「エスノグラフィー」というもの言いについて――この本を手にとってくれた人への若干の解説

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 エスノグラフィーという言葉は、普通の日本語としてはとてもなじんだものとは言えない。その意味で、この本を読まれる方もまずこのカタカナに抵抗があるかも知れない。

 普通、この「エスノグラフィー」は日本語では「民族誌」と翻訳される。これまでの文化人類学民族学の教科書などでも、半ば機械的にそのように置き換えられるのが普通だった。これが民俗学になると「民俗誌」になったりもする。細かいことを言えばこの日本語での「民族誌」と「民俗誌」がどう違うのか、あるいは同じなのか、そしてそれはどっちも「エスノグラフィー」の訳語と考えてしまっていいのか、といった議論も本来はあるべきだと思うのだけれども、しかし、そのような検討作業はほとんどされていない。ただ漠然と「民俗誌」も「民族誌」とほぼ同義であり、英語の“ ethnography ”を日本語にしたものである、といった程度にとらえられている。わざわざ「エスノグラフィー」とカタカナ表記を使う場合も最近では出てきているが、とりわけ何か方法的な意識に立った上での選択というわけではなく、ありていに言って、カタカナ表記の方がカッコいいから、といった程度の理由で何となくというケースがほとんどのようだ。

 何をこんな細かなことにこだわっているのかというと、たとえばまず、この「民族(俗)誌」では原語の「エスノ」の部分の語感がうまく乗らない、その違和感が強いのだ。それは、別な角度から言えば、社会学で一時期盛んにもてはやされた「エスノメソドロジー」がついに日本語にならないのと似たようなものだ。

 たとえば、そういう文化人類学社会学などの概論書をめくっていると、最近のものには「エスノグラフィーする」(doing ethnography)というもの言いが随所に出てくる。これなど、「民族誌」と杓子定規に考えているだけでは実に訳しにくい。まあ、基本的に語学音痴の僕だから偉そうなことは言えないのだけれども、それでも、文脈からおしてゆくとなんかしっくりこないなあ、という感覚は常にある。ある作業の結果書かれた“もの”ではなく、その作業の過程とか、そこに配慮される方法意識とかも含めて全部が「エスノグラフィー」という言葉にとりこみ得るのだ、という気配があって、こうなるとそれはもう日本語で慣例的に置き換えられてきた「民族(俗)誌」などよりもずっとふくらみがある言葉になっていることが感じられたりするのだ。

 英和辞典などでは[ ethno- 「人種、民族」を意味する結合辞]といった説明になっている。もちろんそうなのだろうし、そう訳して全く困らない場合が普通はほとんどなのだろうとも思うのだけれども、ただ、ことこの「エスノグラフィー」に限っては、どうもそんな通りいっぺんの訳語ではかたづけられないようなものになっていそうな気がする。少なくとも、それくらい何か微妙な意味のせめぎあいやそれにまつわる同時代的な思い入れなどが集中している、ある重心のかかったポイントのように感じられるのだ。

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 言葉にし、記述してゆくことにも歴史がある。どのような言葉、どのような文法で文化を語ることが支配的になっていたのか、その来歴をときほぐそうとすると、その瞬間から自分が当たり前のものとしてきたその言葉の背後にある膨大な広がりについて自覚せざるを得なくなり、その自覚との葛藤の中で仕事をしなければならなくなる。「エスノグラフィー」にまつわる議論は、そういう過程を必然的に引きずり出してきた。言わば、自分で自分にツッコミを入れながら「わし、なんでこんなことしとるんやろ」と自分に引き戻って考えざるを得ない、そんな場所になっている。そういうメタレヴェルでの自省を含まざるを得なくなったからこそ、「エスノグラフィー」は難儀なもの言いになってきているのだ。

 「エスノグラフィー」の定義を、手もとにある横文字の本の中からランダムに拾ってみよう。たとえば、教科書的な記述の中では、ひとまずこういう定義になっている。

エスノグラフィーは文化を記述する作業である。その第一の目的は自分と異なる文化をその土地の人の視点から理解することである。そして、エスノグラフィーの目的とは、マリノフスキーが言ったように、その土地の人の視点を把握し、人生との関わりをつかみ、彼の世界を見る彼の視野を理解すること」なのだ。」―― James P.Spradley, Participant Observation,Holt,Rinehart & Winston,1980.

 あるいは、もう少しくだけた視点からのものではこのように規定される。

エスノグラフィーとは、ある集団の文化を記述する作法であり科学である。その記述は遠く離れた土地の小さな部族社会についてのこともあれば、中流階級の暮らす郊外の教室についてだったりすることもある。その仕事は、問題を明らかにするにふさわしい人々にインタビューし、関連する文献や記録をあさり、ある人の意見を他の人の意見と突き合わせながらその信頼性を確かめ、ある個別の関心とその集団全体との間をつなぐ道筋を探し、そして専門家たちのためと同じようにその問題に関心のある人々のために言葉にしてゆく。その限りでそれは、調査報道に携わる人間の作業ととてもよく似ている。ただ、調査報道に携わる人間とエスノグラファーとの最も重要な違いは、ジャーナリストが殺人とか飛行機事故とか銀行強盗といった非日常的なできごとを探して回るのに対して、エスノグラファーは人々の日々繰り返される日常生活を書きとめるという点だ。」―― David M.Fetterman Ethnography : Step by Step, Applied Social Research Method Series Vol.17, Sage 1989.

 こういう定義に全く違和感はない。まずはその通り、と言うしかないし、僕なども人に尋ねられたら最初はこういう説明をするだろう。「日常生活誌」とか「人生誌」とでもしたら、もっと素朴にわかりやすいかも知れない。

 けれども、その次の段階では「そのような作業を敢えてしてゆくあんたって何者?」という問いかけが必ず出てこざるを得なくなってもいる。人間が人間を対象にして観察をし、話をきき、そこで共有されているはずのリアリティを、しかも言葉を介して言葉にして記述する、そういう作業である以上、その「関係」を保つ生身の部分でのさまざまな難儀というのが問題になるのは半ば必然的なものだ。アメリカでも、おおよそ80年代からこっちに出されるようになったそれら概論書では、そのような調査者の「立場」やそれに依拠した倫理綱領みたいなものを自省的に考える章というのが必ずくっついてくるようになっている。およそ60年代以降、「科学」の自明性に疑問が投げかけられ、なおかつ文化人類学などの場合はこれまでの人類学が自明のものとしてきた環境が激変してきたことから「開発」や「観光」といった問題を考えざるを得なくなり、それらが総体としてこのような傾向を生み出してきたと、まずは大きくまとめてしまっていいと思う。そのような社会科学、人文科学領域での批判的な動きの中で、人類学方面だとマリノフスキー以来、社会学だとシカゴ学派以来、水面下では綿々とあり続けてきたこういう「調査する者の立場の問題」というのが、ある大きな同時代的な関心の中で水面上に姿を現わしたということになるのだろう。

 そして、それは単に学問の世界だけでなく、もっと広い道具立ての中で問いを解き放ってゆく契機にもなってゆく。

 たとえば、先のフェッターマンの定義の中の「調査報道に携わる人間」というのは、今の日本語のもの言いに置き換えれば「ジャーナリスト」、あるいはもっとわかりやすくすれば「ルポライター」「ノンフィクション作家」などでも構わないはずだ。

 ならば、この「調査報道」(investigative report)というのはどのような位置にあるのだろう。日本では、雑誌ジャーナリズムなどのある部分で、この「調査報道」が海外では発達していて権力のチェック機能を果たしている、それに対して日本は、といった論調でよく出てくるもの言いだ。けれども、そのアメリカの文脈ではどうなのだろう。「全ての報道は調査だとしても、調査報道と呼ばれるものとその他のほとんど全ての報道との違いはどこにあるのだろうか。それは、たとえばポルノグラフィーのように、定義はできないけれども、見れば必ずまさにそれがそうであるとわかるようなもののひとつであると結論するべきなのだろうか」(John Ullmann Investigative Reporting : Advanced Methods and Techniques St.Martin's Press 1995)という程度に自ら問いかけざるを得ないようなものだとしても、その一方でこういう明快な定義もある。

「まず一義的には、ある人間が自分自身で企画し、動くことを通じて行われる報道である。それは、ある組織の人間が隠したままにしておきたいと思うような重要なことがらを取り扱う。それには三つの重要な要素がある。まず、報道する者自身の手による作業であり、誰か他の人間によって行われた調査の報道ではないということ。次に、読者や傍観者にとって何か妥当な重要性が含まれている対象を取り扱ったものであること。そして、これらを大きな組織の手から取り戻そうとしていることである。」――Robert W.Greene, “forward" in John Ullmann and Steve Honeyman(eds.)The Reporter's Handbook : An Investigatior's Guide to Documents and Records, St.Martin's Press, 1983.

 この定義が全てではないにせよ、「調査報道は、われわれの民主主義において重要な役割を勝ち取ってきた」と高らかに声明できるような、少なくとも「民主主義」や「人々のために」といったところを自明のものとして「正義」として設定できる環境において、「エスノグラフィー」がしつこくひっかかからざるを得ない自省の部分を良くも悪くも容易にクリアしてしまえるようなものではあるらしいことがうかがえる。このあたりは、「権力」というもの言いで図式的な「悪者」を設定しがちな日本の「ジャーナリズム」神話のありようとも微妙に関わってくる問題だろう。

 「情報公開」などという、昨今では何やら「行政改革」のための葵の印籠の如き代物になっているきらいもあるもの言いにしても、このような「調査報道」的な「事実」への作法がある一定の範囲で共有されていないことには、単なる大衆社会の野放図な欲望の肯定のためにしか利用されないのは当たり前だろう。「情報公開」すれば誰しも「調査報道」ーへの道が開けるというわけではないし、まして、誰もがそのような情報を入手してもそのまっとうな取り扱いの標準がわからないのでは話にならない。今のわれわれの社会のような情報環境でうっかりと「情報公開」することは、むしろいわゆる陰謀史観や関係妄想に等しいような野放しの解釈をいたずらに刺激するだけという、社会総発狂のような混乱状況を招きかねない、と僕は懸念している。


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 いずれにしても、こうなると「エスノグラフィー」というもの言いから発する問題は、報道やジャーナリズム、さらにはメディアと情報環境といったところまで巻き込んだ広汎な問いになってこざるを得ない。なのに、少なくとも僕などの位置から眺めている限りでは、日本での「エスノグラフィー」の議論というのは、そのような広汎な問いにつながりかねないという部分の手当てというか、自覚がびっくりするぐらい欠けている。ありていに言って、人類学なら人類学というあるひとつの学問市場の内側での目新しいアイテムといった程度でしか扱われていないのだ。「エスノグラフィー」をうっとりと語る当人が最も「自省」から遠い文体ともの言いとを無自覚に振り回していたり、という悲喜劇はここ十年あまりの間、特に珍しいものでもない。

 日本の場合、エスノグラフィーと言い得るような表現ジャンルというのは、社会科学的な学問分野の中で内発的に生まれてきたというよりも、写生文の発生から紀行文、旅行文学をくぐって記録文学、ルポ、ノンフィクションと呼ばれるような一連の流れの中で形成されてきた部分の方がはるかに大きいと言えるだろう。散文的表現という部分について言えば、その傾向はなおのこと強まる。

 「現地調査」であり「フィールドワーク」といった作業は、社会科学の中では敗戦後に支配的なものになっていった。戦前の、たとえば満鉄調査部の「調査」の水準などもあるにしても、それは例外的なものと言っていいだろうし、一方で博物学的な自然科学方面の調査観察の記録もあるにしても、やはりその理念が人と社会についての分野にまで積極的に適用されてゆくことはまずなかったと言える。

 「現地調査」や「フィールドワーク」の作業が支配的なものになっていったのは、敗戦によって輸入されるようになったアメリ社会学の影響であり、それによる「実証主義」が受容されていく過程で、あるひとつの形式が定着していったと言っていいだろう。50年代から60年代にかけてのそのような当時の「現地調査」に基づいた社会学の仕事などをめくってみると、その形式がよくわかる。調査地の概況、統計的概要、社会経済史的背景といった“前説”が決まりごとのように行われた後、地域の社会構造なり生産形態なり人間関係なりが淡々と描かれてゆくといった形がとられて、全体としては人文地理学の「地誌」などにも近い組み立てになってもいる。とは言え、その中では散文的表現でその社会、その集団の抱えこんでいる生活なり現実なりの手ざわりを紙の上に再現するという志向が正面に置かれることはあまりない。民俗学でいう地域民俗学のスタイルなども、この時期のこういう記述の形式をさしたる方法的自覚もなく流用したものに過ぎないと、僕は断言できる。

 そのように考えれば、古くは荒畑寒村横山源之助から村島帰之、上野英信村上一郎、杉浦民平、鎌田慧小関智弘……などなど、手法やその結果導き出されたテキストの質はさまざまでも、いずれ記録文学からルポ、ノンフィクション、あるいは場合によっては労働者文学なども含めたゆるやかな広がりと流れの中にあり続けてきた仕事の方が、日本語を母語とする広がりの中では最近の「エスノグラフィー」の枠組みになじめるような内実を期せずして備えていたと言っていい。広義の近代文学史との連携において、「エスノグラフィー」という問いはより豊かな内実を開いて見せてくれるはずだ。

 何より、日本の知的共同体における言葉の作法の伝統というのは、少なくとも明治以降は没落士族的なルサンチマンを前提にして成り立ってきているところがある。それによって市場原理と快楽原則から必要以上に禁欲し、その結果、言葉が社会一般の標準から乖離したものになったままになりやすい経緯がある。さらに、外来語の呪縛がその呪縛を受ける主体の屈折を伴いながら上乗せされてくるから、横文字やその直訳のカタカナ日本語を乱発して煙に巻くという悪しきスタイルも温存されやすい。このように二重三重に、まっとうなエスノグラフィー的記述というか、誰もが身にしみて読み得るような「現実」を自然言語に近い散文で書きとめた表現の出にくい条件が揃っていたと言えるかも知れない。

 その後80年代になると、「ニューアカデミズム」ブームに象徴される空虚な「現代思想」の蔓延(結果的には、フランス系言語・哲学思想の輸入販売という、新しい“赤毛布”に過ぎなかったわけだが)もあり、その前提になっている過剰な価値相対主義的態度によって人文・社会科学の分野では「科学」というものさしそのものが権威失墜したおかげで、悪い意味での私小説的なスタイルによる記述への欲望が肥大したような時期まであった。それは、「二流の文学よりも一流の科学を」といったずさんなもの言いがひとまず素朴にうなずけてしまうほどの反動も生んだところがあるのだが、いずれにしても、言葉による散文的表現が学問の場でとぎすまされてゆくことは、ある偶然や突出した個性、才能の出現した場合を別にして、日本ではまずなかったと言っていいだろう。まして、そのような場を整えて環境を整備しようなどという発想は出てきようがない。「エスノグラフィー」というもの言いからひとつ確実に派生してゆくはずの、日常言語に近い散文的表現による社会的リアリティの記述という課題が、日本ではいつまでたっても「個人技」であり「職人芸」としてしか語られてこないのは、そういうわれわれの情報環境独自の事情もあると僕は思っている。


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 このヴァン=マーネンの本にぶつかったのは、もう十年ほど前、アメリカで古本屋などを回り、日本で手に入りにくいこういうエスノグラフィー関係の文献を買いあさっている時のことだった。

 当時の新刊書だったのだけれども、目次を眺めてまず、あ、こりゃ面白そうだ、と思ったのを覚えている。買って帰ってからざっと眼を通してみると、なるほど確かに面白い。これは翻訳したらいいんじゃないかと思い、帰ってから早速ある出版社に持ち込んだのだけれども、その版元の顧問のようなことをしていた、当時なかなか有名だった学者がこの本に対して批判的だったとかで、途中までうまくゆきそうだった企画がポシャっていた。まあ、そういう手合いに限って、おのれは歯の浮くような文体で夢うつつみたいな「記述」を平然とやっていたりする80年代的遺物だったりするから実にムカっ腹が立つのだが、思えばそのセンセイの書いた本などは、なるほどこのヴァン=マーネンのような視点からツッコミを入れられた日にはたちどころに笑いものになりかねない代物だったから、その意味ではこのセンセイ、自分の立場を守るのに敏感だったということだろう。ともあれ、それが今回、現代書館のこの翻訳書のシリーズの中で復活できたのは僕としてはうれしい。*2

 原題の Tales of the field というのは、おそらく「“フィールド”に宿るもの言い」とか「“現場”の物語」、あるいは「“野”の語り」といった日本語にした方がより正確にニュアンスが伝わるのかも知れない。けれども、本のタイトルとしてはあまり親切でもないことなどを考慮して、『フィールドワークという物語』にさせてもらった。

 読んでいただければすぐわかると思うのだけれども、まずこの著者はスタイルとしてかなりざっくばらんというか、「お笑い」的なセンスのある人だ。「エスノグラフィー」にまつわって存在してきたそういう記述の形式自体をカッコにくくって、同じ現実に対してこういう立場で書けばこうなる、別の立場に依拠すればこういう記述になる、という具合に、自分が「エスノグラフィー」を書こうする「エスノグラファー」という位置に立った瞬間にからめとられざるを得ないその「エスノグラフィー」にまつわる制度そのものをも明るみに出そうとしている。しかも、どうやらそれをかなりの程度自分で自分を茶化したような、ツッコミを入れながらの八方破れのスタイルでやらかしているらしい、その点がまず共感できるものだった。こういう文体模写的な試みは仲間うちではギャグとしてやっていたし、また、実際に作家の清水義汎氏などがそういう手法を活用して面白い作品にしていたりするけれども、しかし、いわゆる学問的な内容のものでこういうスタイルを敢えてやったものというのにはそれまでお眼にかかったことがなかったのだ。ああ、ノリがいいなあ、というこの感じをまず楽しんでいただけるかどうか、それがこの本をうまく読んでいただけるかどうかのカギだと思う。

 それと、調査資金の調達の仕方や、そのための書類の書き方など、日本人の感覚としてはおよそミもフタもないところまではっきりとさらけ出してしまっているあたりも、素朴に驚かれるところかも知れない。ただ、これはこの著者だけのことでもなく、最近のエスノグラフィーの概論書などではそのような「調査」を可能にする外堀の仕掛けまで含めてこのようにはっきりとガイダンスしてしまうのがどうやら通例のようだ。日本ではとてもそういう部分まで教科書で語ってしまうことはできないだろうが、しかし、現実にはそれこそ文部省の科学研究費の申請書類の書き方にあきれるほどたけた事務官僚のような人間は、とりわけ国立大学出身の大学教員などには必ずいるものだ。それはまさに「秘儀」であり「隠された伝承」であるがゆえに、言葉にして自省の明るみに出されることのないままになっている。かつて、山口昌男が人類学者の「帝国主義的」性格について批判した本多勝一にかみつき返した時の一文などには当時のアフリカ研究者が資金調達をする時の苦労が紹介されていたけれども、それなどは例外中の例外かも知れない。このあたりのことも含めて「エスノグラフィー」という制度、文化の記述という仕掛けの日本的なありようについても自前で言葉にして、考察の素材にしてゆくような度量が出てこないことには、「エスノグラフィー」というもの言いが引き出してきている問いをわれわれの、日本語を母語とした〈いま・ここ〉に根づかすことは難しいのだろう。

 いずれにせよ、「フィールドワーク」をめぐる制度とその成り立ちをその内側から、まさにもの言いや文体といった記述の制度を介して描き出そうとするこのヴァン=マーネンの試みは、「エスノグラフィー」というもの言いがうまく日本語に置き換えにくい発熱を始めるようになった近年の状況と密接にからんでいることは間違いない。その他、日本におけるそのような制度のありようについて、いわゆる専門的な論文のしちめんどくささや堅苦しさではないところでもっと知ってみたいという向きは、いささか手前味噌で恐縮だけれども、拙著『顔あげて現場へ往け』(青弓社 1997年)所収の論稿などを参照していただければありがたい。

*1:J.ヴァン=マーネン『フィールドワークの物語』現代書館 1999年 の解説として書いたもの。アメリカから持って帰った洋書の山から気に入ったのを選んで持ち込んで翻訳のシリーズ企画の勧進元になっていた次第。これはその後も版を重ねているらしく。

*2:バラしてもいいだろう。せりか書房中沢新一である。