朝鮮人っていやだなあ

 「最近、朝鮮人っていやだなあ、って思うんですよ」

 「朝鮮人」――確かに、N君はそう言いました。

 えっ、と思って改めてその顔を見直しました。別にいつもの彼でことさら変わった様子もない。氷の溶けかかったアイスコーヒーをストローでかきまぜながら、薄い唇をかるくとがらせています。

 この冬で確か24歳。横浜近郊に生まれ育って、家もどうってことのない公務員家庭。当人も、別に政治だの思想だのと小難しいことをこねまわすタイプの若い衆じゃない。あたりまえの大学にあたりまえに行き、あたりまえに卒業して、この不況下に何とか流通関係の小さな会社にもぐりこんで、まあ、あたりまえに会社員をやっている男です。

 彼がこんなことをこんな風に言うのを耳にすることは、これまでありませんでした。たまに会いたいと言ってメイルをよこし、時間の都合がつく時にこうやって喫茶店などで雑談をかわす、そんなゆるいつきあいのある若い友人のひとりなのですが、これまでそういう剣呑な話題はいつもこちらが振るのが常で、それを彼は困ったような顔をしながら生返事しつつ彼なりに興味を持ったところだけは取り入れる、そんな関係だったのに、ここに来て「朝鮮人はいやだ」なんてトンガったもの言いをするなんて、はて、いったい何があったのか。

 「朝鮮人、でいいんですよね。いや、韓国人ってのもヘンだし、朝鮮民主主義人民共和国ですか、テレビみたいにあんな長ったらしい名前でいちいち呼ぶのもかったるいんで、もう朝鮮人って言ってしまっていいかな、と」

 いわゆる在日朝鮮人に対する民族差別やそれにまつわる歴史などについて、彼が何も知らないわけではない。通っていた大学でも言葉にならない微妙な雰囲気で「朝鮮人」というもの言いをこわれもののように扱う約束ごとがあったみたいだし、高校や中学ならばなおのこと、いまどきの「学校」のデフォルトである「民主的」な教育を受けてきた、そんな世代です。少し前、あたしがいわゆる歴史教科書問題に首突っ込んでいたのをどこかで聞き知った時も、「そういう難しいことってよくわかんないんすけど、そんなことやって仕事とか身のまわりとか大丈夫なんですか?」と、見事に「普通の人」の心配をしてくれていたし、何より、彼との間ではいつもお互い知り合うきっかけになった競馬の話ばかりで、「そういう難しいこと」を話題にすることはあまりなかったと言っていい。第一、話題にしたところで話にならない。なのに、どうしてまたここにきて。

 「ワールドカップですよ。あれ、ほんとにひどかったじゃないですか」

 ああ、そうか。この夏行われた日韓共催のワールドカップ。あれがきっかけだったか。

 「ええ、あいつら、あそこまで露骨なえこひいきをやるのかって。ほら、韓国が後ろから足狙ってタックルとかひどいファウルやってもとられないし、観客の応援だってそこまでやるのか、ってくらいなりふり構わずだったし、おいおい、いくらなんでもそりゃないんじゃないの、って場面はたくさんありましたよ。第一、大会の間から審判の買収疑惑なんてずっと言われてましたし。僕なんか特にサッカーが好きってわけでもなかったんですけど、やっぱりみんな盛り上がってるイベントから興味は持つし、それに見てたらやっぱり日本頑張れって思うじゃないですか。試合やってる連中だって僕たちと同じ世代なわけですし。その目の前であんなことされてるのを見たら、やっぱり普通に感じ悪いすよ」

 まあ、それはよくわかるよね。別に難しい意味とか背景とか関係なく、あれってなんなの、みたいな素朴な違和感。それを肌で感じたってのは別に不思議でも何でもない。当たり前だと思うよ。でも、それって大学とか高校なんかだと「異文化理解」とか「国際交流」とかそういう言い方で先回りして説明されて、その「あれってなんなの」って違和感を持ってしまったこと自体がいけない、みたいに思ってなかった?

 「あ、それはあるかも。っていうか、どんなにヘンな習慣とかがあってもそれは文化の違いだから尊重しなきゃいけない、っていうのは自分も思ってますからね。ほら、肌の色で差別しちゃいけない、宗教の違いで差別しちゃいけない、ってやつですよ」

 N君、このへんはそこそこ真面目な学生やってたようです。去年だったか、就職活動を始めた頃には先行きの不安からか「海外青年協力隊ってありますよね。あれってどうなんですか」なんてことも言ってたくらいで、ボランティアだの福祉活動だのを単位がらみで奨励しさえするいまどきの学校をくぐりぬけてきた世代だけあって、そういう「何か社会の役に立つこと」をしたい、できれば「国際的」に、といった傾きは人並みに持っているようですし、海外旅行にだってバイトの金をためて何回か行っていたはず。洋楽だって聞けば、ハリウッド映画も見る。あたしの手前あまり言いたがりませんが、彼女にせがまれればディズニーランドにだって出向いてあの長蛇の列に加わるようです。「外国人」一般に偏見を持っているわけはありません。

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 なのに、です。そんな彼が、ワールドカップでの韓国人たちのいささか常軌を逸した盛り上がりぶりを眼にして「なんかいやな感じ」を抱いてしまった。おそらくそれは、彼だけのことでもなかったはずです。

 「うわあ、たまらんなあ」

 「あそこまでやるのって、やっぱり日本人にはできないよね」

 「あいつら、恥ずかしくないのかなあ」

 ……いずれそういうつぶやきが、はっきりと言葉にならないまでもそれぞれの心のうちにあぶくのようにわきあがってきて、そしてそのことに本人自身がとまどいながらも自覚するようになってきている。

 これが他の国、他の民族ならばどうでしょう。たとえば、よくもわるくも思い切り遠いアフリカあたりの国で、自国のサッカーチームの活躍に盛り上がるありさまを同じように見せられたとして、さて、あたしたちはこういう風に「なんかいやな感じ」を抱くでしょうか。

 おそらく、そうじゃないと思います。

 ならば、同じ黄色人種、黄色い肌と黒い髪(最近、日本人女性についてはこれはあてはまらなくなってますが)、はれぼったいひとえまぶたにかつて西洋人に「巴旦杏のような」と言われた細いつりあがった眼で平たい顔の、よく似た民族が同じありさまを見せていたとしたら。

 これも、おそらく微妙に違うんじゃないかと思います。シナでも台湾でも、韓国以外の東アジアの国で同じような盛り上がり方をしているのを見せられても、ここまで「なんかいやな感じ」を抱くことは、あまりないんじゃないか。

 やはりそれが韓国であること、「朝鮮人」であること、というのが抜き差しならない要因として、その「なんかいやな感じ」の下敷きになっているらしい。今回のワールドカップで改めて見せつけられた韓国と「朝鮮人」のありようは、案外強烈に日本人の意識に〈何か〉を自覚させたようです。もっとも、その〈何か〉の内実というのは、ただ単に「民族差別」といったのっぺりしたもの言いにいきなりくるんでわかったつもりになってしまっていいようなものじゃない、おそらく高度経済成長このかたの日本人がおのれの抱え込んだ〈いま・ここ〉をどのように認識しにくくなっているか、に関わるような、案外めんどくさいものだったりするようなのですが。

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 ともあれ、このN君などはおそらく典型的なひとり、なのでしょう。

 それまでは学校の知識として、あるいはメディアを介して垂れ流される一方的な「そういうもの」として受け取ってくるだけだった韓国や北朝鮮についてのあれこれが、一気に具体的な映像を伴って分厚く流通するようになり、それによって「そういうもの」としての韓国・北朝鮮イメージが一気に相対化されてしまった、と。もう少していねいに言えば、それまではいかに情報化社会だのIT革命だのと言ってもしょせんは「情報」、それも学校という限られた空間の限られたチャンネルを介して「正しいこと」として注入されるものか、そうでなくてもメディアをくぐって漂白され、整形されたものでしかなかったのに、サッカーのしかもワールドカップという否応なしにナショナリズムをかき立てられざるを得ないイベントの予期せぬ増幅力によって、質量の伴わなかった「情報」の集積にある意味「身体」が宿るようになったんだと思います。オリンピックでもなければ、野球のワールドシリーズでもない、サッカーのワールドカップだった、ということの予想外の効果というのは、案外こんなところに現われていたようです。

 スポーツが巨大なビジネスになっていることは、いまさら言うまでもありません。サッカーのように世界規模での市場を前提にするとなればなおのこと。日韓共催という形でのワールドカップ開催が決まってゆく過程から、そのようなゼニカネのからんだ策動がうごめいていたことは、すでに常識になっていました。当然、広告代理店の資本の力に煽られてワールドカップ以前から、メディアの舞台では「韓国ブーム」があの手この手で演出されてきていましたし、またそのことを普通の人もある程度察知していました。

 いろんな市場調査にこれはかなりはっきり出ていますが、おおかたの普通の人、あたりまえの日本人にとって「韓国」イメージとは、「焼き肉」「キムチ」によって作られるものであり、それ以上でも以下でもありませんでした。海外旅行先としても、それら食べ物の次には偽ブランドものをめあてにしたショッピングかロッテワールド、あとはカジノくらいしか目玉がないわけで、近場で安く行けるというメリット以外、リピーターを獲得しにくい国と言われてきましたし、事実、バブル期以降はなおのこと、旅行会社の思惑と違って韓国ツアーは閑古鳥が鳴いているようです。

 にも関わらず、ワールドカップ前から、メディアとその背後にある広告資本の思惑がこの「日韓友好」ブームを煽ろうとしてきた。ここ一年ばかりのことに限っても、テレビドラマではとってつけたような「日韓」ものが連発され、まるで文脈を抜きにいきなりハングルやテコンドーといったアイテムが挿入されています。音楽はさらに先行していたところがあって、韓国のアイドルグループや歌手、ミュージシャンを日本市場でデヴューさせる企画はいくつも立ち上がりましたし、映画でも韓国が政府肝煎りのプロジェクトを組んでいることもあって、「コリアンムービー」のブームを煽ろうとする企画がテレビや雑誌などであちこちに見られました。ハンバーガーその他のファストフードでも、コリアンテイストと称する味付けの新製品が投入されていました。それらの多くは音楽関係などいくつかの例外を除いては一過性のもので、市場にあまり見向きもされないままだったわけですが、それでもまだしつこく「日韓」を歌った企画は市場にちらほら出回っています。


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 とは言え、食材を介しての「韓国」は確かにあたしたちの日常に浸透してきているところがあります。

 たとえば、キムチの売り上げは、ここ数年30~40%増の驚異的な伸びと言われていて、いまや二百億円市場、いや、五百億円に届くという説さえあります。この夏には、漬け物市場の消費量第一位にキムチが躍り出るという調査結果も発表されました。沢庵に代表されるこれまでの伝統的な漬け物類の消費が伸び悩んでいる分、余計にキムチが目立つというところもあるのでしょうが、この十年間で約三倍に市場が拡大しているのは事実です。

 これには、キムチ単体として以上に、豚キムチやキムチ鍋などの調味料として使われるようになったことが大きいはずです。「激辛」ブームなどと言われた頃から始まった唐がらしの「辛さ」に対する馴致過程がひとめぐりして、日本人の味覚の習慣の中にようやく根づき始めたということなのでしょう。これはとんこつスープのラーメンに代表されるような動物性素材のスープが日常の食べ物の中に定着するのに、ほぼ戦後30年以上かかったのと同様、それまでの食習慣にはなじみの薄い食材が日本人の日常に浸透してゆく過程の事例として注目されます。

 焼き肉も同様です。もともと韓国風の焼き肉は家庭で食べるものではなく外食で、それもごく限られた地域の店でしか食べられるものではありませんでした。普通の家庭で焼き肉を食べに行くことが抵抗なくなったのは、せいぜいここ20年あまりのことと言っていいですし、まして、家庭でカルビだのロースだのを焼いて韓国風のタレにつけて食べることは、肉食の習慣が浸透していった戦後の過程でもかなり最近のことです。

 代表的なタレのブランドである「エバラ焼き肉のタレ」が、肉屋を介してこのようなタレをつけて食べる焼き肉の普及をやり始めたのが60年代半ば。それでも日本人の食習慣にそれがある程度なじむのには十年ほどかかりました。70年代後半になって北朝鮮系の在日資本のモランボンが韓国風のタレを発売したのと相乗効果で、醤油ベースのどちらかと言えば和風の味付けを主力にしていたエバラのタレも売れるようになった、と言われています。

 敷居の高くない居酒屋や質実剛健な献立が売りの定食屋の品書きの中に、冷や奴やさつま揚げやカツ丼や焼き魚定食と並んで、いつしか豚キムチイカキムチ、ナムルやカルビ定食などが並ぶようになってゆきました。70年代以降、いわゆる高度経済成長が獲得した「豊かさ」が、経済的な大文字の数字のレヴェルからさらに身近なところ、日常のさまざまな微細な局面に浸透してゆく過程で、そんな風景はいつしかあたりまえのものになっていった。焼き肉はごちそうのひとつとして公認され、家族揃ってもうもうたるカルビの煙に燻されることもまた新たな喜びになりました。

 そうやって、知らない間にあたしたちは「韓国」に、「朝鮮」にゆっくりとなじんでゆきました。すでにそのような歴史をあたしたちは生きている。

 ふだん意識するような水準での「韓国」や「朝鮮」に対してどのような感情、どのような思想を抱いているかとはひとまず別に、味覚や嗅覚、それらを含んだ五官を介する身体の水準からの、まさに文化と歴史、人間の営み本来の速度での日常化。時代が変わる、社会が変貌してゆくということは、その最も低いところではこういう過程を必ず含みこんでいるものです。

 にも関わらず、あたしたちはそのことを頭の中の「韓国」、あらかじめ言葉にされて公認され、おおっぴらに流通さえするようになった「朝鮮」とつなげて意識することはほとんどしてきませんでした。わざわざ意識する必要もなかった、という程度にその浸透は日々の営みに即したものであり、かつまた、「食」というどうしようもなく身体的な領域とからんだ過程でもあったということでもあるのでしょう。

 ただ、こういうこともあります。同じ70年代からこっち、日々の暮らしと遊離したところで学校やメディアを介して流布される公認された「韓国」「朝鮮」イメージは均衡を失した形で肥大してゆき、日常で語られないままに浸透していた焼き肉やキムチとのズレを広げていったところがあります。後に「自虐的」と呼ばれるようにもなった、「戦後」の過程そのものに構造的に組み込まれた日本人自身の自意識の歪み、自己認識の回路の短絡もまた、この過程でさらに一段とその難儀さを増して、ある種病的なものにまでなってゆきました。90年代始めこのかた、にわかに顕在化してきたかに見えるナショナリズムと文化的・民族的自意識の問題は、このようなからくりの中で、本来まっすぐに言葉と出会い、十全に語られるべき〈何か〉がこのようなからくりの中で二十三重に隠され、忌避されてきたことに対するある種必然です。その意味でそれは、右や左、保守やリベラルといった公認され意識化された水準でだけ解釈しようとしてもしきれるものではない、言わば見えない領域を必ずはらんでいる。右や左の図式だけでここ十年あまりの状況を裁断しようとする試みが、それ自身いかに誠実なものであっても、ことごとく同じような隘路、同じような無限ループに追い込まれて自壊していったことは、いちいち例をあげるまでもないでしょう。そして今もそれは続いています。「韓国」であり「北朝鮮」であり、あるいは「半島」であり、いずれそのように「戦後」の言語空間で緊急避難的に許容されてきた一群のもの言いたちによって、もともと指し示されるべき〈何か〉は厳重に取り囲まれ、それによって逆に空虚な空白として、言わばマイナスの実存を獲得していったようです。

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 昨今の北朝鮮の拉致疑惑をめぐる一連のできごとの中で、個々の事実とはひとまずずれたところでひとつはっきりしてきたことがあるとしたら、これまであたりまえのように日本の知識人たちにとってある種の「文化」となってきた「韓国」「半島」をめぐる作法が、最終的にもうあたしたちが現在生き、そしてこれから生きるべき現実を認識してゆく上で百害あって一益なしであることが判明した、そのことでしょう。いわゆるマスコミから学校、いずれ知識人と呼ばれてきたあたりにまさにひとつの「文化」として漂っていた無意識のうちの「親韓」「親半島」の空気が、これまで二重三重に隠され、見えないものにされてきた〈何か〉によってはっきりと覆されつつある。それは、ワールドカップを介して眼前の事実としてつきつけられたあの韓国人たちの常軌を逸した熱狂ぶりや、そしてまた、昨今大きな問題になりつつある北朝鮮の拉致疑惑をめぐる一連のできごとによって、その〈何か〉にもう一度明快な言葉を与えようとする動きとして現われているように感じます。

 それこそが、あのN君が奇しくも口にした「朝鮮人」というもの言いに込められた時代の必然なのでしょう。メディアが、そして倫理も自省もなくした広告資本がその欲望と意志のままに煽り続ければ続けるほど、日常の中にすでに埋め込まれた「身体」の水準での〈何か〉の確かさは増幅されてゆきます。

 「朝鮮人って、なんかいやだよね」

 焼き肉をごちそうと思い、キムチを喜んで食べ、韓国のアイドルグループに熱狂する日常とは別の水準で、間違いなく〈何か〉は長い間奪われた言葉を回復しつつある。「朝鮮人」とはっきり言うこと。そう言うことで「韓国」も「北朝鮮」もまさに同じ民族、同じ歴史の来歴の中にあることをもう一度、あたしたち日本人の側からとらえなおす手がかりが見えてくる。

 「なんか、こういう話も最近、友だちとよくするんですよ。朝鮮人ってうざいよね、なんて言うと、そいつらも、だよねえ、なんて言ったりして」

 N君は来月、初めての出張で台湾に出かけるそうです。韓国とは取り引きないの、と尋ねると、なくはないですよ、と言う。そのうち韓国に出張することもあるんじゃないの、と追い打ちをかけたら、その時は気合い入れて行かないとナメられますかね、と言って、鼻の脇をこすってみせました。