「歴史」の「正しさ」について

 

 

  八〇年代というのが何だったか、ということにこだわる性質(たち)が、どうやら僕にはあるようです。どうしてそんなにこだわるんだ、と、気心知れた友人にさえ時にあきれられるくらい、はたから見てその執着は強いものに映るらしい。

  それは、自分の生まれ育った時代、自分が今のような自分になっていった過程を、この今の自分の位置から確認しておきたい、確認して、これから先の自分を整えてゆく材料にしておきたい、敢えて言葉にしてしまうならばそういう欲望に根ざしているように思えます。だから、何も八〇年代に限ったことでもなく、自分がこの世に生まれ落ちてからこのかた、僕の場合だとおよそ昭和三十年代半ば以降のことについて、何か半ば反射的に前のめりになってしまうところがどうやらあります。思えば、おかしなことです。

 けれどもそれは、そのような自分について「客観的」な「認識」をしたい、というのともまた少し違う。何かひとつの到達点としての「客観的」な「認識」があって、そこに向かいたいというのではない。今ある自分、〈いま・ここ〉という場所にしか存在していない自分の位置から見通せる遠近法の中での「社会」や「歴史」を言葉にしたい、そういうもののように思えます。いい比喩かどうかわかりませんが、誰にとっても有用な「客観的」で正確な地図が欲しいというわけではない。いや、そのような地図も自分にとって必要であることはもちろんですが、敢えて言えばそこからさらに先、そのような地図に対峙して関わろうとする〈いま・ここ〉の自分との関係の中で、その地図の中の記号や、等高線や、地名や、あるいは約束ごととして塗りわけられた山並みの色合いなどまで含めてもいい、それら紙の上の事象がどのような意味、どのような気配で自分の中に立ち現われてくるのか、その部分により心魅かれてしまうということらしいのです。

 それが「客観的」な地図に対して「主観的」な地図ということなのかどうか、そのあたりのことはよくわかりません。「客観的」に対して「主観的」と言ってしまえるほどあっさりしたものでもないような気がしますし、何より、「客観」と「主観」という二項対立でとらえてすっきりするようなものでもないように思えます。ただ、こういうことは言えるのかも知れません。人文地理学から発したと聞くメンタルマップという技法があって、これは現実の空間ではなく、人が意識の中で空間をどのように認知しているかということを確かめてゆくためのものなのですが、地図の比喩で言うならば、なるほど紙の地図ではなく、むしろそのようなメンタルマップとしての「社会」や「歴史」の方に僕は関心があるということになるのかも知れない。特にお勉強好きでもなく、また、そのようなお勉強が得意でもなかった学生時代、ひょんなことから柳田国男に興味を持ち、ずるずると民俗学の方へとのめり込んでいった経緯には、当たり前ですが、そのような僕自身の、大げさに言えば世界に対峙する時の性質(たち)といった部分が根深くからんでいるようです。

  ですから、僕が「歴史」ということを考えるのも、そのような経路からということになります。まさにメンタルマップとしての「歴史」、〈いま・ここ〉の自分にとって、その位置から一点透視で見通せる風景としての「歴史」ということなのでしょう。

  けれども、これまでの僕のささやかな経験では、このような意味での「歴史」というのが、どうもうまく響く人と響かない人というのがいる。それは、世の中にいろんな人がいるという次元のことではなくて、大きく言えば、人が現実をとらえてゆく時の手癖みたいなものの決定的な違いに根ざしているように思えます。そのような「歴史」に対する共鳴のよくない人と話をする時は、何か熱伝導率が極端に違う素材でできている全く別の存在のような気さえする。申し訳ないけれども、ああ、違う人間なんだ、というよりもさらに、違う物質なんだ、とさえ思ってしまうことさえ少なくありません。


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  印象として言わせてもらえば、そのような人たちは、どうも「歴史」に「正しさ」を求めるような気配が強いようです。

  けれども、「歴史」とはそんなにただひとつの「正しい歴史」として存在するわけではない。「歴史」の「正しさ」というのがあるとしても、それはいわゆる自然科学の「正しさ」などとは少し違うところに存在するものだろうと、僕は思うからです。

  かつては「科学」としての「歴史」ということが盛んに言われました。いや、今も声高には言わないまでも、そういうおおざっぱな信心を持っている人は実はまだ少なくない。われこそは「歴史」の専門家、と自ら任じているような人たちの中には結構な割合でいるようですし、何より、かつてのようにその信仰告白をはっきりしにくくなっている分、陰微にくぐもったものになっているようでもあります。

この「科学」というのは、言うまでもなく戦後、輝かしいもの、ある価値と共に語られ、使い回されていったもの言いのひとつです。「民主化」「民主主義」といったもの言いとセットになって、「科学」は新しい日本、次の時代の日本をつくるためのスローガンになっていった。僕の生まれ育った昭和三〇年代から四〇年代、後になって「高度経済成長」と呼ばれた時期には、そのような「戦後」を規定し、ある流れを起動していったいくつかのもの言いがすでにある結果を伴って時代の空気の中に埋め込まれていたらしい。

  だから、その時代の子であるわれわれには、たとえばそのような「科学」の輝かしさが、さまざまな回路で刷り込まれています。

 「心やさし、ラララ、科学の子」というのは、かの有名な手塚治虫の『鉄腕アトム』のテレビ主題歌の一節ですが、まさにその「科学の子」という言い方で語られるアトムの活躍に、われわれは当然のように自分の姿を重ね合わせて見ていた。何しろ、アトムの後見人は「科学省」の「お茶の水博士」なのですから、自分たちの背後には常にそのような「科学」という後ろ立てがあるんだ、という意識を、当時の子供たちが持ってゆくことは半ば必然だった。

  今、カラオケでこの「鉄腕アトム」の主題歌を奇妙なヤケクソな明るさと共に大熱唱して騒ぐ三十代のサラリーマンなどがよくいます。そのような光景を眼のあたりにするたびに僕は、「科学」というもの言いに信心を持つことを当たり前に刷り込まれ、そしてそれが何かより大きなうしろ立ての庇護のもとにあることを無条件に保証してもらえることだという意識を持っていた、わが同世代の「歴史」のある部分が露頭している現場に立ち会っているような、気恥ずかしくもどこかなつかしい気分にさせられます。


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 そのような時代背景の中で、「歴史」もまた「科学」にならなければならないと言われていったらしい。

  それにはもちろん理由があります。戦前の「歴史」は、いわゆる皇国史観と呼ばれる歴史の見方に縛られていた。もっとも、この「縛られていた」というのは戦後になってから言い出したことで、戦前の日本人がそのように「縛られていた」と感じていたわけではありません。当時はそれが当たり前の「歴史」、正しい「歴史」として教えられていたし、ほとんどの日本人はそれを「まあ、そんなもんだろう」と思っていた。

 それをさらに「信じていた」という言い方をする人もいますが、それは少し違うのではないか、と僕は思います。誰もがそんな「歴史」を一律に「信じていた」わけでもないはずだ。なぜなら、そんな「歴史」なんか知らなくても人は平気で生きてゆくことができるからです。

 たとえば、お年寄りにむかしの話を聞いてゆく時、これは今ならばもう七〇代半ばよりさらに上の年配の人ぐらいしか見られなくなったことですが、ある“おはなし”の連鎖としてしか記憶されていないむかしの中に、平然と弘法大師や俵藤太や山中鹿之介や小野小町といった、われわれからすれば「フィクション」の人物やそのエピソードが介在してくることがあります。自分が確かに体験したこと、見聞したことと、あらかじめ“おはなし”として耳にしたり眼にしたこととが混在している。慣れないうちは「この人、どうかしてるんじゃないか」と思ったりもしたのですが、しかし、考えてみれば人間のリアリティなどというのは誰しもそういうもので、われわれが思っているような「フィクション」と「真実」の間の垣根というのは、“おはなし”そのものの手ざわりの確かさの度合いと対応しているわけでもない。

  確かにこの自分が体験したこと、見聞したこと以外は、どのようなものであれ、人は社会的な言葉と意味のからくりを媒介にして自分の内側に取り込んでゆくしかない。その限りで、どのようなリアリティも“おはなし”の働きから逃れられるわけではない。われわれが自明のものと思っている「真実」の水準に、同じくわれわれが自明のものと思っている「フィクション」の水準が連なっているような、その限りでは奇妙な語りがお年寄りからつむぎ出されたとしても、しかし、その語る人にとっての“おはなし”の確かさにおいてはそのように連なることが最も自然であったらしいことは推測できる。

  なるほど、それはいわゆる「歴史」ではないかも知れない。しかし、世間とは、その程度にそのような「歴史」ならば、別にないままでも生きてゆけるものであるらしい。それはどの時代、どの社会においてもおおむねそんなものらしいという程度に、戦前という時代を生きていた日本の世間の人たちの多くも、そのような「歴史」に対してはそんなに深く考えることはなかっただろうということです。



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  戦前の「歴史」とは、いわゆる皇国史観だった。天皇万世一系ということになっていたし、なるほど教科書にしても、神武天皇の神話から説き起こされています。戦後になって、神話なんていいかげんな“おはなし”を「歴史」の教科書に入れるなんて、というわけで、人々は「科学」という名の下に「歴史」から神話を追放しました。もちろん、神話のリアリティについての、もっとはっきり言えば、語りと耳とによって伝承されてゆくフォークロアとしてのリアリティがどのように〈いま・ここ〉の中に埋め込まれているかについての認識も目算もないままに、神話を「歴史」であると学校の教科書で教えてきた、そのことの反省は当然あるべきだったと僕は思いますし、当時の状況からすれば仕方のなかったことだとも思います。しかし、と同時にこれは、「歴史」が“おはなし”であることを自ら放棄したことでもあった。

  「科学」は「正しい」。「科学」は“おはなし”のようないい加減なものではない。

  「科学」はその「正しい」手続きに乗っとって証明された「事実」によって支えられる。だから、「科学」的思考というのが大切なのであり、誰もがそれを身につけて「歴史」を見る眼を養わなければならない。神話は「事実」ではない。“おはなし”という言葉の働きは「事実」を司る言葉のありようとは違うものだ――概ねそのように戦後の日本人は思うようになっていったのではないでしょうか。

  このような考え方からは、当然ですが、おもしろいこと、楽しいことが抜け落ちてゆきます。いや、もう少していねいに言いましょう。「科学」の「正しさ」の枠の中にだけあるおもしろさ、楽しさが公認のものとなってゆきます。言い換えれば、おもしろいこと、楽しいことにも公認のものと非公認のものとができてしまう。

  確かに、「科学」のおもしろさ、楽しさは懸命に宣伝されました。とりわけ、先にも触れたように、戦後それは非常に力を入れて語られた分野でした。もちろん、それ自体は悪いことではない。何より、「啓蒙」ということの内実の多くは当時、まさにそういうことでした。しかし、同時にそのような「啓蒙」の外側に追いやられたおもしろさ、楽しさは、陽の当たらないところで屈折してもゆきました。

 「科学」におもしろさ、楽しさを求めるのは「正しい」。それ以外のおもしろさ、楽しさはいかがわしい。思えば、僕などが小学校の頃、教室の片隅の、まるで仏壇か御真影の奉安殿のような重々しさの、鍵さえかかる四角い木の箱に納められたテレビで見させられた「教育番組」などに登場してくる男の子や女の子が、まるで申し合わせたようにそのような「正しい」おもしろさ、楽しさを体現していたのは、おそらくそういう理由によります。きっと、兵隊さんにあこがれることがそのような公認された「正しさ」だった戦前の子どもたちと同じように、われわれ戦後の子供たちは「科学」に関心を持つことが公認された「正しさ」になっていったのでしょう。そして、いつの時代も、子供というのはそういう大人の世界によって公認された「正しさ」に対して常に敏感に反応して、自ら身をすり寄せてゆく生き物です。

  「科学」というもの言いが「歴史」に作用して「正しさ」の存在証明となり、そして「歴史」から“おはなし”がはがれ落ちてゆく。少なくとも、戦前という時代の中で「正しさ」をまつわらせていた「歴史」とは違う輪郭、違う手ざわりとして、新たな「歴史」という言葉やもの言いが作り出されてゆく。そのような流れの中で、さて、一番の被害者は誰だったのかということになると、もしかしたらそれは、本来備わっていたはずの楽しさ、おもしろさといったものさえもそのような「正しさ」によって暗がりのもの、二流の非公認のものとして抑え込まれ、なおかつ、おおっぴらな言葉の営みの場からはひとまず〈それ以外〉として、新たな価値に熱狂し、ごった返す「戦後」の雑踏の中にまぎれさせられていった、あの“おはなし”という言葉の営みだったのかも知れません。