「研究」という名の神――あるいは、「好きなもの」の消息について

「人の作りだした? あの時南極で拾ったものをただコピーしただけじゃないの。オリジナルが聞いてあきれるわ」
「ただのコピーとは違うわ。人の意志が込められているものよ」
                   ――第20話「心のかたち、人のかたち」

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 おそらく、『新世紀エヴァンゲリオン』について何かものを言えるだけの背景を僕は持っていない。

  いや、もう少していねいに言おう。こういうすでに汗牛充棟、ひと山いくらで書店に並べられている「エヴァ本」のひとつとして市場に流通することが定められている本の中で、それら「エヴァ本」を喜んで買い、そして読もうするような読者の最大公約数の期待に対して応えられるようなものを書いて示せるだけの前提を、おそらく僕は持っていない。

  まず、アニメについては全くの素人。SFについても知識がないし、そこから派生して昨今の自然科学がどのような水準に達しているかについても完璧に暗いし、何より関心も薄い。コンピューター関係も見事に素人。マンガは、これはひと並み以上のマンガ読みだと自覚しているし、これまで発言もしてきているけれども、だからと言ってエヴァンゲリオンをそのように「解釈」してゆくのが通例の昨今の「エヴァ本」一般の水準において、その知識や経験があまり役に立つとも思えない。良くも悪くも、エヴァンゲリオンについて何かものを言うだけの資格がないという自覚があるのだ。

だから、これまでもエヴァンゲリオンについてはほとんど何も言ってきていない。表立っての活字としてはただ一回、新聞から求められてこんな原稿を書いた。基本的には紹介記事以上のものではないが、大手日刊紙という媒体の性格を考慮して世間に向かってエヴァンゲリオンについて説明するという条件を考えれば、まあ、このあたりがギリギリの線だろうという判断だったと思っていただきたい。

 『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメがあります。


 一昨年秋から昨年にかけてテレビ東京系列で放映され、後半、物語の異様なまでの混乱も含めて爆発的な人気を呼びました。その後、ビデオやレーザーディスクになったものも驚異的な売り上げを示し、来春には劇場公開も決定しました。


 わが国のアニメ表現の歴史は『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』とで画期される、と言われますが、僕のようなアニメ門外漢の眼から見ても、最近のアニメは明らかに以前のような“子どもだまし”ではなくなっています。“おはなし”という約束ごとの中での新たな“リアル”を立ち上がらせるために、膨大な同時代の才能が惜し気もなく注ぎ込まれてきている。ひとまずその成果は実にめざましいものです。


 『エヴァンゲリオン』には全編にわたって「父性」が潜在的なモティーフとして影のように立ちはだかっています。とは言え、描かれるのは研究者や技術者など「わたしたち家族という現実から逃げてばっかりの人だった」(登場人物のひとり葛城ミサトの述懐)という父親ばかり。製作者も含めた今のアニメ世代が現実に親になり始めた体験をくぐった後の自己認識なのでしょう。その自分たちの子どもの世代が、西暦二〇〇〇年の「セカンド・インパクト」という謎の大破滅の後の日本を舞台に、次々と来襲する「使徒」と呼ばれる侵略物体との闘いを通じて自己実現しようとしてゆく、それが“おはなし”の骨組みです。花形は、秘密裡に選ばれた一四歳の子どもたちの操縦する「汎用人型決戦兵器」エヴァンゲリオン。『ガンダム』のモビルスーツ以来、すでに日本アニメのお家芸の巨大ロボットです。そのパイロットの子どもたちが通う中学校と、「使徒」と闘うネルフと呼ばれる国連直属の特務機関のふたつを主な舞台として“おはなし”は展開されてゆきます。


 しかし、これは何と自閉的で自己中心的な“おはなし”なのでしょうか。最終兵器エヴァンゲリオンを独占し、あらゆる国家も権力も平然と超越する権限を持つネルフ。もちろんそれはかつての怪獣もの以来の「地球防衛軍」的設定に過ぎないとも言えるわけですが、にしても、“子どもだまし”でないリアリティに歩み寄ろうとし、事実それだけの表現技法の成熟を現実のものにしてきている分、製作現場の中枢にいる高偏差値世代(それは観客であるアニメ世代の中核でもあります)の自意識や世界観が無惨なほど反映されてしまっています。


 それはたとえば、少し前評判になった小説『パラサイト・イヴ』の気色悪さにも近い。いくら表現という枠組みの中とは言え、ここまで公然とセクシュアリティも含めた「内面」をむき出しにしてしまう自意識の無防備さ。その無防備さや社会的距離感のなさゆえに『エヴァンゲリオン』に胸熱くしている二十代から三十代の若手高級官僚や企業エリート、あるいはコンピューター労働の現場や企業の研究所に勤務するような理科系技術者たちなどがすでに一定量存在していることを僕は確信していますが、しかし、彼らのその「感動」はひとつ間違えるとこの先、そんな無防備で社会的距離感のない独善を再び大文字の「正義」の名の下に鼓舞し、正当化する根拠になってゆくかも知れない。あのひとりよがりな暴対法の立案に携わった若手官僚たちのデオドラントな世界観にも通じるある構造的な差別意識、選民意識すら感じるところが、僕にはどうしてもあります。


 “おはなし”の中でリアルなつくりものを養成してゆく愉しみを活字の文学が喪失している今、新たな“おはなし”の培養基として確かにアニメはすでにとんでもない力を獲得していて、それはゲームソフトの創作現場などにまで広大な裾野を持っている。けれども、高度経済成長の「豊かさ」を前提にわれわれの社会が獲得してきたマンガからアニメに至るこれら新たな映像的表現の最大の欠陥は、そのとんでもない力のありようについて自ら他者に語りかける言葉を内側から持とうとせず、また鍛えようともしてこなかったことにあります。


 中心となる登場人物の名前が村上龍の『愛と幻想のファシズム』からとられていること。同時にまた、旧帝国海軍の艦名を想起する苗字や旧字の漢字表記を使っていること。明らかに子宮を思わせるエントリープラグのこと。「念じる」ことに過剰に思い入れる性癖のこと。カップ麺や缶入飲料やコインランドリーといった今どきのひとり暮らしの細部が繰り返し描かれ、それはどうやらアニメ一般に共通する“リアル”の表現になっているらしいこと……それら些細な細部を、しかし単にマニアックな問いを引き出す愉快にだけ淫したやせた言葉でなく、開かれた関係と場の構築へと向かう器量の大きな「批評」が切実に必要です。先に触れたような危うさをはらんでいるかも知れない「感動」を前向きに制御してゆける手立ては、やはり言葉と言葉の作り出す関係の中にしか芽生えないのですから。
     (『毎日新聞』96年11月28日付)

 その後、コミックス版も読んだし劇場版「シト新生」も見た。けれども、ここで示したスタンスは今も基本的に変わっていない。いや、違和感や疑問についてならばより増幅されたところさえある。

 先の記事が出た後、今年に入ってからだったと記憶するのだが、劇場版「シト新生」制作会社の東映の方から、劇場版の事前広告の中に一部を使わせて欲しい、という依頼があった。ことさら断る理由もないから承諾したのだが、できあがったフィルムを見ると、原稿の初めの部分の「同世代の才能が惜し気もなく注ぎ込まれている」という一節だけが抜き出されて使われていた。読んでいただればわかるように、この一節に僕はかなり逆説的な意味も同時に込めたつもりだった。取り上げられ方にはそういう文脈が全く考慮されていなかったのは、広告という制約から致し方のないこととは言え、個人的な想いとしてはやはり残念だった。

 アニメの制作現場がどういうものか、生身で接したこともなければロクな知識もない僕だが、この『新世紀エヴァンゲリオン』という表現が形になる過程には間違いなくある「才能」が惜し気もなく注ぎ込まれている、そのことはよくわかった。けれども、それだけの才能が注ぎ込まれた結果がたかだかこういう表現になってしまっているということについての何とも心萎える感じも、全く同等にあったのだ。それは、富野由悠季がオウムのサティアンの風景を眼のあたりして言っていたこと――自分たちがよかれと思って作ってきた表現に接しながら育ってきた世代がたかだかこの程度の美意識しか持っていなかったということに大きなショックを受けた、という感覚にごく親しいものだ。で、その落差を、さて、同じ同時代を生きる者として、果たしてどのように受け止めたらいいんだろう、というあたりが先の記事に僕が込めようとしていた問いだったはずなのだ。


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  しかし、問いは、問い方によってまた異なる相貌をもたらしたりもする。ならば、たとえばこういう問い方はどうだろう。

  なぜ、アニメは「子ども」に向かって作られなくなっていったのか。

  その結果、どのような観客をアニメは発見していったのか。

  そして、その観客との間にどのような「リアル」が、どのように共有されるようになっていったのか。

 この三つの問いは、おそらくどこかで密接に関わっている。
 
 マンガもそうだが、アニメもまた本来は「子ども」のために作られるもののはずだった。

 いや、今でもテレビのアニメ番組枠やキャラクター商品などの市場の広がりは、そのような「子ども」をターゲットにしていることに変わりはない。今や手塚治虫に代わる「リベラル」の神様、世の親たち公認の「良心的」アニメのように扱われ始めている宮崎駿スタジオジブリの作品群にしても、作る側の意識としてはまず「子ども」に観せるためのものであることは同じなはずだ。

 けれども今、商品市場そのものとしてはともかく、サブカルチュアとしてのアニメを表現として現実に支えているのは、おそらく「子ども」ではない。「子ども」に向けて、という商業的な枠の中で自分たちのための、自分たちのリアリティのための表現を研ぎ澄ませていった世代が確実にいる。また、そのような表現だからこそ、アニメは単なる「子ども」相手の商品市場の間尺でだけではなく、それらと重なり、時には全くずれたところさえも含めた意外なほどの市場の広がりを獲得することが今、現実にできてしまっている。そのことの意味は小さくない。

 そしてそれは、アニメを昔ながらの子ども向けの表現と見ている限りはうまく理解しにくい、的確に捕捉すらできない広がりになっている。現に、『となりのトトロ』のようにこの『新世紀エヴァンゲリオン』を「子どものために」と考えながら自分の子どもに見せたがるけったいな親などそうそういるとは思えないし、いたとしてもロクなものではない。

 けれども、アニメが果たしてどのような表現をどのように獲得してきたのか。そして、それは今のわれわれの同時代の表現にとってどのような水準と位相とを持っているのか。それらについてはまだ十分に語られているとは言えない。

 もちろん、さまざまな言及はすでに出始めているし、背景資料のデータベースである専門誌などのメディアにもある程度蓄積されてきている、そのことは仄聞も含めて知っている。けれども、それらの共同体の内側で語られている言葉を社会の側へ、より開かれた“批評”の場へと投げ返す努力は、いくつかの例外を除いてまだほとんどなされていないと僕は思う。アニメ音痴の僕の無知という条件を斟酌しても、やはりこの判断に違いはない。そのような開かれた「批評」が本質的に存在しにくいような情報環境とその構造の中にアニメという表現は産まれ落ちたのではないか、そんな疑いさえある。

 それは同時に、そのような開かれた“批評”の場に関わろうとするある種の責任感が、それらアニメという表現を語る言葉にはまだうまく宿っていないということでもある。敢えて大風呂敷を広げれば、高度経済成長の「豊かさ」を前提にわれわれが獲得した、マンガなども含めた新たな映像・図像表現力の最大の欠陥は、そのとんでもない力のありようについて自ら他者に語りかける言葉を持とうとせず、鍛えようともしてこなかったことにある。



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 「子ども」に向かって作るというタテマエを失くしたマンガやアニメは、その分、そのような表現を作っている「自分」に向かい始める。マンガについて言えば、それはたとえば七〇年代の青年誌が提供していった青年マンガや、ある種の少女マンガなどから始まっている。あるいは、その萌芽としてはそれ以前、六〇年代の劇画においてもその気配はあった。同じく、それらとはおそらく若干時期がずれるけれども、アニメもまた「子ども」というタテマエを抜きにして表現そのものに向かえるようになったはずだ。具体的にこの時期のこの作品あたりからということを指示できるだけのアニメ史の充分な知識がないので詳細には語れないけれども、サブカルチュアと社会の関係が経験していった同時代的変貌の過程からすれば、おそらくそういうことなのだろうと推測できる。冒頭の記事で「僕のようなアニメ門外漢の眼から見ても、最近のアニメは明らかに以前のような“子どもだまし”ではなくなっています」と言ったのは、そのあたりの事情をさしている。

 その結果、何が起こったか。洗いざらしの枠組みだけ提示してみよう、少なくともそのような表現の生産点においては、表現に携わる人間たちの内面に抱え込まれていた「好きなこと」という意識や感覚が、そのものとして自律的なものになり始める。マンガでありアニメであり、そのような表現に対して個人的に抱いている「好きなこと」という意識や感覚が、それらの表現を現実のものにしてゆく市場との良い意味での緊張関係の中で輪郭が保たれるという事態が難しくなる。「仕事」を媒介にして「世間」と向かい合う契機が制作現場から希薄になってゆき、ただ「好きなこと」の論理の内側でだけどんどん尖鋭になってゆく。言い換えれば、「趣味」が「世間」の懐で統制され安定させられる条件が失われてゆく。

  このような無惨は、八〇年代を通じてサブカルチュアのかなりの領域に大なり小なり現われていった。とは言え、その無惨に対していくらいらだったところで、それ自体として何も事態を改善するようには働かなかったけれども、それでも、このような枠組みの中で随所に起こっていった局面においては自分の対応できる限りにおいてできるだけ誠実に対応しようとは思っていたし、今もその姿勢は変わっていないつもりだ。

  たとえば、かつてコミケに集う同人誌の女の子たちの「趣味」の論理に対して、僕はこんな馬鹿正直な議論を吹っかけたこともある。

 趣味なんだからいいじゃない、とあなたたちは言います。誰にも迷惑をかけていないじゃない、とあなたたちは訴えます。違う。全く逆です。それがたかだかきちんと迷惑もかけられない程度のままだから、あなたたちはいつまでもそんなあなたたちのままなのです。


 世界中を敵に回しても自分の作ってきた内面がかわいい、自分の描いたものが大切だ、とまで言えないからこそ、簡単に迷惑すらかけていない状態に移行できるのです。「趣味」というのはそこまで獰猛になり得るし、だからこそとてつもなく豊かなのだと僕は思っています。


 描きたいものを描く、という論理もよく持ち出されます。好きだから描く。描きたいから描く。なるほど、それ自体とても明快でわかりやすい。描きたいものを描く。大いに結構。


 しかしそれは一方で、カネになりそれを仕事にしてゆくというある意味でリアルな関係との衝突を避けるということでもあります。もっとわかりやすく言えば、ことば本来の意味での批評を受けること避けるということでもあります。コミケの倫理綱領のようなものの中には「悪口は言わない」なんて項目があったように記憶しますが、まずこれからして論外です。


 悪口大いに結構。きちんとおかしなものはおかしいと言いなさい。気に入らないものは気に入らないと言いなさい。自分の中に何らかのものさしがあって悪口も言えるのだから、悪口も言えないようじゃ表現なんて成り立ちゃしない。悪口を言い、ののしり合い、時につかみ合いくらいやってみなさい。もしも本当にあなたたちがそこまでやれるものなら。そこまでやれるだけの「自分」と、その「自分」の「趣味」に自信があるのなら。

「趣味は万能ではない」『コミックボックス』11−2 92年5月)

 「世間」との関係を自覚しないですむようになった「好きなこと」。社会性という文脈での批評と対峙する回路を閉ざしてしまった「趣味」。それは「好きなこと」本来の安定性への歯止めを失い、その「好きなこと」に広い範囲の観客を世間から徴発し獲得してゆく自前の力を失わせる。もちろん、そうなってもたまたまそのような「好きなこと」を共有できるコードの備わった読者が存在している限りにおいてその「好きなこと」は知己を獲得はできる。しかし、それ以上の広がりを求めてゆくような、言い換えれば同時代の普遍へと向かってゆけるような表現を獲得してゆく可能性は、どんどん狭められてゆく。そのような同時代の普遍へと向かう回路からもフィードバックせずともよくなった「好きなこと」は、表現のありようとしてますますある煮詰まりを見せてゆく。

 ある尖鋭さ、ある優越性を確かに保ち上昇しながら、しかし、と同時に、確実に退縮し下降してもゆくような表現の「質」。

 『新世紀エヴァンゲリオン』は、これまでのアニメやSFや、その他さまざまなジャンル、さまざまな領域にまたがって蓄積されてきた表現からの膨大な引用の集積になっているということがすでに指摘されている。だが、正直言って、僕などにはほとんどわからない。ていねいに指摘し、説明されたところで、そのほとんどについてはおそらくそうなのだろうとしか言いようがないし、また、仮にそれらの中に単なる思い込み、ちょっとした断片を針小棒大に膨らませて何か他の断片と重ね合わせてゆく関係妄想の結果がまぎれ込んでいたとしても、それらも全て含めた上で、そういう関係妄想さえも生み出してゆく力という意味で考えようとするしかない。

 ついでに言えば、このパッチワークのような引用の集積の背後に何か統合的な意志が働いていると考える、それは読者の解釈の自由であるけれども、しかし、このような「質」を獲得した後の表現が持つこれらのありように対しては、そのような意志を想定することこそがその「質」と矛盾してゆくことになる。わかりやすく言おう。何か整理された設計図や目算があらかじめあった上であの膨大な引用の集積があるわけではないのだ。貼り込むべき台紙のないまま、ただあらゆる文脈から膨大に集められたブルーチップスタンプ、とか。

 それら文脈なき情報の集積は、そのまさにあらかじめの文脈が与えられてないゆえに、読者の側のより自由自在な、言い換えれば野放図でアナーキーな解釈を可能にする情報相互の結びつきをもたらしやすくする。それが引用であることを指摘する、そのことだけで何かを言ったつもりになる、そういう「レベルの低さ」(ああ、「エヴァ本」にまつわって百万回言われきている耳タコのもの言いじゃないか!)をもたらしているものは、読者の側固有のものでもなく、おそらくこのような表現の側に本質的に内在している用件、先に触れたような「質」のありようと密接に関わっているはずなのだ。そういう「レベルの低さ」をうっかりともたらしてしまうような、あるいは現実のものとして引き出してしまうような、そういう表現。けれども、ある統一的な意志の下に決して統合されようのない、されるつもりもない表現。表現の背後に何も主体の輪郭が感じとれない表現。主体なき記号。主体なき分、濃密に堆積された表象の気配。その表層がめくるめくきらびやかさに覆われていても、いや、だからこそ、その背後にひそんでいる空虚な闇はより一層際立つものになる。たとえ、その引用の証拠をいちいちあげることができるだけの知識の蓄積などまるでない、そんな僕であっても、表現そのものから受けるある印象において、「世間」との関係を喪失した結果として煮詰まった「好きなこと」のなれの果てが必ず陥るだろう自閉の気配は間違いなく感じ取っていた。

「何とかなさいよッ、あんたが作ったんでしょッ、最後まで責任とりなさいよッ」

 第20話、シンジを取り込んでしまった初号機の処理をめぐって、赤木リツコに対して葛城ミサトが投げつけたこのセリフは、そのままガイナックスと、このような「質」の表現を獲得してしまった同時代に送るべきなのかも知れない。



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 このような、「世間」という拘束具を失ってある種野放しになった「好きなもの」は、もちろんむき出しのまま、『新世紀エヴァンゲリオン』という表現の中に組み込まれているわけではない。それは、違う形をとって“おはなし”の中に潜まされている、その、ある神の気配が僕には気になって仕方がない。

 言おう。それは――「研究」という名の神だ。

 本当に、エヴァンゲリオンの“おはなし”の展開される舞台は限られている。「パイロットの子どもたちが通う中学校と、「使徒」と闘うネルフと呼ばれる国連直属の特務機関のふたつ」にほぼ限られている。テレビシリーズの後半、放映当初から話題になっていたあの“おはなし”の崩壊がはっきりし始めたあたりに暴露されたネルフの成り立ち(第21話「ネルフ誕生」)には、この「好きなもの」であり、かつては「趣味」という領域で「世間」との関係の中で安定させる知恵もあったものが、「研究」という名を借りた至上の神として君臨していることがはっきりと感じとれた。

 「研究」というもの言いを自明のものとして共有してきた連中の底知れないいやらしさが、ここには期せずしてにじみ出している。それは単にそれだけではなくて、そのようないやらしさをいやらしさと感じず、何かとてもいいもの、心地良いものとして認識している気分の共有の気配があからさまで、それが僕には本当にやりきれないのだ。

 表現の中に宿ったその「研究」という神に反応してしまった観客たちも、すでに眼前の事実として存在している。たとえば、「エヴァ本」のような解釈を半ば自動的に垂れ流したがるような欲望をうっかりと抱え込んでしまっている学者、研究者の卵たちが、実は最も「レベルの低い」解釈を繰り出すという事態は、もう珍しいものでもなくなっている。そのような手合いが居丈高に繰り出す一見高尚な、一見颯爽とした理屈や能書きは、サブカルチュアを扱う自分たちについての自意識と共に、そのような態度と自意識とが他でもないサブカルチュア本来の倫理や可能性について最も同情のないものであるということについても、ほとんど自覚できないままになっている。最ももっともらしく、最も熱烈にサブカルチュアを理解し、語る身振りを示している者が、サブカルチュアに対する最も本質的な抑圧者であるという喜劇。

 それは、“おはなし”の中で動くキャラクターたちの手ざわりにも共通している。申し訳ないが、僕は『新世紀エヴァンゲリオン』の登場人物たちの中の誰ひとりに対しても共感できない。ありていに言って、生身の人間としてつきあいたいと思わないのだ。

 ただ、それは「リアル」でない、というのとも少し違う。ある水準において間違いなく「リアル」な表現を獲得してはいるのだ。だからこそ、アニメ音痴の僕みたいな人間の意識にとっても何か力を持った表現として働きかけてくるものがあったのだ。けれども、その「リアル」とは、これまでの表現が獲得してきたはずの「リアル」、言葉と意味の磁場にからめとられて生きてゆくしかないわれわれ人間の宿命の中で作り出されそれなりに共有されてきた「リアル」とは異なる仕掛け、異なる関係において成り立っているようなものらしい。


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 「ネルフ誕生」では、エヴァンゲリオンの“おはなし”の重要な舞台であるネルフという組織の成り立ちが明らかにされる。先に触れたように、ここで“おはなし”の背後にずっと潜んでいたあの「研究」という神が、その輪郭をはっきりと現わす。

 1999年(再来年だぞ)、京都。「京都大学」(おそらく)の「形而上生物学」(何だ、それ)の「研究室」。「優秀」な教師であった冬月コウゾウと、「優秀」な学生であった碇ユイ。その前に現われる六分儀ゲンドウ。碇ユイの背景にあったゼーレという謎の組織。そこはなぜか豊富な「資金」を持っていることになっている。その「資金」とユイの「才能」を目当てに六分儀ゲンドウは彼女に接近した。少なくとも、「研究室」とそのまわりにいた彼のまわりの人間たちはそう噂していたことになっている。

  ああ、「資金」と「研究」! いわゆる「研究者」の、とりわけ国立大学系の、それも理科系の人間ならばより典型的に明快に現われるこの世界観! 「研究」の野心のために「資金」へと近づくゲンドウは、そこから先、道具立てとしては「大学」であり「研究所」であるけれども、そこで表現されているものの本質的な意味とは、「自分の好きなこと」をおおっぴらにやれる環境ということに他ならない。しかも、その「好きなこと」は単に個人的なものにとどまらず、「研究」というもの言いに転化されることによって正当化され、まさに「社会」の側からほめられもする。

  キール・ローレンツ議長率いる人類補完委員会。ネルフの前身であるゲヒルンという研究所らしきもの(「調査組織」と表現されているが)は、「ここはめざすべき生体コンピューターの基礎理論を模索するベストなところですのよ」(赤木博士)と言われるようなものだ。「好きなもの」は「めざすべきもの」となり、何かその背景に社会的な、その分おそらくは大文字な「権威」や「正義」がすでにくっついてきている。その内実には、きっとその豊富な、無尽蔵に等しい「資金」によって実現されてゆく「研究」の喜びがたっぷりと肥大しているはずだ。

  オウムとどこが違う? オウムの「資金」によって「研究」が保証されることにうっかりと足とられてしまったあの理科系高偏差値の「研究者」の卵たちと、このエヴァンゲリオンの“おはなし”に登場するキャラクターたちとどこが違う?

 そうなのだ。すでにある「リアル」を獲得していることは確かで、そしてそれはある水準での「質」をも獲得していることもまた間違いない表現なのだとしても、どうしてこんなにやりきれない、登場人物の誰にも生身の親しさ、等身大の共感を持ちにくいものになっているのか、その疑問というのは、きっとこういう世界観にひとつ規定されているのだと思う。

 だから、ネルフとは、きっとサティアンである。「世間」との緊張感で「好きなこと」を、「研究」を制御することをしないですむようになった、だからこそきっと「自由」だと思われていたはずの現実の中でつむがれていた妄想が、いざそれ自身を食い破るほどに膨張してしまった時に、「世間」の側に本質的に敵対するような「質」を獲得してしまっていた。あの教訓は、この“おはなし”において全く無縁だと、誰が保証できるだろうか。

葛城「発表はシナリオD−22か。またも事実も闇の中ね」
赤木「広報部は喜んでたわよ。やっと仕事ができたって」
葛城「うちもお気楽なもんねえ」
赤木「どうかしら、ほんとはみんなこわいんじゃない」
葛城「……(独白)あったりまえでしょ」 (第2話)

 何かことが起こり、そのことを社会に対して発表する手続きのからくりを高みから眺めて、「シナリオ通りなんじゃないの?」と、こまっしゃくれた口調で言う葛城ミサトに、僕などはまずひっかかってしまう。だが、ここらへんを全く素通りできてしまうか、あるいは場合によっては「お、こういうところってリアルじゃん」と、根っからポジティヴな要素としてとらえられる感性の方が、昨今のいわゆる“エヴァ好き”の多数派なのだろう。

 あるいは、民主主義的手続きへのニヒリスティックな嫌悪感も随所に見られる。

冬月「予定外の使徒侵入。その事実を知った人類補完委員会による突き上げか。ただ文句を言うことだけが仕事のくだらない連中だがな」
碇「切り札は全てこちらが擁している。彼らは何もできんよ」
冬月「だからと言ってじらすこともあるまい。今ゼーレが乗り出すと面倒だぞ、いろいろとな」
碇「全てわれわれのシナリオ通りだ。問題ない」
(第14話)

 そう、「シナリオ」ね。「自分」との関わりで「立場」を「責任」と共に演じてゆく、なんて自意識の作り方で「会議」に臨むなんてこと、きっと考えてないんだろうね。乾きものの「シナリオ」に沿うことが手続きとして正当化さえされれば、「会議」の役割は終わりだ。「自分」抜きの言葉によって表層的な論理だけ整えられていれば、それで充分。それでどんな葛藤があったところで、その葛藤は決して表に出さないでいられる。ATフィールド? ああ、そうね。そうかも知れない。似たようなもんだ。

 彼ら彼女らは「特権」ということについての自覚が薄い。いや、もう少し正確に言うならば、自覚はある。あるのだけれども、その自覚のありようが「自分」との関係で、言葉本来の意味での「責任」という意味づけにおいてうまくとらえられていない。

 もしも、あなたはとんでもない権力を持った存在ですね、と彼ら彼女らに問えば、全くそうだ、と認めるだろう。だからこそそれだけの責任を自覚しながらやってるわよ、と抗弁するだろう。先の「ほんとはみんなこわいんじゃない?」という問いかけに「あったりまえでしょ」と、冷や汗びっしょりの横顔で低くつぶやく応答のひとコマなどは、まさにその「責任を自覚している」ことのアリバイとしてさしはさまれている。

 このような形でのかりそめの「責任」の表出は、ある種の観客にとっても共感されるものだと思う。責任感じてるよ、ただ自分の好きなことだけに忠誠を誓ってるわけじゃないよ、みんなのことも考えてやってるんだよ、と。結果がどうであれ、そのようなかりそめの「責任」によって「わかってやっている」ことがある免罪符として作用する。

 もちろん、それは社会的に見れば正しく無責任でしかないのだが、しかし、そのようなかりそめの「責任」をふりかざす者たちにとっては、不思議なことにそれは無責任としては認識されない。

 「わかってやっている」ということを言った瞬間から免罪されると思ってしまえる意識というのは、その「わかっている」ことを無上の価値として考えている。自分たちはそんなこともわからないでやっているような馬鹿ではない。あんたたちが指摘するような程度のことはこっちはもう充分にわかった上のことなのだ。

 だが、そのように「わかっている」ことだけをタテにできるのは、そのような閉じた小さな関係の場においてだけだろう。「わかっている」上でなおやっていた行為だからこそ罪が重いということだって、社会的な文脈においてはいくらでもある。確信犯とはそういうことだ。けれども、彼ら彼女らはそのような確信犯としての立場さえも引き受けようとしない。その「わかっている」と言い張っていることが実は何も「確信」にまで至っていないことを、他でもない自分たちが一番よく知っているからだ。劇場版「シト新生」において、ゼーレの意志を体した戦略自衛隊によって襲撃されるネルフ本部のあの惨状にしても同じだ。あの、おそらくはアニメとしては冷酷な戦闘シーンの描き方自体が「ほんとの現実もちゃんとわかってやっているんだよ」という制作者の自意識の反映に他ならない。

 情け容赦なく実弾の飛び交う中、射撃訓練の時のように敵を撃てない、だってあれは訓練だったから、とすわりこんでしまったあの伊吹マヤの間抜けさ加減が、そのような意識は“おはなし”の中でさえも「確信犯」たり得ないことを如実に現わしている。

 「わかっている」ことを表明すること、それだけが目的となっていった世代に刷り込まれた意識の無惨を、僕は見てしまう。「だって」「でも」「知ってる」――このようなもの言いが他人から語られた言葉に対する応答のまず最初に持ち出される、気がつけばそんな子どもだった世代。「わかっている」と言えばそれで許される。「わかっている」からこそそこから先に課せられるものについては考えなくてもいい。「わかっている」と示すことだけを競うチキン・ラン。「学校」という舞台装置の中でそれが繰り返されているだけのこと。そして、その繰り返しの中で「わかっている」と示す「自分」の側は空洞のままほっとかれている。

 それは「わかっている」ことではない。「わかっている」というふりをして見せているだけのことだ。そのような「わかっている」ことは、次の「責任」へと決して向かわない。


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 「研究」という名の神の下では、その「責任」をまっとうするために行なわれる仕事というのが自分たちの「好きなもの」であることについての自省が欠落してゆく。

  わかりやすく言えば、生身の自分にとって関係のない、ただ単に仕事だからというだけでやっているものではない、むしろ自分の「好きなこと」をやって、しかもそれがそれだけの「特権」を生み、なおかつ「責任」というもの言いでそのことを正当化し、逆にその結果については免罪してしまえる、そんな状況全体についての見取図を自覚することの欠落だ。

  おそらく、彼ら彼女らはこう言うのだろう。いくら「研究」でも好きなことだけを好きなようにできるわけではないのだ、「研究者」である自分だって組織原理の中にあるんだし、その組織原理をうまくやり過ごしながらやってくのが大人ってもんよ、と。

 もちろんそうだ。そうだけれども、しかし、その結果実現されるものがどれだけありがたいもので、どれだけ「みんな」の利益になるものだとしても、あなた自身にとっては「好きなこと」であることには変わりはない。そのような「自分の好きなこと」だけをやって世渡りしてゆけること、あまつさえ「権力」さえ獲得できることをどれだけ正当化してゆけるか、というところに、この「研究」という暗黙の神は最もまがまがしい姿を現わす。

 だから、なのだろう。エヴァンゲリオンという“おはなし”の中での「責任」というもの言いの現われ方はどこか奇妙なものばかりだ。

 問題が起こると、「もとはあなたが引き起こしたことなのよ」といった糾弾が平然となされる。閉じた小さな世界での純粋培養の偏差値エリート同士である赤木リツコ葛城ミサトの間の葛藤は、ほとんどこのような「責任」をめぐるものばかりだったりする。

 作戦課長としての戦闘の後始末。山ほど積まれる書類の処理。それらの「問題」を全部自分ひとりでひっかぶって何とかしようとする態度。「自分」が免罪であり、常に間違っていない、ということを過剰に示そうとし続ける、そのような他者拒否の姿勢こそが最も「責任」に近い主体であるというような理解がほの見える。誰の助けも借りないで自分の「責任」を果たすことのできる人間。それことが「ちゃんとした大人」なのだ、と。

 しかし、その理解には重大な手落ちがある。同時にまた、他人とのつながりの中で「仕事」をしているということについての前向きなあきらめがない。だから、「情」の論理は「仕事」の局面においては宿らない。その分、「情」は「仕事」以外の日常に無防備にはみ出し、身じまいの悪いまま垂れ流されていたりする。

 実際、ネルフの人間たちは僕の眼から見ればみんなひとり残らず不人情だ。赤木リツコ葛城ミサトにしても、大学時代からの友人と言いながら、互いのピンチに際して積極的に助け合うわけでもない。と言って、いわゆるプロ同士の共同性で割り切ってつきあっているというわけでもない。仲良く酒を呑んでみせても、語り合ってみせても、互いの最もやわらかい「自分」の部分を照らし合うことはしない。研究者とある種の軍人(だろう、やっぱし)という立場の違いがあることになっているからとは言え、これはやはり奇妙だ。

 そのような「責任」の前にある「自分」ということで、その外側にある「組織」という現実に対する理解を示しているという事情もあるのだろう。で、そのへんが観客にとっては「リアル」と舞い上がられたりもするのだろう。まあ、そのあたりの気分のからくりについてはわからないでもない。

 けれども、こういうこともある。

 数年前、それまでいた大学から共同利用機関(ある種の研究所)に赴任した時、大学ではほとんど接することのなかった「研究」のためのこまごまとした日常的な手続きなどについて教えてくれながら、「ここではコピー用紙なんか一億万枚使っても構いませんから」と誇らし気に言った助手がいた。ドキッとして思わず顔を見直した。別に国民の税金を使う立場としてのモラルが云々、などと今どきの市民派ぶって言いつのるつもりはない。必要だと思うなら使えばいい、それだけのことだ。しかし、そのことをそのようにわざわざ口に出して言う、その気分のいやらしさ、不用意さというのはまた別のことだ。

 研究者として研究機関に勤めることができたということは、タテマエとして言えば、自分の「研究」に対して国が資金を出してくれる程度に認められたということになる。自分は「研究」をしてもいいのだ、「研究」をするのが自分の仕事なのだということを、他でもない国が認めてくれたのだ、これが特権でなくして何だろう、そして、それが彼ら彼女らのプライドにならないわけがない。それはそれだ。

  ネルフもまた同じだ。おそらくは究極のプロジェクトとして語られているらしい「人類補完計画」の全貌がよくわからないにしても、いずれとんでもないカネが注ぎ込まれるプロジェクトであることは間違いないし、その程度のことは末端にいる人間にも推測できるはずだ。そして、そういうことに立脚するプライドはあっていい。

 だが、いかに“おはなし”の世界でのこととは言え、いや、“おはなし”の世界だからこそ、登場人物にそのことにつりあう畏れがほとんど感じられないのには違和感がある。それは、単に“おはなし”としてリアリティがあるとかないとかいうことだけでなく、そのような“おはなし”を平然と作ってしまう側や、それをあっさりと消費してしまえる観客の側までも含めて、そういう「常識」が共有されているさまへの違和感に他ならない。

 たとえば、かつてよくあったマンガでも特撮番組でも何でもいい、そこに出てくる地球防衛軍はどのような組織で、どのような資金援助があって、というようなことは、誰も気にしなくてもよかった。それは“おはなし”という約束ごとの中ではどうでもいいことであって、それらをいちいち問題にするような奴は野暮以外の何物でもなかった。子供たちの間でさえ、みんながウルトラマンの“おはなし”でその“おはなし”の文法次第に素朴に盛り上がっている最中にそういうことを言い出す奴がいたら、そいつの言うことに一理あると思っていても、みんなの熱中に水をかける、場をわきまえない奴としてきっちり排除された。

 「子ども」にとっての“おはなし”とはそのようなものだった。大人たちは「子ども」のためにそのような“おはなし”を作り、それが「世間」との関係の中で「仕事」になる限りにおいて、表現としての洗練ももたらしてきた。けれども、「子ども」のため、というタテマエがなくなって以降、異なる「リアル」の方へと表現は赴き始める。時代と共に、そしてその時代の中に育まれた同時代感覚と共に、「リアル」は「子ども」から離れ、もうひとつ別の難儀へと向かう扉を開けた。「仕事」の背後に抑え込まれていた「好きなもの」は野放しにされ、「研究」という神に姿を変えてエヴァンゲリオンという“おはなし”に潜んだ。

 だが、多くの同時代は、その神の気配にまだうまく気づいていないらしい。