草刈場のガクモン――菊池暁『柳田國男と民俗学の近代』

 出世するぞ、こいつ。

 いや、皮肉でも何でもなく、マジメにそう思うんだわ、ほんと。

 菊地暁の『柳田国男民俗学の近代』なんてタイトルの本が出ていたもんで、ほんとなら特集の方でとりあげてもいいんだけれども、早い方がいいと思ってこっちでやっとく。

 民俗学まわりでスジの悪くないまとまった仕事がこういう形で出てくること自体、かなり珍しいわけで、しかもそれが三十代そこそこのイキのいい若い衆のものだったりするなんて、宝くじにあたるようなもの。それだけでもひとまずありがてえや、と言っておこう。

 京大史学科出身で民俗学まわりに首突っ込んで、阪大の日本学科の大学院で博士論文書いて、でもってそれがこういう本になってまとまって、なおかつ今じゃ京大人文研の助手とくる。う~む、どだい偏差値がまるで違うな、こりゃ(笑)。

 京大史学出の民俗学者ってのなら、かつて柳田国男が京大で集中講義やった時にオルグられたといういわくつきの大先輩に、平山敏次郎なんてエラいサムライもいたよなあ(まだご存命のはずだし、あたしゃ好きだぞ、このジイさん)。柳田国男民俗学に対峙するスタンスからすれば、ありがちなブンガク方面からの柳田読み――川村湊小森陽一なんかのよそごとぶりとその分サベツ意識丸出しなエリート主義とは少々色合いが違って、もうちっと民俗学本来の土俵に同情ある立ち位置、たとえば佐藤健二なんかの系譜に属するし、文体その他にしたところで、まあよく抑制は効いているなと思う。博士論文の審査にゃ川村邦光もいたみたいだし、そりゃひとまずまっとうなものってこった。

 どういう本か。え~と、まず石川県は能登半島にアエノコトと呼ばれる行事があって、これは民俗学的にはいろいろと蓄積のあるものとされてきてるんでありますが、さて、こいつがどういう具合に戦後、「民俗学」という網に捕捉され、意味づけられ、表象され、それによって当の行事自体もまたどういう具合に変貌していったのか、それら難儀極まりない、しかし言葉本来の意味での「歴史」の過程をまるごととらえてみようとした力仕事、てなところ。メタなスタンスからのイデオロギー暴露の芸風は、いまどきのカルスタなんかにもなじめる間尺で、よくもわるくもいまどきな切り口ながら、そこに込められた誠実さや素性のまっとうさは十分に取り柄だ。だって、おのれを相対化しながらのコントロールされた聞き書きは当たり前だとしても、底引き網かけるような偏差値世代特有の効率主義で伐採しまくり、地元の情報環境そのものを荒廃させてゆくようなやり口でなく、極力落ち着いた眼と物腰での資料探索もやっているようで、たとえば地元在住の民俗学者西山郷史の仕事なんかまで一応おさえているんだもん、そこらへんは素直にほめていい。まあ、せめてこれくらいの水準の「論文」がある程度続けて生産できるくらいの地力があれば、民俗学まわりのガクモンってやつもここまでメチャクチャにならなかったのに、と改めて思う。

 今や民俗学って代物自体、大学「改革」その他で追い詰められてどんどんこすっからくなってる文科系ガクモンの草刈り場みたいになってるところがあって、ひところみたいに文化人類学からの越境は少なくなったようだけれども、逆に人文地理学だのブンガク史だの社会学だの、果てはなぜか哲学だの現代思想だの、そういう界隈からのオーバーラップが山ほどある。恥をさらせば、ロクに審査もなく学会誌に論文が載せられるし、討論どころかまともな応答も期待できない学会発表でも業績的には一回は一回、てなケチな目算が働くいまどきの院生には格好の踏み台。とにかく後生にさわりそうだからそんな間抜けな場所とはもう金輪際関わるまい、と決めたあたしにとっちゃ、どうでもいいっちゃいいんですけど、そんな中でもこういう具合に何ほどか民俗学に同情ある仕事が出てくるのは捨てたもんじゃない。版元が、民俗学方面じゃ悪名高い吉川弘文館ってのはけったくそ悪いが、世に出ることに異存はないな。

 ただ、ひとまわり年上で、若気の至りとは言え、一時は今ある民俗学なんて泥沼に棲んでみようと血迷ったこともある外道としては、ここは敢えて注文もつけとこう。

 終章「エスノグラフィック ノ セカイ」(なんだかSMAPみてえだな)で表出しちまったような客気満々な問いは、これから先、きっちり自分にはねかえってくる。それは単に仕事としてはねかえるというだけではなく、世渡りの手癖や身じまいの仕方、くだらぬ学界まわりの政治への巻き込まれ方といったところまで全部ひっくるめてのことだ。アタマよさげな著者だから「そんなことはわかってる」と即座に言うだろうけど、でも、それをどのようにわかってゆくか、というのもまた、死ぬほどかったるい当たり前の生きる速度の中でしか明らかになってゆかないというのも事実だ。

 どうせならきっちり出世されたし。その中でまだどういう達成があり得るものなのか、民俗学ってのはつまりは生き方じゃん、と乱暴に決めつけて生きることにしたあたしの立ち位置から、マジに見てみたい。物欲しげなカルスタ野郎や口先だけで腹の底真っ黒な京都学派の陣笠たちにケツかかれないように、と、いらぬ心配のひとつもさせてもらっとこう。