「丸さん」のこと

 佐倉の歴博にいた頃、共同研究に加わってもらってました。もとは、北九州大に勤め始めた重信氏が「九州でオモシロい人がいる」というので、紹介してもらったのが最初だったかと。福岡市博の福間氏なども含めて、地元の若い民俗学者歴史学者その他を従えて「遊んで」いたサークルに、東京から赴任した重信氏が加わって、その縁でこちらにも、という経緯だったかと。

 その共同研究会でも、「丸さん」は異彩を放ってましたね。近代史の人なんかも混じってたんですが、そのいかにも民俗学的な博学多識ぶりに舌を巻いてました。野本京子さんという、あたしの東京外大時代の同僚で今も外語にいますが、丸さん、彼女と特に仲良しになってましたね。あと、今は阪大にいる川村邦光さん。彼もはずれ者の民俗学的知性ですが、実にいい眼で丸さんの暴れっぷりを眺めていました。

 九州でも研究会をやったんですが、そういう時でも「遠足」と称して、地元の唐津にみんなを呼んで、ああだこうだ言いながら遊ばせてくれるんですよ。で、独り身だったこともあるんでしょうけど、そういう「遠足」を何より楽しみにしてくれて、ほんとに全力で接待これ努めてくれるんです。釣り船を出して、得意の釣りを手ほどきしてくれながら、夜は釣った魚でささやかな宴会をして、そんな中でほんとにとりとめない雑談をやりながら、「地元」の手ざわりを教えてくれる、そんないい経験をさせてもらいました。

 その研究会には、ルポライターの朝倉喬司さんも混じってくれてたんですが、朝倉さんとはほんとに意気投合してましたね。世代が近かったたこともあるんでしょうが、酔っぱらってふたりで延々歌合戦になって、朝倉さんは十八番の「犬殺しの歌」から大正期の「童謡」系も含めたラインナップ、丸さんは丸さんで昭和歌謡から軍歌から、はたまた九州なまりの猥歌の類まで次々繰り出し、なんかもう、はたで聴いてる方は日本近代常民歌謡史の棚卸しにつきあってるようなもので、いや、改めてぜいたくな時間でした。

 丸さんの仕事の学問的な評価については、もっと適切な人がいると思います。ただ、あたしとしてひとつ、気になっているのは、在野で、独り身で、という民俗学的知性の系譜、というのがあるなあ、ということです。これは、民間学としての日本の民俗学のあり方と根深くからんだ問題でもあります。「丸さん」もまさにそういう系譜にある知性、でしたね。かつて、あたしとその仲間たちが「発見」した赤松啓介翁もそうでしたし、また、当時同じくよくつきあわせてもらっていた芝正夫さん(「福子の伝承」などで最近また評価されてるようですが)もそう。いや、他でもない仲間うちの小川徹太郎(これも最近、一部で評価されてるようです)だって基本的にそういう系譜にある知性でした。多くは孤独のまま夭折、死後に「発見」されて「評価」される、というパターンもおおむね共通しています、良くも悪くも。思えば、芝さんも小川徹ちゃんも、「丸さん」も、みんな50歳前後で亡くなっています。

 唐津のあのあばら家で、小さな風呂に浸かって歌を唸ってる丸さんの姿が思い出されます。「無法松」みたいな孤独、だったんですよね、思えば。何か言いたいことがあっても、ぐっと黙って大きな眼でじっと相手を見つめている。ああいう内面の表現の仕方は、おそらく「九州男児」のフォーマットのひとつではあるんでしょうけど、なんというか、あたし自身としてもなつかしさを覚えるものでしたね。

 民俗学的知性と「無法松」の孤独――これまであまり気づかれていない日本近代の知性のあり方の系譜の、あるマイルストーンとして「丸さん」の記憶を次の時代につないでゆく責任が少しはあるんだな、と思っています。