オシッコで命拾い

「オシッコで命拾い」という、ちとけったいなニュースがありました。詳細は不明だけれども、故障で車輪が出なくなった油圧装置に乗員がオシッコを入れて応急処置をしたということらしい。飛行中の機内からそんな処置ができて「乗員3人無事着陸」というのだから、きっとごく小型の飛行機だったのだろう。

で、何が言いたいかというと、このニュースの中の「オシッコ」という要素。これが民俗学者としてはツボにグッとくるのであります。

あれは戦争中の話だったと思うけれども、酷寒の中国大陸で戦車のキャタピラの車軸が折れた時に、やはりオシッコと雪を混ぜたものを詰めて凍結させて応急処置したというエピソードが確かあった。同じく、重機関銃か何かの銃身が焼けるのをオシッコで冷やしながら戦ったという話もどこかで耳にしたように思う。もっと些細なところでは、虫さされにオシッコをかける、なんて民間療法もありますな。 何にせよ「オシッコ」がこういう“おはなし”の要素として使い回される条件は、何かそういう緊急事態の応急処置に役立った場合と相場が決まっている。つまり、危機一髪を際立たせ、臨機応変の「知恵」を語るための要素として定番なのだ。その意味で、一時期流行った飲尿健康法なんて面妖な代物も、そういうわれわれニッポン人の想像力の中の「オシッコ」の意味づけとどこかで深く関わっているのだろうと僕は思う。

どんなに「中立」で「客観的」であろうとしたところで、ニュース報道というのはそういう人間の想像力が抱える“おはなし”の型通りからそうそう逃れられるものではない。通常のストレートニュースですらそうなのだから、コラム的ないわゆるヒマネタはなおのこと。そんな言葉と意味とに縛られたわれわれ人間の限界をあらかじめ前向きに思い切ることのないニュース報道は、妙な「正義」を背負って硬直する。だから、われわれ読み手の側にも、そういう“おはなし”のいい加減な豊かさをわかった上でニュースとつきあう知恵が今や切実に必要なのであります。


さて、一昨年の秋からご愛読いただいてきたこの欄も今回が一応の打ち止め。わが『サンデー毎日』は春に向けての模様換えでして、こちとらもそれに便乗し、次週からは「ちょこざいなり!」という看板で新装開店致します。学者にあるまじきおっちょこちょいの向こう意気一発で、このますます“何でもあり”の世間のさまざまなよしなしごとに、さて、どこまで身体を張ってもの申してゆけるものか。どうせまたじきに七転八倒の大騒ぎになるとは思いますが、これも何かのご縁、ひとつどうか引き続きお見届けいただくようよろしくお願い申し上げます。