寂聴系

 山田詠美家田荘子、もしかしたら横森理香とか谷村志穂とかまで含めてもいいかも知れない。オンナのもの書きとしてはいささか芸風の違うこいつらにそこはかとなく共通する要素とは、さて、なんでしょう。

 答え。瀬戸内寂聴系、ってことなのであります。

 何それ、わけわからん、と言うなかれ。あたしだって今回、この仕事がらみでなければ気がつかなかったことなんですから。なんか恋愛や不倫をやたらと語りたがる山田詠美家田荘子の世渡りって何だかヘンだよねえ、てなところでやっこさんたちの書いたものを掘っていたら、これって実は瀬戸内寂聴とマーケットかぶってないですか、ということに。恋愛や不倫、セックスがらみの人生相談や説教めいた語り口でオンナ相手に確実に点数を稼ぐ商法は、案外気づかれないようですが、確実な消費者ニーズをつかんでいるようなのであります。

 瀬戸内寂聴というのは、別稿でもまな板に上げられてますが、ほれ、『ニュース23』なんかにもたまに出てくる、ふかしてしばらくたった麸まんじゅうみてえなツラした尼さん。当年とって、なんと八一歳。いまでこそエコだ世界平和だ反戦だ、と、何やら戦後民主主義的良識の使徒みたいなことぬかして商売してますが、もとをただせばあなた、ありゃ瀬戸内晴美という立派なブンガク系で、かつてはイケイケの女流作家(これももう死語ですが)として、当時としてはかなりあからさまなセックス遍歴をネタにした作品で文壇(これももう崩壊して久しい)まわりを席巻してブイブイ言わせていた御仁です。芸能界で言えば、加賀まりことか桃井かおりとか、そういう類のブツだったと思っていただければよろしい。

 今から三十年ばかり前にアタマをまるめて尼になり、それまでのご乱行の数々を懺悔してきれいさっぱり世俗の垢を落とした暮らしに入るかと思いきや、それもまたプロモーションのひとつだったらしく、十年ちょっと前から、そんなドロドロな人生などなかったようなツラで他人に説教して暮らすようになっております。こやつを得度した時の介錯人が、なにせかの今東光だったわけで、こりゃまた菊池寛と戦前大喧嘩して数十年も筆を折って雌伏していたニッポンブンガク史上一、二を争う豪胆の士。天台宗のかなりエラい坊主にまでなって、晩年は国会議員なんかもやっていましたが、こういう娑婆っ気抜いた世渡りをじゃじゃ馬晴美タンに指南したのも実は、この東光ジイさんだったのではないか、とあたしゃにらんでおります。

 「オンナ」であること、そしてかつては性的な意味も含めて自由奔放であった時期があり、身体を張った世渡りをしてきた印象があったこと、そしてまあ、筆がそこそこ立つこと――などの要因が揃っていれば、それまでいかに七転八倒、泥水すすり草を食み、の修羅道をくぐってきていても、行き着く果てにひとつの「あがり」の形としてこの寂聴系の世渡り、というのは昨今、実は案外確実に市場が見込めるものになっているらしいのでありますよ。早い話が「昔はあたいもバカやってたけどさあ~」という、ブンガク系元ヤンドキュソ姐サマの説教芸、なわけで、このあたりの新規市場を大衆社会状況が本格化した時期に奇しくも開拓していった先駆者として、この寂聴バアさんは記憶されるべきでしょう。

 「経験」こそが最大のネタ元、というのは、悪名高き「私小説」の伝統を持つニッポンブンガク……いや、ニッポンの社会構造にまつわる根深い症状=文化なわけですが、ことオンナに関して言えば、そこに初手から性的対象として位置づけられてきた宿命が陰に陽に作用してくるわけで、その「経験」の質がオトコのもの書きにおけるそれとは異なる意味をはらんでくるのもまた当然であります。このあたりの事情については、小谷野敦あたりに言わせると、平安朝の『和泉式部日記』以来の伝統なんだそうで、寂聴バアさんの瀬戸内晴美名義の初期作品などにはこの伝統が蘇り、女の性的冒険もやはり「カッコいい」ものになっていった、そうなんですが、う~ん、「伝統」って言われてもなあ。

 寂聴系とは、この「オンナ」の「経験」というあたりを確実に商品にしてゆく仕掛けがあって、初めて成り立つ領域であります。もちろんそんなもん、オトコの経験であっても本来構わないようなもんですし、最近とんと廃れたもののルポルタージュやノンフィクションといった領域なんかはおおむねそんなもんでしたが、少なくとも、こと性的遍歴について言えば、野郎のマラ自慢などは西鶴の昔ならいざ知らず、大衆社会成立後の世界においては商品としてのブンガクには入れてもらえないのがあたりまえ。60年代半ばに、かの野坂昭如が「プレーボーイ」(音引きに注目!)を名乗ってメディアに殴り込んだあたりがもしかしたら最後かも知れません。田辺茂一丸尾長顕などが当時は「フェミニスト」と呼ばれて、それはいまどきの日本語に翻訳したら単なる「オンナ好きで猥談上手なのエロオヤジ」に過ぎなかったりするのですが、ともあれ、そういう状況での瀬戸内晴美というのは当時、毀誉褒貶含めて格好のターゲットになり得るオンナではあったようです。

 そんな彼女が出家したのが73年。以後、しばらくなりをひそめて源氏物語の現代語訳(寂聴訳、と称してます)などに没頭していたようなのですが、人生相談ネタで露出が復活。新聞からNHKにまでその人生相談芸の舞台は広がって、とてもかつて奔放な性的遍歴を武器にブンガク界隈を荒し回り、その頃まだあった純ブンガク方面からは「流行作家」(これ、蔑称だったんですよね)とバカにされていた御仁とは思えないキャラの変貌ぶりは見事ではあります。

 ただ、寂聴の場合、自ら「ブンガク少女だった」と認めているように、相手となるオトコは井上光晴などひとまずコアなブンガク界隈が主で、それがある種のゴシップとして消費されていたあたり、今だと柳美里なんかに近いところもあるんですが、おそらくは今後この寂聴系市場を禅譲されてゆくだろう存在の筆頭、山田詠美になると、周知の如くオトコ遍歴については黒人含めてバタ臭系シロウト衆で固めてゴシップ系のドロドロ感から距離を置き、そのかわりブンガク界隈については「対談」というモードで「おともだち感」を増幅させて埋め合わせてしてゆくのがテのようです。

 山田詠美直木賞をとったのが87年。当時の審査委員は、五木寛之井上ひさし黒岩重吾田辺聖子陳舜臣平岩弓枝藤沢周平村上元三山口瞳渡辺淳一でした。ちなみに、おんなのもの書きとしては同時期デビューとも言える林真理子の受賞がその二年前の85年。ビミョーな緊張関係を保ちながら、共に今後のブンガクまわりをシメてゆくであろうオンナ作家二匹が共にこの時期に出現しているのも、「オンナ」であること自体がそれまで以上に商品価値を生み出すようになった時期だったということでしょう。

 違いがあるとすれば「対談」芸の質。山田がこれまで対談してきた相手というのは、村上龍石原慎太郎野坂昭如伊集院静井上陽水宮本輝谷川俊太郎大島渚小島信夫島田雅彦井上ひさし水上勉中沢新一京極夏彦団鬼六……とまあ、いくら文芸誌まわりの編集者の思惑がらみとは言え手当たり次第。仮にこれがオトコならここまで何でもありに対談相手を選定できなかったはずです。逆に、オンナとの対談って驚くほど少ないんですよねえ。それこそ寂聴か吉田ルイ子ぐらい。そのくせ、寂聴以下、田辺聖子、森遙子あたりの評価の定まった大御所にはしっかりとりいる術を心得ていて、このあたりの使い分けはたいしたもんです。林真理子が『週刊文春』誌上で顰蹙買いながら未だにやっている対談連載は、おのれのバカも含めた自意識全開バリバリ芸で「有名人」であることがモティーフなのに対して、山田は文芸誌主体にブンガク界隈の、それもオトコを標的にする芸で陣地拡大を図ってきたわけです。まあ、この「オトコを標的にする」というのは、林真理子には逆立ちしても獲得できないオプションなわけで、ミもフタもないようですが、両者の確執も掘り下げれば案外このへんにあるとあたしゃ思いますな。

 だって、水上勉にはいきなり母親から託された手紙を渡してゴロニャンしまくり、団鬼六には、好きだ好きだと言っておけばいつか会えるんですね、てな甘言を弄し、宮本輝には「輝じい」と甘え、石原慎太郎になるともう「ゴルフに行ってらしたんですか?」を皮切りにまるで銀座の辣腕ヘルプみてえなつかみ方。それでいて奥泉光大岡信あたりの格下&世渡りアイテム圏外物件には「君」づけのタメ口連発(笑)。一方、底力ありそうな京極夏彦になると「さん」づけだから、相手を値踏みした上でのことなのは明らかですがな。さらに、生態系の違う井上陽水のようなミュージシャンだと「元気だったぁ~?」と初手から仲良しぶりをたたき込む、という、まあ、ある意味ホステスとしては王道。でもって、「私って、なんて、傲慢で、畏れを知らないくそ生意気な女であることか」とあとがきでしっかりフォロー。いや、もう、最強であります。

 この山田ほどではないにせよ、この寂聴系で及ばずながらも商売しているのが家田荘子です。エイズ患者ネタで大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したのは91年。女子プロレスネタで立花隆に因縁つけられた故井田真木子と共に受賞で「大宅賞を女性が独占」ともてはやされたものでした。

 ただ、家田は生来もの書きではなく、もともと芸能プロダクションのようなシステムの中でプロモーションされたキャラである、と言われていました。本来は女優志向の芸能人ワナビー。企画にせ取材にせよいずれまわりがお膳立てしてのことで、その意味では「オンナ」の「ルポライター」というキャラクター商品。その後『極道の妻たち』でも一発当てて立派に売れっ子になった割りには、ご本尊にどうしようもなく安っぽさが漂うのは、「オンナ」として自立したキャラではないのがバレているからでしょう。寂聴にかぶれて頭丸めて見せたりしても、商売として効き目がないとわかるとじきになかったことにしてケロッとしているあたりも、まわりの仕掛けに動かされているゆえ。そのへん、あイタタタ……なマンガを描いていた恥ずかしい過去(山田双葉という名義ね)があるとは言え、黒人米兵という「異物」を後ろ楯にしてきた分、山田詠美の方は初手から「オンナ」キャラで自立しやすい立ち位置にいました。同じ寂聴系商売をしていても、家田とはひとつ格上のイメージがあるのはそのへんが大きいようです。

 林真理子も実は将来の姿としてはこの寂聴系も選択肢に入れてるとあたしゃ踏んでるんですが、「オンナ」をウリにできないキャラの限界が明らかで、家田荘子みたいに考えなしに頭を丸めるバカさ加減もなく、恋愛の代わりに夫婦生活を語ってみせても決して人生相談の相手にはなれないというジレンマ。こう見てくると、寂聴系になるには、そこらのフツーのオンナ大衆にとって、自分たちと適度にかけ離れた存在という距離感を維持できるか、がひとつポイントのような気がします。かけ離れるならいっそ坊主に、というわけで、そりゃねえ、誰も今の林真理子柳美里に人生相談しようとは思わないもんねえ。

 近い将来、山田も家田も、そして林真理子も、間違いなく「老い」を語り始めると思います。その時に寂聴の「出家」にあたる「そこまでやられたらもう何言われてもしょうがない」というくらいに一気にフツーでなくなる切り札を切れるかどうか、でしょう。具体的に何があるか、って? う~ん、家田はマジでヤクザになるかエイズにかかるか。山田だとそうだなあ、犯罪やらかすか、でなきゃいっそ海外青年協力隊みたいな片道切符の普陀落渡海系ボランティアとか。横森や谷村あたりのゆるいお花畑なコラムニストまがいのまんまだと、むしろ中村うさぎとかさかもと未明あたりのホンモノの外道の方が可能性あるかも知れません。ともあれ、山田を筆頭にした次の寂聴、のさらなる出現は、「オンナ」というキャラのありようもまた、変えてゆくはずであります。