歴史教科書問題、って……

 すまぬ、ちみっと息切れしてた。監修(弾除け、とも言う)を引き受けていた『別冊宝島Real/腐っても「文学」?!』の最後の仕上げやら、その他、書き下ろしやらがたてこんでたもんで、ここのコラムの更新が滞っちまってたい。ひとまず、ご贔屓のみなさまにはおわびいたしますです。いや、申し訳ない。また馬力かけて書き倒すのでおつきあいをお願いします。

 気がつきゃあなた、「あたらしい歴史教科書をつくる会」の教科書ができてるじゃないのよ。でもって、どこも書店じゃ結構目立つところに積まれてて、またそれなりにはけている様子。まあ、ここ数年あれだけ物議を醸した一件だけに、関連本っつ〜か、この歴史教科書がらみの追随企画も山ほどあって、その点数はかの小泉首相関連本には及ばないものの、石原都知事関連本あたりとは十分わたりあえるくらいにまでなっているようだ。

 歴史とナショナリズムが二十世紀最後の十年、ニッポンの思想・言論界隈での大きな争点になってくる、と、畏友浅羽通明と見解が一致したのが、確か八八年の春。エラいなあ、あたしたちって(笑)。問題はそのエラさが、商売となかなか結びつけられないところなのだが。

 歴史とナショナリズム、なんて言うと堅苦しい。砕いちまおう。つまりは「あたしらが生きているこのニッポンって結局、何?」ってことだ。で、それが、多くの同胞にとってようやく切実さをもって感じられるようになった、ってことだ。で、その一番わかりやすい局面が「歴史」だった、と。九〇年代後半、一気に展開した歴史教科書問題(発端は「従軍慰安婦」問題だったわけだが)が、それまでの経緯とはまた別の大きな広がりを獲得していったのは、そのような状況が背景にある。 

 そりゃあ、歴史認識をどうこうってのは戦後、何度も問題になってきたわけだし、冷戦構造バリバリの頃なら、その手の論争は「保守・反動」アイテムの定番でもあった。ただ、ここのところの歴史教科書問題というやつは、問題の組み立てはそれらの流れの上にあるとしても、それらをめぐる状況も、その中にある国民の意識のありようも、とにかくまるで変わっちまってる、そのことをどれだけ敏感に感じとれているかどうか、が、それぞれの論者の立ち位置の違いにあからさまに出ていることが、最も注目しておく点だろう。

 なんかもう忘れられてるみたいだけど、あたしゃこの「つくる会」に首突っ込んで、事務局長までやってたくらいのバカでありますから、この会がとにかく教科書を実際にこさえてみせたことについては、ほんとに喜んでいる。だってさ、今だから白状するけど、少なくともあたしがあそこにいた頃は、ほんとに教科書ができると思える状態じゃなかったぞ(笑)。

 で、まあ、できた、と。それはめでたい、でいいのだが、さて、ならばその中味はどんなものなのよ、というのが今、野次馬含めた世間の「良き観客」の素朴な問いだろう。

 ひとわたり眺めてみたところの印象は、なんだほんとに教科書じゃん、というところだ。いや、記述の中味よりも見てくれとかそういう部分も含めて、なんだけど。さすがに検定通すためにはこういう「教科書」フォーマットに乗らなきゃいけないってことなんだなあ、と改めて痛感。その他これまでの教科書と比べても、拍子抜けするくらいに印象は変わらないのだ。べストセラーになったパイロット版『国民の歴史』の方は、なにせあの分厚さで、西尾幹二という馬力オヤジの執念の結実、って感じだったから、あのイメージで期待する向きは拍子抜けするだろう。

 中味については誤植その他含めて、かなりアラがある。そこをツッコむ手合いは山ほどいるだろうが、ただ、この教科書問題についてはそういう「事実」至上主義で重箱の隅つつくだけじゃ何も本質的な議論にならない。それよか、依って立つ歴史観でケンカするのが本筋だろう。というわけで、その歴史観なんだけど、いや、ほんとにこの「つくる会」の歴史教科書、ものの見事に世界史の文脈が薄いんだよねえ。あたしが眺めた限り、まず最も目についたのはその点。もちろんある程度確信犯でやってるんだろうけど。

 そのあたり含めて、次回もう少しこの問題、考えてみます。あ、公民教科書の方もね。