ブンガクの勝負どき

 僕はまず、「二十五歳未満の者、小説を書くべからず」という規則をこしらえたい。まったく、一七、一八ないし二十歳で、小説を書いたって、しようがないと思う。

 小説というものは、或る人生観を持った作家が、世の中の事象に事よせて、自分の人生観を発表したものなのである。そこで、まだ世の中を見る眼、それから人生に対する考え、そんなものが、ハッキリと定まっていない、独特のものを持っていない、二十五未満の青少年が、小説を書いても、それは無意味だし、また、しょうがないのである。

 今回の芥川賞の選考委員のひとりだった作家某氏が、決して他言無用、君ひとりの胸の中にしまっておいて欲しい、と念を押した上で、選考委員会の開かれた築地「新喜楽」での宴席のはねたその後、いささか悪酔いした顔で、とある酒場の片隅でそっと手渡してくれたメモである。

 ……というのは、ウソだ、すまぬ。

 残念ながら昨今、そんな絵に描いたような「いいハナシ」なんざ、筆先三寸で世間を上手に納得ずくであざむくのが稼業のはずのブンガク界隈でさえも、そうそう転がっちゃいない。

 発言の主は菊地寛。題も直球「小説家たらんとする青年に与う」。大正12年12月、34歳の時に書かれたものだというから、今からはるか81年前、すでに半分以上「歴史」の中に埋没し始めている文章だろう。

 あのお、菊地センセ、あなたの盟友だった芥川龍之介が処女作「羅生門」を書いたのが21歳、他でもないあなたと雑誌『新思潮』をこさえて「鼻」を発表したのだって24歳の時で、いまだ帝大の学生、正真正銘の青少年だったんじゃ……てな可愛げのない半畳はいくらでも入れられるのだが、ここは世間一般、どこにでもいるあたりまえの凡才に向けての苦言だろうということで、ひとまず控えておく。

 その芥川賞、いまなおブンガクで飯を食わざるを得ない出版社連を勧進元とする年に二回の新人プロモーション興行であることは、以前から言われていたけれども、ここに来てそのことが、日頃ブンガクになど関心のない世間一般に対してまでも、はっきりとこの上なくわかりやすく示してくれるようになった、その意味で今回は画期的だったと思う。

 まるでレコード大賞だ、と誰かが言っていたが、言われるまでもない。今や年末のレコード大賞がCD市場の動向を反映したものなどでなく、単なる内輪の事情による持ち回り、レコード業界ぐるみのプロモーションであることが世間の常識なのと同様、芥川賞やその他の文学賞もまた、正しくそういう「商売」であることが、誰もに素直に見えるようになった。多くの新聞が臆面もなく一面で報じたのも、ワイドショーその他が意地汚く追随したのも、評論家が揃ってあたりさわりのない破れ提灯つけてまわったのも、みんなみんなそのための、高い志に裏打ちされた啓蒙活動とおぼしめせ。

 そういう「商売」をなかったことにするタテマエの上にかつてのいかめしい「文学」は成り立っていたわけで、いまやそういうタテマエなどほんとになくなったんだ、つまりあのいかめしい「文学」自体もうあり得ないんだ、ということを、他でもないその「文学」の権威の総本山のように扱われてきた芥川賞(なにせ未だに対象作品が「純文学短編」と規定されているのだからめまいがする)が今回、身を呈して世間に教えてくれようとしたこと自体、実に感動的。いや、ほんとにすごい。

 思えば、二十年ほど前、「処女作執筆中」と銘打って華やかに登場した若い女性「作家」がいた。いや、ついこの間も、「インターネットの女王」の看板で売り出されたものの盗作騒動を暴露された直木賞候補「作家」がいた。それら苦節約二十年の七転八倒の末に、いずれ「商売」ならば何でもあり、若い女性で「文学」で、できればご面相も十人並み以上ならなお結構、という芸能界並みの興行システム、市場論理の恩恵に、ようやくここ文化の僻地、活字ムラの長老サマたるブンガクまでもがめでたく平等に浴するようになった、今回の芥川賞はその最もわかりやすい反映だった。

 審査委員の要に、村上龍がいたことの必然を思う。そして、受賞作家のひとりでいま、最も注目を集めている綿矢りさ出世作『インストール』の映画化が、角川大映の手によってすでに粛々と進められていたことも。モー娘。つんく、あまた女子アナとテレビ局の連携を想起するまでもない。筑紫哲也が喜んで「ニュース23」に呼んでくれるだろう。CM出演、歌手デビューだって夢じゃない。写真集? うむ、まずは篠山紀信で『週刊朝日』の表紙からだな。

 それにしても、おい、ブンガクよ、これからがほんとに世間にその真価を、あの「文学」というシアワセなタテマエ抜きで「商売」を、むき出しの「商品」としての中身だけを、このうっかりと開かれきった市場でまっとうに問われる勝負どき、だぞお。