「こち亀」終了に寄せて


 通称「こち亀」。この短く端折った呼ばれ方こそが、今様読み物文芸としてのニッポンマンガの栄光である。

 人気マンガ作品がこのように略して呼びならわされるようになったのは、概ね80年代末から90年代にかけて。『少年ジャンプ』の600万部以下、週刊誌でのマンガ商品がそのようなとんでもないオーダーで流通し消費されるようになった戦後ニッポンマンガの黄金時代。そういう当時の情報環境があって初めて、「スラダン」「ゴー宣」その他、人気を博したマンガ作品にこのような呼び方があたりまえにされるようになっていた。連載開始以来今年で40年、ということは当時でもすでに20年ほどたっていた、そしてその間必ずしも第一線の人気を維持し続けていたとは言えない作品が「こち亀」と呼ばれるようになったのも、毎週の人気投票で生き残りが決められる最も苛烈な『少年ジャンプ』という場でその時期まで、そしてその後も今日まで、しぶとく粘りに粘って生き残っていたからに他ならない。まずはこのことを、あの両さん以下「こち亀」世界の住人たち、そして作者の秋本治さんのために喜びたい。

 とは言え、すでにこの「こち亀」の終了をめぐっては専門家含めていろんな方がそれぞれの視点でコメントしている。ここでいまさら屋上屋を架すのも野暮、ということで一点だけ。「こち亀」はいま、この時期に自ら幕を閉じてみせることで、マンガが正しく「通俗」であることに改めて思い至らせてくれた、このことをちょっと述べておきたい。

 足かけ十数年、のべ140本以上のマンガ作品を取り上げてきたテレビ番組『BSマンガ夜話』でも、「こち亀」は扱っていない。何度か候補にあがってはいたけれども、結局流れたのは、分量が多くて出演者がきちんと読み込むのが大変という物理的な制約と共に、やはりどこかで「連載」もの、殊にこのような長期連載となったある種国民的規模での「おはなし」が必然的に帯びざるを得ないある種の通俗性に対して、敬して遠ざける意識がどこかで働いていたのかも知れない。そう言えば、「サザエさん」も取り上げていなかった。「ドラえもん」や「ゴルゴ13」は頑張って取り上げたのだけれども。

 「連載」という形式での「おはなし」というのは、何も活字やそれに類する紙に印刷された媒体に限らず、寄席その他の生身の上演や口演における続きものなども含めて、どうやらわれらの社会にある時期以降、宿ってきたものだった。新聞や雑誌には連載小説があったし、それらは売り上げを左右する重要なコンテンツでもあった。NHKの「朝ドラ」が未だに「連続テレビ小説」と称していることを思い起こしてもらってもいい。それまで月刊だった子ども向け雑誌が週刊になり、活字主体の読み物など他のコンテンツと並べられていたマンガが独立した専門誌になっていったのは高度経済成長の始まる頃。ラジオもまた、戦前はともかく戦後はそれら続きものを主な武器にしてきたし、新しいメディアのテレビもまたその習い性に従った。新たな情報環境に宿る「連載」「続きもの」の「おはなし」は、そのようなわれらの日常、日々の暮らしのあたりまえになってゆき、それらを介して浸透してゆく価値観や世界観、素朴な道徳や世を生きてゆく上での約束ごとといったものもまた、わざわざそうと意識せずともある種の「教養」として人々に共有されるようになっていった。それはわれらの社会における「意識されざる公教育」でもあったのだ。

 そのように「連載」「続きもの」としての「おはなし」をそれこそまるで空気のように、自然にあたりまえに呼吸する/できる環境にわれわれは生まれ、育ってきたらしい。週刊誌のマンガ専門媒体が複数林立し、それらが最盛期には数百万部規模での市場を獲得、当然読み手もまたそのオーダーで編成されていった社会、そして時代というのがすでにあった。そのことの意味やとんでもなさについて、おそらく当のわれら日本人自身が未だよく思い至っていない。「サブカルチャー」などという目新し気なもの言いでひとくくりにして事足れりという考えなしが昨今、また事態をさらに不透明にしてゆき、同情薄い「分析」「解釈」「批評」のひからびたことばの手癖だけが得意げにそれらを後押ししてゆく。

 けれども、確かなことがある。今回の「こち亀」終了をめぐって、メディアの舞台の外で、さまざまな人たちがさまざまにその「想い」を語っている。もちろん単行本を全部揃えているという人は少ないだろう。けれども、人生のある時期「こち亀」と出会ってそのことから何かを受け止めていっただろう、国民的規模での「意識されざる公教育」の果実は、全て見通すことはできずとも、間違いなくこの時代の眼前にある。40年という年月、単行本にしてのべ200巻という規模の「おはなし」の集積は、おそらく「研究」や「批評」「評論」の土俵に正当に乗せられるまでにはまだしばらくかかるだろう。だが、そんなことはどうでもいい。マンガは昔も今も、正しく「通俗」であり、「通俗」であるがゆえの〈リアル〉を静かに宿しながら眼前にたたずんでいる。「こち亀」がいま、自ら幕引きすることで思い至らせてくれたそのことは、あらゆる知的なことばやもの言いが軒並み煮崩れ、信頼を失いつつあるかに見える〈いま・ここ〉の日本語環境において、それらのことばの失地回復を志す立場にとっての福音にもなるはずだ。