書評・小野俊太郎『人間になるための芸術と技術――ヒューマニティーズからのアプローチ』

 副題とは言え、このご時世になお真正面から「ヒューマニティーズ」ときた。その心意気にまず、素朴に敬意を表しておく。と同時に、そのことのいかんともしがたい限界もまた。心意気が伝わるからこそ、〈いま・ここ〉におけるその限界のはらむやりきれなさもまた格別。というわけで、「文科系」「人文学」な「教養」の現在を、そのやりきれなさにおいて屈折しながら伝えてくれる一冊になっている。

 筆者の肩書きも文芸評論家。どこぞの大学で教えてもいるようだがそのへんはオブラートにくるんでの名乗りは美意識か。専門はおそらく英文学系、とは言えそこは1959年生まれという世代性、ぶっちゃけ偏差値世代のど真ん中でかつてのポストモダン狂乱にさらされ、ついでポスコロ、カルスタ、9.11まで同時代にくぐりつつ、いまや大学進学率が平然と50%を超えるこの新世紀ニッポンの「人文系」を何の因果か現場で生きざるを得ないめぐりあわせになってしまった知性の、来歴含めた現在の心境とある種の覚悟とが、良くも悪くも透けて見える。そこにどのように、どの程度共感するか、できるかが、この本を本当に必要とする読者か否かを無残に切り分けるのだろう。

 文科系の本願たる“役立たず”に開き直ってもすでに格好がつかず、と言って「教養」をいまいちど権威づけようとしても信心は宿らず、の現在の状況で、それでも「批評」に何らかの“力”を託そうとしてみせるあたりはブンガクの面目躍如。海外の新しい仕事に眼を配り、ウェブ環境の伸張を共に生きつつ考えてきたおのが足跡も誠実に振り返り、というだけならこれはお行儀よしな賢い学者の身振りだが、なぜか加えて大言壮語でない「人文系」「人文学」の効能を説得しようとするのだから、そりゃいらぬ屈託も深まろうというもの。ネット環境が整えられてゆく過程で「文科系」でしかないことの困難を身をもってしのいでこざるを得なかったからこその過剰さ、ある種のパトスがうかがえて、その“一歩踏み出してしまう”気配ひとつでまず、同時代の書き手として信頼していい。

 思えば前世紀末、「教養」が一時、巻き返しをはかった時期があった。東大は駒場の文科系教員たちが教養部再編で追い詰められヤケクソでぶちあげた『知の技法』ブーム以下、有象無象ひっくるめて文科系の「教養」の再興をあらゆる手立てで説こうとする言説というのは、バブル崩壊直後の90年代半ばあたり、ある流れとして出てきていた。その程度にまだ「教養」への信心は残り香くらいは漂っていた状況だった。いずれ真摯な試みだったのは確かだが、しかし、それらのテキストをいま読み直してみると、背後に横たわる「知」の状況そのものに当時、起こっていたただごとでない地すべり具合が、いまだからこそ逆に浮かび上がってきたりする。

 その後、それら「教養」復興の流れは世紀末から新世紀の疾風怒濤に埋もれてゆき、就職に直結しない文科系は解体一途、さらにいまや「戦後」の終焉と共におとずれた民主・鳩山不況、いや恐慌で、大学間格差どころか、専門学校との境界線すらなしくずしにあいまいになってゆく混沌の中に、わがニッポンの大学自体が沈んでゆきつつある。少し前までなら決して同じ教室に居合わせなかったような雑多な「格差」が平然と横並びに詰め込まれ、学力と人格、知的好奇心と自意識のつながり具合すらこれまでの常識では測れなくなっている現状。「知性」のありようそのものがどのように変貌しつつあるのか、全力で見据えながら、それでも次の一手を具体的に繰り出してゆかねばならない立場に居合わせてしまった難儀。ものを考える立場、とはいまやそんな難儀を生きねばならない役回りのことだ――一見、端正に見えなくもない言説の向こう側に、そんな主体の覚悟が頑固にたたずんでいる。

 政治も思想も、歴史も経済も、いまやそんな難儀と無縁ではない。「ゆとり教育」を推進してきた文科省以下、それら政策立案に関わってきた政治家、学者、有識者その他もろもろのエラい方面は言うに及ばず、この忙しいのになお、保守だリベラルだ、と論壇沙汰の近視眼しかなくなっているあんな人やこんなセンセイにも、ぜひ手にとってもらいたい。