田中康夫ブンガク、はこの先、生き残れるか?

 田中康夫と言えば、東郷隆である。

 と言っても何のことやらわからないだろうが、今や歴史小説界隈の新星として評価される東郷隆の初期作品『定吉七番』シリーズの第二作『ロッポンギよりから愛をこめて』に、ほとんど準主役級の扱いでわれらが康夫ちゃんが登場していて、これがあなた、なんというか実に田中康夫以上に田中康夫、なのである。

 時まさに八〇年代半ば。ポストモダンの乱痴気騒ぎとバブル前夜の勘違いが最高潮に達し始めていた頃。この『定吉七番』シリーズというのは、かの007シリーズを下敷きに、大阪商工会議所のシークレットエージェントたる殺人丁稚定吉と、大阪に納豆を普及させることを目的とした関東の秘密組織「NATTO」との熾烈な闘いを描いた「おたく」魂全開のパロディー小説なのだが、ここで康夫ちゃん、トーキョーの最先端を華麗に泳ぐ流行作家でありながら実は大阪商工会議所工作員という、かなりおいしい役回りを振られている。ペンギンのような体躯でヒョコヒョコ歩き、高級車をころがしながら運転が死ぬほど下手で、それでもほとんど気にせずギョーカイを泳いで渡る軽薄ぶりは、もとは編集者だったという東郷隆の眼から見た、当時おそらく絶好調、わが世の春を謳歌していた頃の田中康夫像として正確だと思う。角川文庫だから、もしも古本屋で見かけたらどうぞ。


 『なんとなくクリスタル』というのも、今にして思えばけったいな小説だった。やたらめったら注釈がついていて、またそのスノッブぶりが今読むと大笑い。モノの集積、記号の体系としてしか存在できない高度消費社会の哀しみ(以上、適当)みたいなノリが当時あったからこそ、こんなキワモノでも村上龍をほめそこなった反動で江藤淳センセがうっかりほめちまったのが運の尽き。ここにあっぱれ「作家」田中康夫が誕生しちまうことになる。いやはや、文学オヤジの勘違いってのはつくづく罪作りだ。

 とは言え、その後もロクに小説も書いていず、もっぱら雑文、コラム、その他スキャンダルがらみのメディア露出がほとんどなのに、そのあまりの脳天気さというか、スッポンポンの俗物加減はどこか憎みきれないところがあるらしく、「ちゃん」づけで馬鹿にされながらなぜかしぶとく生き延びている。ブンガク世間のせんだみつお、てなところだが、どうしてどうして、場所によってはある種「社会派」作家として認知されているところもあったりするから世の中わからない。確かに、湾岸戦争では頼みもされないのに「文学者」の看板背負って力んでたし、航空チケット価格の内外格差について日本航空にいちゃもんをつけ、阪神大震災ではにわかボランティア沙汰に奔走していた。やれ、出版社に大阪のホテルをとらせていただの、いや、実は芦屋在住のなじみのスッチーが心配だったから、だの、あの時も口さがない連中からいろいろ言われていたが、なに、動機がいかに不純でも、あたしゃそういう軽挙妄動は嫌いじゃない。現地調達の原付で携帯シャンプーだのを配りまくったそのパフォーマンスは、ご当人としては相当本気だったのだろうと思う。そう、その程度に田中康夫というのはボンボンの人の好さを持っているらしい。

 おそらく、このボンボンぶりってあたりが田中康夫の最大の武器なのだと思う。なんだかんだ言ってブンガクの世間ってのは、編集者だの評論家だのといったハイソな出自のボンボン連中が、作家というひがみ根性丸出しな田舎モンの品定めをしながら世界を作っているようなものでありますから、そういう環境での田中康夫というのはやはり、苦笑されながらも「憎めないボンボン」として認知されているのだろう。強いものにちょっとだけ盾突いてみる微妙な「反権力」ポーズや、『一橋マーキュリー』以来のサブカル感覚でのたまう都市生活についてのご託宣の数々に、おのれの下半身の性癖まで臆面もなく書き散らす外道ぶり。さらに、浅田彰あたりに尻尾振りまくるインテリコンプレックスは隠しもせず、そのくせ決して深刻な喧嘩はしない。ボンボン界のアクセサリーとしては絶好だ。

 で、まじめな話。田中ブンガクというのがあるとして、果たして後世にまで残るものがあるのだとしたら何だろう。『東京ペログリ日記』が将来、かの『断腸亭日乗』のようにブンガク者の日記として評価される日がくるのかどうか。はたまた、大学で研究者の研究対象になるのかどうか。なる、と思う。民俗資料としての田中ブンガクというのは、昭和末期から平成初期の世相を語るテキストになるはずだ。民俗学者が言うんだから間違いない。だもんで、古本屋で棚ざらしになってる田中康夫本を結構マメに買いあさってるのだ、これでも。少なくとも『トーキョー大沈入』『ファディッシュ考現学』あたりの編集者ともども真面目に仕込みやって手をかけた仕事ってのは、後世に残って不思議はない。問題は、それをきちんと同時代の書きものとして読み解く枠組みを、文学ならざるブンガク研究の側がこの先、持てるかどうかだろう。今、田中康夫を卒論に選ぶ文学部学生って、さて、どれくらいいるんだろうね。