隣の「市民サマ」から眼をそむけないために(抜粋)

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 昨今、「左翼」批判が盛んだ。とりわけ、二十代半ばあたりから下、いわゆる「学生」とひとくくりにされるような中での、おそらくは何かものを考えようとうっかり思ってしまうようなタチの人間の間には、このような気分は予想以上に深く広く浸透し始めている。

 それは「朝日新聞」や「NHK」への反感という形を取ることもあるし、「日教組」への違和感として表現されることもある。あるいは、そのようなもの言いを弄する「リベラル」で「良心的」とされてきた評論家などへの批判としても出てくる。言葉は稚拙であり、もの言いも制御されていないことが少なくない。その程度に、いつの時代もありがちな「若者」の客気の現われであり、それがたまたま「左翼」批判という形式を持ったに過ぎない、という言い方もできる。今どきの「若気の至り」なのだ。

 けれども、言葉の現われはさまざまでも、その背後にうずくまっている「気に入らない」という気分はどこか共通している。実際、絵に描いたような「市民サマ」は学校か、そうでなければメディアの現場に多い。学校的な優等生の場所こそがそれら「市民サマ」が最も繁殖しやすい環境らしいのだ。

 で、ここがおそらく重要なのだが、最も大きな問題はその「気に入らない」気分そのものなのであって、その気分を表現する際に選び取られた「左翼」という看板でもなければ、その看板の背後に整然と整理されている思想としての左翼というわけでもない。その「気に入らない」という気分をもっとちゃんとほぐして行くことさえできれば、看板は実は他のものでもよかったりするはずなのだ。

 ひとりの輪郭確かな「自分」とその「自分」の抱く「思想」との関係をつなぎとめておくための信頼できる言葉やもの言いを見失ってしまって以降の、責任なき言葉によっていくらでも順列組み合わせによって再生産されるようになってしまった「左翼」ぶりっこ。僕が「コスプレ左翼」などと言って罵るのも同じような意味だし、退廃した「市民サマ」のある部分にもそれは通じてゆく。

 本当に、この「市民サマ」とは、今の日本の大衆社会に薄く広く広まってしまった、まさに民間信仰のようなものだ。信仰だから理屈ではない。信じることにおいてなにかはっきりした根拠があるわけではない。いや、根拠めいた言葉は一応あったりするのだが、それがそれぞれの身についたものに全くなっていないまま、ただ「お守り」として使い回されているだけなのだ。そして情けないことに、その「お守り」のまま、実際の「運動」の現場までもがうっかりと動かされてしまったりしている。

 こういう頼りなさ、足もとの見えなさを持った「運動」モードの不自由を前向きに乗り越えないことには、民主主義の再生はないと、僕は思っている。

 あ、言い間違ってないよ。「民主主義」だ。〈いま・ここ〉からよりよい未来を選択してゆくたの最も穏当な方法としての「民主主義」を真剣に考えようとするなら、今のこのような「運動」モードの「市民サマ」でさえも何か可能性がないのかと凝視し、馬鹿丸出しにつきあってみる。時にはそういう酔狂なツッコミのひとつも入れてみないことには、今の「市民サマ」的な「まじめさ」というのは、容易に眼の吊り上った狂信を生み出すだろう。それは、あやつられる言葉やもの言いが「左」だろうが「右」だろうが、言葉のビョーキという意味では全く同じことなのだ。そして、そのビョーキこそが、風通しの良い世間を窒息させてゆく。思想や言論なんて代物だけではこの世間、生かしも殺しもできやしない。

 そんな「市民サマ」モードにもっとも敏感に嫌悪感を抱いてしまう、ある意味では最も価値相対主義の健康さを宿している「観客」たちが、どのような形でもう一度、当事者になってゆけるのか。「観客」であることを手放さないまま、当事者としてそれぞれの暮らしの現場にきっちり復員してゆけるための手立ては、本当にないのか。まあ、いきなりこんなこと言ってもにわかには信じてもらえないだろうが、その程度には不肖大月、「民主主義」に行きがかり上の信心がありまする。

 だからこそ、やはり「市民サマ」から眼をそむけてはいけないのだと思う。「観客」の立場からきっちり見つめて、そして笑い飛ばしてやるしかない。笑い飛ばして、そしてその次、もしも自分に余力があり、さらに他でもない自分の隣のうつろな眼して座っている「市民サマ」を何とかしなければならない事態になれば、それはもう、たとえいやがられようが何しようが言葉を投げかけてむりやり関係を結ぼうとしてみるしかない。そうやって「市民サマ」の信仰のありように自ら気づかせてゆくしかない。それこそが、言葉本来の意味での「市民」=「国民」を作ってゆく確かな道なのだと思う。

       

*1: 『大月隆寛の大問答!』(時事通信社)所収「あとがき――隣の「市民サマ」から眼をそむけないために」より抜粋。