと英語を売り物にしている所は、ちと要注意。もっとも、今どきの若い衆は活字はおろかマンガでさえあまり読まなくなってるから、そうでも言わないと学校も客集めできなくなってる事情もあるんだろうけど、日本語の読み書きさえあやしいのが、パソコンと英語でいきなりスーパーマンになれるわけがない。

というわけで、小生パソコンはもちろん、ファミコンの類さえほとんどいじったことなし。先日、たまたまソニープレイステーションに触れる機会があったのだけれども、ひと晩で飽きちまった。確かに、家電としてのパソコンのある究極の形態はあのテのゲーム機だとは思うけど、言われてるほど奥の深いメディアだとは、少なくとも今のところは思えない。

でありますからして、世の「たまごっち」騒動にしても恥ずかしながら全くカヤの外。また、メディアがなんであそこまで喜んで報道したがるのかもよくわからない。テレビではNHKとTBSの『ニュース23』がやけに素早い反応をしてた印象があるけど、今やこういう商品がらみの「大パニック」の最も重要な震源は他でもないテレビの報道なわけで、やたら顔を出すメーカーの開発担当者というネエちゃんのもったいつけたもの言いの小鼻うごめかすようなうさん臭さも含めて、なんか結果としてメディアぐるみで盛り上げてる自作自演現象って気がしないでもない。これって東京以外の地方でもやっぱり同じように「大パニック」してんのかあ? 第一、現物はもちろんのこと、それを持ち歩いてる若い衆にすら未だお眼にかかったことないぞ、俺あ。