横田増生『評伝ナンシー関』

 先に死んじまったんだから、何書かれてもしょうがないっすね――そんなことを言ってそうな気がする。いつものように、軽く憮然としたあの顔つきで。

 急逝して10年、「評伝」と銘打ってはあるがさて、果たしてそう呼ぶべきか。手にとる読者、彼女と同時代を生きた者ならば、これを定着された完成形としてでなく、それぞれの見聞、体験を場面ごと、挿話ごとに補完しながらきっと読むはず。そして、おそらくそういう読まれ方が無数に介在することで、この一冊は初めて十全な評伝につむぎ直されてゆく。その意味で、これはいわゆる「評伝」ではない。ないから、いいのだ。

 そうやって描き出されるだろうナンシー関は、ほどよい具合にこなれている。誤解を怖れずに言えば、うまく通俗化している。晩年、週刊誌メディアを軒並み制覇したかに見えた時期の、最も膨らんだ範囲での彼女のファン、読み手の最大公約数からしておそらく最も違和感のないナンシー関が紙の上、活字の間尺でまずはうまく結像している。穏和で調和的、なのだ。書き手が控えめで輪郭が見えにくいのも、ここでは幸いしている。

 五章立てだが、彼女が彼女になってゆくまで、の二章、三章がやはりいい。家族はもとより、青森時代の同級生や友達、当時メディアの底辺でうごめいていた連中にとっての「関直美」が、微笑ましくもまぶしい。林真理子にあこがれていたらしいこと、地方出身の、それでいながら音楽やファッション雑誌、いずれサブカル領域にうっかり関心を持っちまった、それでも生身の自分自身についてはこれっぽっちも人並みの自信など持てなかったようなオンナのコ(とここは言わせてくれ、頼む)が、あの未だ世の中あらかた呑気でうわついていられた「昭和」の晩年、自前で自力で、東京はくそったれなギョーカイ労働の末端からどのように何とか「一人前」になっていったのか。そう、世間並みには見えない汗と涙と目方と心意気とで期せずして描かれた、もうひとつの『東京ガールズブラボー』だったりするらしいんだ、これは。

 可能性の相において読むなら、たとえば編集者やデザイナー、その他彼女の仕事仲間との関係について、とりわけ同性同時代の無意識含めた微妙なソリダリティについてなど、もっと果敢にダイブしてゆくとまた違ったナンシー関とその時代も見えてくるはず。だが、それは生きながらえちまってるこちとら読み手がこの先、背負えばいい仕事。まずはいい手向け、世間並みの供養になったってことでナンシー、以て瞑すべし。この盆あたり、いっちょ娑婆に顔出しに来てくれるなら、なおうれしい。