「はなしを聴く」ことのいまどき

 人さまの話を聴き、それを素材に何かものを書く。「取材」であれ「インタヴュー」であれ「聞き書き」であれ、呼び名はさまざまなれど基本的な営み自体は変わらない。もちろんそれが売文稼業のひとコマでも、はたまた何かおのれの興味関心の赴くままの道楽沙汰でも同じこと。いずれ話しことばで語られる何事かをおのれの耳傾けて聴き取り、それを文字に落とし込んでゆく作業。わが身を振り返ればあれこれ工夫しながらそれなりに当たり前に、そうたじろがずにやってのけることができる程度にこれまで甲羅を経てきたらしいのだけれども、しかし、どうやら昨今、そのような作業の成り立ちそのものがこれまでとはまた違うものになりつつあるらしいのであります。

 その場で聴いてメモをとる、それだけでは聞き違いその他、生身ゆえのありがちな間違いが不安だし、後から事実関係を照合してもう一度確認とる時にも必要だから何か録音機器をそばに置く。以前ならカセットテープやマイクロテープのレコーダー、昨今だとさらに便利なICレコーダーの類からそもそももはや誰もが持ち歩くようになったあの魔法の小箱、スマホってやつに録音機能が備わってるからそれを使う、そこまではわかる。わからないのはそれらに加えて、その取材なりインタヴューなりの現場に身を置く人がたの多くが、同時にノートパソコンを前において、話を耳にしながらカタカタパコパコと忙しくキーボードを叩き、かつモニタをじっと見つめていること。各社共同の記者会見などではもはや自明の作法のようですし、ヘタすりゃ単独の取材でもそう。いや、大学の講義でもそれなりの大学ならそういう光景はもういちいちびっくりするようなものでもなくなってるよ、とこれはこちとら地方零細底辺大学ゆえの浦島太郎ぶりを憐れむような、大都会で教員稼業をしている知り合いの弁。幸か不幸か、当方の職場では目の前でノートパソコン拡げてカタカタやる学生若い衆に未だ遭遇したことがないのでこれは良いのか悪いのか、それはともかく「話を聴く」現場でのその「聴く」作法がそのような変貌を遂げつつあることは、いまどきの流れとして概略間違いないことのようです。

 同じ現場に身を置いている相手が生身の距離でしゃべっている、それを聴くこちら側もまた同じその場に「いる」ということがそれら「話を聴く」上での最低限の共有条件だったはずで、それは話をする相手のちょっとした表情やしぐさから、声の調子や間合いにテンポ、質疑応答があるならばそれらに対する反応から動揺の気配やそれを押し隠そうとする印象など感情のゆれ動きなども含めて全部「聴く」ことに含まれている、そう思ってきましたし、それはいちいちご大層に能書きにするようなものでもないレベルで「あたりまえ」のことでした、そのような作業にある程度従事してきた者にとっては。録音機器を回していてもそれはあくまでも「念のため」のもので、「聴く」のはどこまでもこの自分。その一線を守らないなら電話取材でもはたまたスカイプでも何でも介して「取材」することがおおっぴらになってしまう。実際、この世知辛いご時世のこと、合理化のお題目の下、そのような取材も増えてきているようですが、それでも「話を聴く」ことの前提の「現前性」は約束ごととしても変わらないと思っていました。

 いやぁ、相変わらずのガラパゴスっぷりだなぁ、と呵々大笑、いまやそれどころじゃなくなってるんだぜ、と皮肉っぽく教えてくれたのはこれはまた別の、未だ取材稼業の一線でまだ頑張ってる御仁。それによれば、録音した話を後で聞き直しながらキーボード叩いて文字に起こす、その手間がムダだってんで、その場で相手がしゃべってることを自分が復唱して機械なりパソコンなりに吹き込んではそのまま音声認識ソフトかましてテキスト化してくる若い衆まで出現し始めてる由。はあ、だったらもうその場に「いる」ことすら必要なくなってくるんでね? 初手から電話とパソコンつないで紙にしたら……と喉元まで出かかって、いやいやこれ以上時代遅れの化石扱いされるのも業腹、そこはぐっと呑み込んで、これまでのそれら「話を聴く」過程でためこむことになってきたあんなテープこんなメモやノートの類の山を押し込んだ自宅の押し入れのありさま思い出し、さらに軽くふさぎこんでいった秋の夜、なのでありました。