ナンシー関、という「まっとう」

 電話をかけると「はい、関です」って、くぐもった声で出るんですよね。そりゃ確かに「関」だけど。何度かけてもそれ聞くと笑っちゃう。でも、「ナンシーです」って出られてもそれもまた困るんですけど。

 先日、急逝したナンシー関のことです。

 「消しゴム版画家」という肩書きを好んで使ってましたが、自分の「作品」については、ありがちなアーティスト的な愛着とかはなかったようです。テレビ番組のためにこれまでの「作品」撮らせてもらった時でも、引っ張り出してきたのを見たら、なんか段ボールみたいなのに彫った消しゴムが山ほど詰まってるだけ。少しは整理してないのかよ、って尋ねたら、だって偉そうなこと言ったってしょせん消しゴムじゃないすか、だって。

 けれども、その「しょせん消しゴム」を武器にして、高度情報社会の中でうっかりと自意識をふくれあがらせたり、勘違い垂れ流しになってしまったり、といった物件について、彼女はいつも敏感に反応していました。といって、ただの悪口ではなくて、言葉本来の意味での「批評」に昇華させてゆくスキルも十分に持っていた。テレビにかじりついているひきこもりのおたく、的なイメージがあったようですが、それはちょっと違う。

 バブル期にとんでもない値段だったのを三分の一以下に下落したんで手に入れた、という目黒のマンションに、ほんとにドラマに出てくるような広いマンションに、仕事頼むついでに遊びに行ったことがあるんですけど、お気に入りという輸入もののでっかい赤いカウチがあって、でも、テレビはつけっぱなしにはしていても、かじりついて凝視する、っていうのとは違ってた。テレビの中に成り立っている場の空気や、それを成り立たせている関係のありようを瞬時に見抜いてしまうという、ある種良質の演芸評論家みたいな才能だったと思います。中国茶なんか煎れてもらってだべったんですけど、そういう時の物腰ってほんとに田舎のおかあちゃんみたいでね。親戚にひとりいたらそこらのガキはみんなまっとうに育つだろう、って感じ。不思議でしたね。どうひいき目に見ても「おたく」系の見てくれとキャラなんだけど、そのことと「まっとう」が平然と両立してる。

 おそらくそれは、いろんなものに対する「前向きなあきらめ」が厳然とあったんだろう、と。彼女が彼女になったその第一歩のところから、そういう「あきらめ」が刷り込まれていて、その分、彼女は圧倒的に「まっとう」であることを獲得できたんだろう、と。そのバランスシートが彼女にとって幸せなものだったかそうでなかったかは、それこそ彼女自身が判断するべきことだったでしょうけど、でも、あたしたち同時代の人間にとっちゃ、ものすごくありがたいことだったと思います。

 80年代出自の価値相対主義思想の最良の部分が死んだ――あたしゃあちこちでそう書きました。価値相対主義というのは、高度経済成長の「豊かさ」をあたり前のものとして生まれ育った世代が半ば必然的に獲得したものの見方、考え方、でした。「豊かさ」によって与えられたカネとヒマとを存分に使って、世間に出てゆかなくてもいい、大人じゃなくても構わないという期間をどんどん先延ばしに長くしてゆき、身のまわりのできごとから常に一歩引いてシニカルに眺める性癖を肥大させていった。何のことはない、「青春」という執行猶予が「豊かさ」を人質に無期延長されたと勘違いしたようなもので、またそれを「ポストモダン」などと浮かれて正当化する手合いが、我が世の春を謳歌していた。思えば、意味なく脳天気に明るく、そして根拠なくけったくそ悪い時代でした。

 それは間違いなく時代の気分、ってやつでした。けれども、その気分にうっかり染まった連中の中には、いつまでも現実に身体張って直面することを先送りしてゆくためのヘタレな言い訳と可愛げのない揚げ足取りだけうまくなり、未だに〈そこから先〉、身の丈の「自分」の足場をこさえることなんて考えないまま、もはや中年にさしかかっているバカもまだゴロゴロしている。いや、「夢を追いかける」などと言いながら際限なく自分を甘やかせるばかりのビョーキはいつの時代も「若者」の持病のようなものだとしても、今度はそれを無責任に煽るような真似を、この中年たちは平然とやったりしている。

 ナンシーのあの「まっとうさ」は、そんな「豊かさ」を存分に呼吸した者にとっての「大人」の輪郭とはどのようなものになり得るのか、その可能性を示してくれていたと思います。その気になればいくらでも自分を甘やかしたままでいられる、そのための材料だっていくらでも手に入れられるようになったこの高度情報社会とやらで、「まっとう」であり続けるためにどういうココロさばきが必要なのか。彼女の残した仕事は、そのための役に立つテキストになるはずです。

 嘘だと思うなら、たとえばナンシーが『毎日小学生新聞』に書いた「大人だってそれほどちゃんとしてない」という小品なんかどうぞ。こういうことをこういう風に子どもに言える「大人」のありように、きっとカンドーしますよ。