腫れもの扱い、北朝鮮

 北朝鮮が亡命騒ぎで大変なことになっちまってます。

 「かつてのソ連からマルクスが亡命したようなもの」なんてうまいこと言う向きもあるけれども、何にせよあの黄さんという書記は北朝鮮でそれくらいとんでもなく高い地位にある人ということらしい。

 一方では、新潟の海岸から女の子が北朝鮮に拉致されてた、なんて事件も表面化している。本当にあの国だけはひと皮むいたら何が出てくることやら。この先、仮りに大虐殺がバレたところであたしゃもうな~んも驚かんもんね。

 なのに、未だに北朝鮮を素晴らしい国だと言い続ける人たちがいる。ああ、人間ってのはつくづく意味を呼吸する生きもので、いったん意味づけられた世界の中から自ら抜け出すことがいかに困難か、その難儀を改めて感じる。

 この先、僕たちはおそらく「くに」が崩れてゆく過程を目撃することになる。もちろんベルリンの壁が崩れた時もそれはあったことだけれども、今度は隣近所の話。実際どのような事態が自分たちにふりかかってき得るのか、同時代に生きる者として体験してゆくことになる。「くに」というものの輪郭がどのように溶け崩れてゆくのか。その中でひとりひとりの「個人」がどのように身を処し、どのように「個人」として均衡を保ってゆけるのか。北朝鮮や韓国の人たちは言うまでもなく、日本人である僕たちにとってもこれは切実に直面せざるを得ない現実なのだと思う。

 ただ、戦後半世紀で僕たちは「くに」ということに鈍感になっちまってる。その感覚からすると、韓国にせよ北朝鮮せよ、「くに」や「民族」に対するあの信心深さは率直に言ってやはり異様だ。韓国では近年、これまで以上に日本を眼のかたきにする動きが強まっているらしいけれども、こっちは同じような「くに」信仰でいきなり対抗できるような根拠に乏しくなっている自分たちが自覚できるだけに、そのような「反日」の動きに反発したり落ち込んだりするより先に、まずびっくりするという感覚が正直なところだ。

 ほんとに「くに」って何なんだろう。「君が代は国歌にそぐわない」と言って街宣車に突っ込まれたという一件にしても、そこらの人でなく県知事という地位にある人ゆえの災難なんだろうけど、にしても、嘘でもタテマエでも今どきそこまで「くに」がらみのことがらを信心できる右翼ってのも、僕の感覚からすればやっぱり韓国や北朝鮮と同じ。そこまで強く思い込める根拠って何、と問いたくなる。 もう少し、せめて背筋伸ばして現実と直面できる程度に僕たちも「くに」を取り戻した方がいいらしい。なるほどそれはそうだと思う。でも、今のこの日本でどうやって?半世紀の間、ないがしろにしてきた宿題のツケは重い。