いまどきのブンガク・まえがき

*1

 「文学」というのはよくわからない。そもそも、何をもって「文学」と言うのか、未だにちゃんと納得のゆく説明をわかるようにしてもらったことがない。なのに、人と社会と文化の土俵でちょっとマジメにものを考えようとしてゆくと、どこかで必ずこの「文学」が物陰からクラい顔してぬっと現われやがる。うっとうしいことこの上ない。
 高校の現代国語の時間に「文学史」というのを一応習った。けれども、そこに出てくるのは「白樺派」だの「耽美派」だのの面白くもない流儀流派の名前か、でなけりゃおよそ〈いま・ここ〉とは縁のない作家や作品名を詰め込み覚えさせられるのが関の山。思えば、このへんからもう「文学」はよそよそしいものになっていた。
 大学にも文学部というのがある。就職の役に立たないのは昔からだが、今みたいに不景気になるとそれもまた格別。まして、教養課程の再編その他で上を下への大騒ぎのいまどきの文科系のこと、情報○○学部とか○○文化学部とかに看板をつけかえて何とか生き延びようとジタバタしていて、ここでも「文学」はてんで色褪せている。
 ならば、「文学」の専門誌ということになっている文芸誌はどうだろう。これも雑誌は雑誌だが、しかし、そこらの書店に並んでいるのをほとんど見ない。いわんや、雑誌の流通にとって大きな存在になりつつあるコンビニなどには絶対に並ばない。聞けば部数はどれも数千部。コミケの同人誌以下だ。出版社にすればお荷物にこそなれ、決して屋台骨支える助けにならないから、たてまえはともかく、商売度外視の言わば文化事業としてやっているのが現実らしい。そう、「文学」ってやつはロクに商売にもならないのだ。
 なのに、だ。不思議なことに、芥川賞直木賞はその季節になると新聞や雑誌、テレビのニュースなどで大きく報道されるし、新聞の学芸欄や文化欄といったところでは、作家だの評論家だの「文学」の人たちがものを言ったり書いたりする。時にはテレビにも出てきてくっちゃべる。もっと偉そうになると「文学者」なんて代物まで出てくる。小説を書くのが小説家であり、そのもう少し漠然とした肩書きが作家だとしたら、さて、文学者というのはどのへんの人たちなのか。実作をやらない文芸評論家なる人たちもいるわけで、これは作家ではないにせよ、やはり文学に関係があるから「文学者」ということになるのだろうか。このへんの線引きもつくづく詳細不明だ。
 小説にだっていろいろある。純文学というのが未だに何となく「エラい」になってるようだが、商売としてはそれ以外のエンターテインメント系の方がはるかに主流。さらに歴史小説というのもあれば、推理小説やミステリーというのもある。SFだってあるし、エロ小説もあれば、客筋を十代の女の子に限定したコバルト文庫もある。フィクションならざるノンフィクションなんて分野もある。今どきのことだから、ゲームだのアニメだのを翻案して読み物にした分野もあるし、とにかくあれもこれもみんな一応「小説」だったりする。だったら文学だってそこら中にあるはず、なのだが、ところがどっこい、そう簡単にこの「文学」の許可証は与えてもらえない。普通このエンタメ系以下は「文学」として扱ってもらえないことが多いらしい。もっとも、その線引きははっきりしないのだが、しないながらも、「文学」と〈それ以外〉との間にはある境界線がやはりあるらしいのだ。
 というわけで、「文学」とはもはや民話と同じ、ニッポンの「」の社会に共有されるある種のフォークロアである――そう思い切ることにした。そこに棲む人々が本当のことだと信じている限りは間違いなくある役割を担う、けれどもそれ以外の人々にとってはほとんどわけのわからないものでしかないような、そんなある幻想――「文学」とはどうやらもうそういうものでしかないらしい。だったら、「文学」のわからないことについて誰もうまく説明してくれないこのモヤモヤを振り切って、〈いま・ここ〉に役に立つようにいまどきの文学を考えると、さて、どういうことになるか――それが今回のこの本の企画意図だ。


 そういう風に〈いま・ここ〉から文学を見つめてみようとする時、たとえば、村上龍をひとつのものさしにしてみる。いや、別に村上龍でなくてもいいのだが、一番わかりやすいと思うからひとまずそうしてみる。
 七六年、彼の『限りなく透明に近いブルー』が芥川賞を獲った時、その「評価」をめぐって当時の大御所だった文学関係のエラいさんたちがみんな右往左往した。「若い世代」の「感覚」がわからない、ということが文学にとってひとつの脅迫のようになったのは、おおむねこの村上龍からだ。
 もちろん、それよりずっと前、たとえば安岡章太郎とかの「第三の新人」の時点でもその気配はあったし、今は東京都知事をやっている石原慎太郎、あの人などもそういう「文学」の「新人」ということで鮮烈にデビューしていた。その意味ではみんな村上龍のご先祖みたいなものだ。けれども、当時はまだ文学はきちんと文学の枠組みを守れていたし、何より、「若い世代」の「感覚」がすべてのものさしになったわけではなかった。それでも、そういう「若い人」の「感覚」が文学の主題になるようになった、言い換えれば、文学がある種の風俗として消費されるようになったこと、は、それまでにはあまりないことだった。
 もっと焦点を広げてみれば、「文学」が何か同時代の気分を反映しているかのように語られるようになっていったのは、はっきり言って戦後のこと。それも週刊誌が発達していわゆるマスメディアがわれわれの日常の気分を規定するようになっていってからのことだ。具体的には、昭和三十年代あたりから、「文学」が「若さ」と共に何か時代を計測するものさしになっていった。だからこそ、その新人賞としての芥川賞は、ジャーナリズムにおいて必要以上に注目されるようになっていったし、文学の方もまたそれを意識するようになっていったのだ。
 同じ頃、大学もまた増えていった。特に、女子大生亡国論なんてのが唱えられるくらいに女子学生が急激に増えた。それはつまり、文学部が増えていったってことでもある。その結果、誰もが安心して依拠できる文科系一般教養の代表として「文学」は理解されていった。今ある「文学」の枠組みというのは、こういう過程でおおむね高度経済成長期に準備されたものだったりする。大衆社会化と「文学」とは密接な関係があるのだ。夏目漱石森鴎外だ、といった、学校の「文学史」で習うような「文学」も、そうやって整えられていった枠組みから後づけに投影されたものだったりするわけで、何にせよ、民話としての「文学」というのも、そういう「豊かさ」に裏打ちされて成立していったものだと言える。
 けれども、村上龍以降、それまでに紆余曲折を経ながら完成されたオヤジたちの教養としての、場合によっては「芸術」というさらに大きな傘の下でのそういう「文学」は、なしくずしに拡散していった。明治期に外国から輸入された新たな意匠としての「文学」が「文字読む人々」の社会で無条件に共有されてゆき、その過程である種の民話にもなっていった数十年の歴史。教養主義的な読書が「正しいもの」として形成され、その中心にさえ居座ることに成功した幻想としての文学、民話としての文学の共有される範囲は、しかし、戦後の過程で読書のありようが多様化してゆくに伴いどんどん水増しされていった。その結果、当事者たちの予想もしなかったような茫漠とした広がりの中に、文学は放り込まれることになる。言葉本来の意味での「文学史」があるとしたら、こういう過程を記述し得る言葉を獲得することから始められるべきだと思うのだが、しかし、この過程を、当の民話の内側にいる者たちはまだ十分にとらえられていない。
 磯田光一という文芸評論家がいた。この人が八六年に書いた『左翼がサヨクになる時』というのは、それまでの漢字の「左翼」が自明のものとしていたさまざまな約束ごとが大衆社会化の流れの中でなしくずしに崩されてゆき、その間隙を縫って「サヨク」としか言いようのないものが登場してくる、その間の事情を精神史的に描き出しそうとした仕事だが、そこでの結構を借用して言うならば、「文学」もまた「ブンガク」になっちまった、ということだ。そして、その転換点を象徴的に示していたのが、まさにこの村上龍あたりだったと思う。そしてそれは、その後八〇年代の椎名桜子(笑)を経て、九〇年代末に登場したJ文学でついに最終的な「完成」を見た。
 かくて、無条件に「エラい」ものであった大文字の「文学」などはもはや存在しない。あるのは麻薬のような広告資本にドーピングされた情報環境にかろうじて浮かぶ「ブンガク」だけなのであり、そしてそれさえも、いまどきの世間一般からすればほとんど問題にされてないようなものだったりする。ならば、そういう「ブンガク」のあり方も含めて、〈いま・ここ〉から見える風景のままに思い切って語ってみよう――われわれに共有されていた気分というのは、乱暴に言ってしまえば、まあ、そういうことだ。
 とは言え、一読してもらえばわかると思うが、書き手にいわゆる「ブンガク」の専門家というのはほとんどいない。当たり前だ、こんな外道な企画、少しでも「ブンガク」に利害のある人間ならば即座に断る。版元も、本当ならば文春や新潮などでやれれば面白いのだけれども、そこまで無理を言わずとも、ことこの「ブンガク」の呪いというのは予想もできないくらいに根深いらしく、後難を恐れてどの出版社も手を出してくれない。となると、こりゃもう、ブンガクったってミステリー方面ぐらいにしか利害のない宝島社しかないだろ、ってわけで、このように『別冊宝島』の一冊として立ち上がった。
 雛型は、同じくわれわれのうちの何人かが仕掛けた『音楽誌が教えないJポップ批評』。あのスタイルで、えいや、っとまずは作家を五十人ばかり、見開きで紹介がてら論評してみることにした。もちろんこれがいまどきのブンガクの全てなどではない。素材はあっても書き手が見つからなかったり、また逆に、素材に誰も興味を示さなかったりで、落ちはいくらでもある。それを多少は補足する意味で、われわれの考えるいまどきの「ブンガク」の見取り図を、これまた気合い一発でチャートにして作成しておいたので、併せて眺めていただきたい。
 別にいまどきもうブンガクなんてわからなくても、その他に楽しいことはいっぱいある。その程度にわれわれは「豊か」になった。けれども、かつて確かに信頼すべき「エラいもの」として共有され、信心されていた頃のブンガクの痕跡は、今もまるで亡霊のようにそこここに成仏できずに残っていたりする。いや、残っているばかりか、うっかりすると〈いま・ここ〉を生きるわれわれに逆にとりついたりもする。そんな下級霊、落魄した神と化したブンガクをとりはらい、少しはほんとに役に立つようにこの先つきあってゆこうとする時に、この外道な本が案外役に立つだろうことをわれわれは保証する。

*1:いわゆる「お文学」の世間からはものの見事に黙殺スルーなかったことにされますた……