「文科系」の頽廃

 いまどきの「大学」の状況ってやつは、果たしてどれだけきちんと伝わってるんでしょうか。受験シーズンになると、未だに「東大合格者ランキング」的な企画が週刊誌あたりに載ったりしますが、ここまで膨れ上がった大学のその中身にどういうとんでもない「DQN」化が起こっているのか、については、どうもうまくまだ世間には知らされていないような気がします。

 特に文科系ですな。理科系/文科系、というくくり自体が、ニッポンの大学自体の歴史にからんだ、思えばミョーな枠組みなんですが、それでも昨今、理科系は十分まだ元気があるわけで、基礎研究の薄さだの理科系離れだのと言われながらも、少なくとも大学行政の範囲内でははっきりと勝ち組、理科系の学部を再生の核にしよう、という動きは、総合大学系の大学では「改革」のひとつの旗印になってたりします。その分、文科系は思いっきりワリを食ってる。というか、もうほとんど世間的にも「役立たず」の烙印が押されちまってるようでありますな。

 文科系、ということは、とりもなおさずそれは「フツーのシトたち」ってことでもあるわけで、受験業界で言うところの「私立文科系」というくくりで語られるかたまりってやつは、イコール「何の取り柄もないフツーのシトたち」さらにイコール「給料取りのサラリーマン予備軍」ってことに、もうずいぶん昔からなっていたのでもありましたが、ここのところ十年ばかりではっきりしてきた「大学」の棚落ち状況ってやつのそのかなりの部分が、まさにこの文科系の没落、斜陽、役立たず化てなところに起因している、それこそが大きなポイントなわけであります。

 大学について、受験がらみで偏差値ってやつが諸悪の根源のように取り沙汰された時期もありました。偏差値による輪切りの世界観が大学を見る眼に定番として仕込まれるようになって、大学側がそれを逆手に取ってのマーケティング戦略をやらかし、後になってみれば偏差値バブルと言われたような状況もあった。「日東駒専」だの「大東亜帝国」だのと呼ばれた一群の私立大学のはかないイメージアップも、そういう偏差値がひとつの世界観として大学に対する視線に仕込まれちまった状況を前提にあり得たこと。ただ、それらが全て、少子化と大学「改革」の前にほとんど無に帰した、というのが、〈いま・ここ〉の状況の総論です。

 別に難しいこっちゃない。中学が荒れる、高校が荒廃した、と言われたのが、そのまま大学に持ち越されたと考えてもらえばいいわけです。高校全入(事実上の)が問題視されたのも今や昔話、中退からバイパススクール、大検経由での大学受験も含めて、大学もまた今や事実上の全入時代を迎えている。受験地獄、なんてのは実際、もうほんとに過去の話。望めば入れる大学はほぼ確実にある、というところまで来ています。少なくとも文科系ならば。

 九〇年代、いわゆる教養課程の解体に象徴される大学「改革」の方向というやつは、文部省的に言えば、もう偏差値によって輪切りにされ切った大学の現実をその実態に則して区分けしちまおう、ということでした。ゼニは出すけど口も思い切り出すから結果出せ、の研究中心大学(大学院大学がこれで、理科系中心)、客集めをやっていいからまともなホワイトカラー大量生産せんかい、という大学(多くの私大はこのへん)、社会人入学含めてもっと社会に貢献してくれ、大学(公開講座や「生涯教育」が看板だったりする)、大学の名前はやるから中身はもっと専門学校か職業訓練校にしてくれ、大学(福祉や看護、資格取得がウリですな)、てなところにきっちり分割統治しようというのがそのココロ。少子化が少なくなるパイをこういう芸風の違いで取り合うのが、いまどきの大学ビジネスの現実であります。

 学生の側も当然変わってくる。これまでならば、文科系で名前の通った偏差値の高い大学の経済学部や法学部あたりにもぐりこめば、何とか大企業かそれに準じた就職はあったのが、とてもそういう状況じゃなくなってくる。「レジャーランド」なんて言われてたのは過去のこと、今や具体的な「実利」や「見返り」がない大学は見向きもされません。何か資格がとれる、就職に確実につながるものがある、そんな保証がないことには、親もまた学生自身も、黙って学費を出すわけもない。ただのブランドとしての有名大学の卒業証書にゼニ出す時代じゃなくなった、ってことです。

 

 

 で、それは基本的に風通しがよくなったんだと、あたしゃ思う。「栄華の巷、低く見て」的な極楽とんぼな特権野郎ばかり、遊民意識の「大学」なんざ、もういらない、って言われてるわけで、これはこれでほんとにいいことだなあ、と。価格に対するバリューがないと教育というサービスだって商品にならない――いまどきの市場動向の基本中の基本であります。

 ただ、モンダイはある。文科系が総じて「役立たず」、いくらかマシと思われていた経済関係の学部でさえも、「経済」ってだけじゃもう客が呼べなくなってて、不動産だの投資だのと株屋の手先みたいな講義がないことには魅力がない、ましてブンガク部系の学部なんざきっちりフリーター予備軍養成所なわけで、かつてならそれでも勘違い含めたエリート意識で支えられなくはなかったところが、今やそれもペシャンコ。ヘンな言い方ですが、「大学」にいるってことの士気がまるで低下しちまってるってわけです。

 特に、偏差値バブルで一瞬イメージだけはアップしたあたりの、具体的に言えば偏差値50代から40代後半あたりの一群の私大なんかが一番被害を被ってますな。渋谷で携帯売ってるようなアンちゃん、風俗でも採用断られるような野放しネエちゃんが「学生」として構内を闊歩する。講義ったって、どだい活字のテキストをちゃんと読むことができない、一時間もじっとそこに座って人の話に耳傾けられもしない、じゃ、何をどう教えるってのか、ドライバーも備わってないのにどんなソフトだってインストールできるわけがありません。

 これは、それまでさまざまな勘違い(イデオロギー、とも言う)で守られてきた「大学」という空間自体が、今や最終的にそれこそ渋谷や池袋と地続き、質的に全く等価な空間になった、ということに他ならない。だから、巷を歩いているようなフツーの手合いも平然と入り込んできて(文科系、とはそういうフツーの受け皿です)、しかも「学生」としてのアドバンテージだけは主張する、と。別に暴力沙汰で「荒れる」わけじゃなくても、こりゃもう十分に荒廃一途、これまでのような「大学」の枠組みで語ろうとするのはどう考えてもムリ、ってもんです。

 専門学校も職業訓練校も就職予備校も、ジジババも現役社会人も含めたゆるいカルチュアセンターも、全てとにかく「大学」と呼ぶ――このことを文部省ははっきりと国民に宣言すべきであります。そして「学生」とは、少なくとも文科系の学生とは、そういう意味での「大学」の最も主要なお客さんである、と。そして「研究」とは、理科系およびそれに準じた産学複合が期待できる分野に限ってのものである、と。

 あわててビジネス英会話だのボランティアだのの講座を泥縄でこさえて、NOVAや「市民」系自主講座以下のラインナップにしちまうのが関の山の、いまどきの文科系「大学」の「改革」などは、世間そのものにまで平準化した「学生」の側から即座に食いつくされちまう。同じゼニ出すならもっとお客さんとしてきっちり扱う装置は世の中、いくらでもあるし、またそのことを「学生」は身体で思い知っている。そんな状況でなお、文科系的な脈絡での「教養」を説こうとすることは、何やら文明開化の世になおチョンマゲを切ろうとせず、電線の下を扇をかざして通ったという、かつてのサムライたちにも似たものになっているような気がします。