野坂昭如・頌

 野坂昭如がお手本だった。何が、って、ほれ、とにかくおのれの書きたいようにものを書いて食ってゆく、そんな夢のような世渡りの、だ。

 直木賞受賞作で後にアニメにもなった『火垂るの墓』が彼の作品であることを知らない人も、もはや珍しくない。あれって宮崎駿の作品でしょ、と二重に間違えて平然としている始末。ましてそこらの世間じゃ、野坂昭如といっても、ああ、少し前までよく『朝まで生テレビ』に出ていたあの酔っ払いオヤジ、でしかない。

 オーライ、だったらちょっと聞いてくれ。『一九四五・夏・神戸』を知っているか。七一年から七三年にかけて『海』に断続的に初出。初版は七六年に中央公論社から出て、後には文庫にも入ったけれども、「焼跡闇市派」と自己規定した彼の、おそらく最も良質な「戦争」についてのテキストがこれだ。日々の暮らしの中に「戦争」が入り込むというのは果たしてどういうリアリティを伴ったものだったのか、そして、頭上にB29が飛来するその日まで、そこに生きる人々がどれだけなんでもない日常の裡にあったのか、それらが執拗に執拗に細部から描き込まれてゆく。読点を多様した関西方言の話し言葉のリズムを武器とし、近松系の戯作にも擬されたことさえある彼のあの独特の文体がここでは背景に退いて、つとめて乾いた冷静なものになっている。「戦争体験の継承」などという知識人界隈にありがちな通りいっぺんのお題目なんざ、この一冊で消し飛んじまうってもんだ。

 六八年に『アメリカひじき』『火垂るの墓』の二作で直木賞受賞。その後、物情騒然の世情を足場に縦横無尽、おりから膨れ上がり始めたマスメディアの舞台を暴れ回った。七〇年安保前夜には心情三派(全学連のことですな)を公言してカンパまでして物議を醸し、それでもその学生たちが「運動」の中で悪酔いしてゆくのを見ると冷徹に突き放す。「機動隊は怖かった」は東大安田講堂攻防戦の出色のルポだ。テレビにもガンガン出る。それもワイドショーもいとわず、黒眼鏡(サングラスなんて物言いはまだなかった)で「プレイボーイ」(これまたすごい看板だが)を演じてみせる。片手間に『話の特集』の編集にも参画し、再録した永井荷風の『四畳半襖の下張り』がワイセツに問われた裁判では、裁判そのものをイベント化してみせる。さらにはレコードも出しコンサートもやらかす。永六輔小沢昭一と共に「中年御三家」と呼ばれたこともあった。キックボクシングをたしなみ、草ラグビーチームを主宰した。コメの自由化にからんで自前で水田も持った。もうなんというか、今で言えば小林よしのり村上龍田中康夫を全部足してふたまわりほど大きくしたような、変貌し始めた獰猛なメディアの舞台で「作家」がなお闊達に棲息できることを身をもって示した、言わばメディアヒーローだったのだ。

 けれども、もとをただせば大学中退後、黎明期のラジオやテレビの現場を這い回って食いつなぎ、CM制作からコピーライターまでやってのけてきた口八丁手八丁。その出自から言えば、折り目正しい「直木賞作家」であることの方が何かの間違い。この人は本質的にそういう「もの書き」でしかなかったし、何よりそのことを本人が一番よく自覚していたはずだ。事実、ほとんどの場合、自分を「読物書き」「雑文書き」としか言っていない。大文字の文学がブンガクと化してゆく流れの中で「作家」であることの落ち着かなさをこの人ほど繰り返し書き綴った人もいないだろう。今ならほんとに広告代理店御用達のマルチタレントにもなりかねないようなものだが、しかし、この人の身のこなしはそういうメディアの凶凶しい速度からおのれを逃がしておくだけの矜持を、また確かにはらんでいた。

 「焼跡闇市」という同時代体験とそこに根ざした世代感覚を何度も何度も反芻するようにして野坂は書き続けた。だから、小説であれ雑文であれ、そのモティーフは一貫している。しているが、しかしそれを擦り切れさせて陳腐にはさせなかった。同じ体験を何度も語り直してゆくことで、体験そのものにまた磨きがかけられてゆく。そんな作業を彼はかなり自覚的にやっていたはずだ。少なくとも八〇年頃までの彼は確かに、かつての「焼跡闇市」体験から引き出したリアリティで、みるみる変わってゆく同時代状況にかろうじてクロスしていた。

 しかし、いずれおのれの呼吸、生の呂律に忠実な文体で書きづるその手練れの技も、八〇年代に入って広告資本の縛りが強くなった雑誌の舞台では、また別の傍若無人な視線にさらされることにもなる。ちょうどその頃、復元されレストアされたB29をアメリカまで見に行くというルポがあった。原体験としてしみついている空襲の記憶。それと鮮烈に重なるあのB29の実物に向かい合うまでの葛藤。そして、いざ現地に行き頭上を低く飛ぶその爆音を耳にした時、突然堰を切ったように彼は号泣する。よそゆきのカラー写真と共に構成されたその誌面は、しかし、それまでの活字だけの白茶けた舞台で「戦争」を語り、原体験をほどいてきたそれまでの彼とはまた違うキャラクターの野坂をあぶり出した。思えばあのあたりが、メディアヒーローとしての野坂の転換点だったのかも知れない。

 雑文集ならば『風狂の思想』。小説ならば、小林信彦などと並ぶ高度成長期のメディア労働の現場についての貴重な同時代証言『水虫魂』も推したい。ともあれ、いやしくもサブカルチュアを口にし、ブンガクの潮だまりを超えたところでメシを食おうという今どきのもの書きならば、七〇年代の野坂昭如の仕事や身のこなしから真摯に学べるものは未だに少なくないはずだ。そう、あのオヤジ、ただの酔いどれじゃないのだ。