「ノンフィクション」という被差別部落

 えー、なぜか誰もはっきりとは言わないんですが、おなじもの書き稼業とは言いながら、ルポルタージュとかノンフィクションという分野はブンガクのそのまた下、ほとんど被差別部落みたいなものであります。で、被差別部落であるがゆえに、ブンガク幻想はその分より一層屈託して濃縮されたりしてるから、余計に難儀だったりします。だから、彼らは文芸誌に原稿書くのが何かステイタスだと、おめでたく勘違いしてるんですよね。
 文藝春秋と新潮社いうブンガク世界の二大勧進元、彼らがこのノンフィクションという被差別部落もまた取り仕切っています。これに講談社小学館など大手資本が連携しながら取り巻いているという構図。このへんは全くブンガク市場の縮小版です。
 基本は賞と雑誌と単行本。書く場所と書いたものの評価を与える仕掛けと、なおかつそれをプロモートしてゆく仕掛けとが全部彼らの手もとにあるわけで、書き手は首根っこおさえられているようなもの。こりゃ逆立ちしたって勝てるわけおまへん。さらに場合によっちゃ広告資本がらみの講演とかまで仕切られたりする。いかに世間的には相手にされなくなっていても、お手盛りの賞を臆面もなく惰性で乱発してさえいれば何とか商売だけは回ってゆくというブンガクまわりの悪構造は、ここでも不動のものになっとります。さらに、新聞社やテレビ局など「ジャーナリズム」というもうひとつの大宗教を奉ずる方面が側面援護の勘違いをやらかしたりするから、ブンガク以上に脆弱なルポ・ノンフィクション市場も、未だに幸せな勘違いと共に支えられてたりするわけです。
 賞で大きいのは、まず大宅壮一ノンフィクション賞。文春肝煎り、芥川賞と同じく日本文学振興会主宰の看板ですが、別に賞金がでかいわけでもない。始まった当初なんざ三百ドル、今でも百万円プラスアルファですから、ただ権威ってだけのこってす。なんせ家田荘子吉永みち子まで獲ってるんだから恥ずかしい。かつてはこれに対して朝日新聞社は『朝日ジャーナル』を足場にルポルタージュ大賞なんてのもやってて、例によって文春vs朝日という構図での仁義なき闘いをやらかしてたりしました。後発組では講談社ノンフィクション賞小学館の21世紀国際ノンフィクション大賞(なんだ、その名前)なんてのもある。七〇年代以降、このあたりのルポ・ノンフィクション系の賞が次々とできていった過程は、それまでの文学市場が広告資本がらみのメディア状況の変貌と共に、うわついたブンガクの方へとなしくずしに拡散してゆくのと並行していました。
 八〇年代の名著のひとつ、渡辺和博金魂巻』の「ルポライター」の章に、こういう市場構造の勝ち組負け組がいやになるくらいわかりやすく描かれています。マル金の勝ち組は沢木耕太郎とおぼしきライター。負け組は、これって朝倉喬司だろうか、はたまた日名子暁だろうか(ご両人ごめんなさい)という正統貧乏ジャーナリスト系の風体の御仁。ブンガクの手厚い庇護のあるノンフィクションと、そんなものの外で野良犬の如く食いつなぐルポとの厳然たる違いが描き出されていて、今眺めてもこりゃ胸が痛みます。この違いは、バブル期に山ほど出てきた広報誌がらみの海外取材、いや、そういうのは「ロケ」なんてぬかしてたもんですが、いずれそういう「おいしい仕事」を拾い集められる場所にいたかいないか、というあたりにも反映されている。それまでまだ多少は残っていた「社会派」の矜持と、そこに根ざしたフリーランス本来の志なんざ、ここでほとんど死滅させられちまいました。竹中労黒岩重吾の「トップ屋」時代はすでに遠くなったわけです。
 確かに、ルポ・ノンフィクション市場が形成され始めた頃は、新聞記者やジャーナリストといった人たちが流れ込んできてました。斉藤茂男、児玉隆也本田靖春あたりが代表的。その後、ブンガクがらみで登場した沢木耕太郎がスターになり、写真経由の藤原新也がブレイクしたことで、そういうジャーナリズム系の匂いは相対化されてゆき、「作家」とか「表現者」てな方向に自意識を投影するようになっていたように思います。 
 そのへんの転変を見るには、猪瀬直樹が一番わかりやすい。デビュー当初は「ルポライター」、その次には「ノンフィクション作家」、そのうち気がついたら「作家」になってらっしゃった。ご本人がどこまで意識しているかいないかわかりませんが、このブリがハマチになってくような階級上昇感覚というのは、実にわかりやすくて見事であります。
 彼が編集した『ノンフィクション宣言』という本があります。今から十二年前、八八年に文藝春秋から出ている。足立倫行、関川夏央、吉岡忍、山根一真、青木富貴子になんと沢木耕太郎まで加えた「ノンフィクション作家」のインタビュー集になっているのですが、ここで示されている当時四十歳前後になった彼らの「ノンフィクション作家」という自意識が見ものです。猪瀬がそれぞれの「仕事場」を訪問して話を聞く、というスタイルをとっていて、さしはさまれる思わせぶりな写真や、ことさらに原稿料や生活まわりのディテールにこだわってみせるあたりまで、とにかく痛い痛い。
 これが八〇年代型ノンフィクション系自意識としたら、それ以前、七〇年代型は『別冊新評』の「ルポライターの世界」などが典型かも知れません。『自動車絶望工場』でトヨタ季節工として潜入した体験を書いた鎌田慧氏が中心にとりあげられています。この鎌田氏、大宅賞の候補にあげられながらも「取材方法がフェアでない」などの批判を受けてこれに反発。当時結構な議論になったものです。その意味でまさに当時の話題の人なわけですが、しかし、ここでも前面に押し出されているのは「ルポライターという生き方」であって、必ずしも生産される作品ではない。フリーランスの、行動的な、社会の不正を暴く、私立探偵のような正義の執行者、てなイメージ。
それは当時吉本隆明などが唱えていた「自立」のかけ声などとも呼応して、組織に属さず、自分の信じるところに従って生きる、という、うっかりものを考えるようになっちまった若い世代にとって、何か輝かしいものとして受け取られたようです。    
 けれども、今やこういう「ルポ・ノンフィクション幻想」の内側に棲息しているのは、せいぜい四十代そこそこまで。具体的にはたとえば、そうだなあ、野村進とか神山典士、井田真木子あたりまでじゃないでしょうか。だって、言っちまうけど、西原理恵子の『鳥頭紀行』やナンシー関の『信仰の現場』、あるいは永沢光雄の『AV女優』なんかとタイマン張れる仕事は、これら「幻想」の内側でのたくってる限り、もう出てくるわけないんだもの。それは才能ある書き手の枯渇とかなんとかというより、これら「幻想」に未だ安住したまんま、商売になるからいいや、と書き手の数倍の高給むさぼってるエリート編集者の怠慢のせいだとあたしゃ思ってますがね。特に、ルポ・ノンフィクション系と自他共に認める編集者って、例外なくブンガクよりもブンガクコンプレックス丸出しで、その分またベタベタに抑圧かけるクソオヤジか、でなきゃ未だにポストモダン系アート馬鹿だったりして、どっちにしてもとんでもないっす。 
 だから、あの貧乏臭くてアタマも悪そうな藤井良樹あたりが今どき正面から「ルポライター」と看板掲げてみせてるのには、あたしゃむしろ期待してます。なぜって、あれってブンガクにおける辻仁成みたいなもんで、彼のあのネタのような存在感一発で、これまでのルポ・ノンフィクション幻想なんかきれいに相対化されてゆきますもの。