サイバラはブンガク、か?

ユリイカ』編集部からメイル。かなりびっくり(笑)

原稿依頼なんで、まあ、それはそれ、なんですが……その内容がこんなの。

ユリイカ』7月号特集企画書(06/4/21)

特集*西原理恵子――うつくしいのはらを目指して

締切=5月25日 発売=6月25日

マンガ家として20年のキャリアにあって、どの作品も古びることなく売れ続ける。『まあじゃんほうろうき』『恨ミシュラン』『できるかな』などの〈激突系〉の印象が先行しがちだが、その言葉の感動の深さ、シンプルな絵の持つ表情の豊かさが際立つ〈エッセイマンガ〉こそが、西原理恵子の真骨頂である。

「文学がすくいきれぬものを表現しきった」と、関川夏央が西原の作品(『ゆんぼくん』)を評したのは13年前のこと。それ以前もそれからも、西原だけがひとり、文学ではすくえぬ何かをすくい上げ続けている。

『ゆんぼくん』は、「大の男が、かあちゃんに会いたくて泣くのは変じゃないよ」と結ばれて、『ぼくんち』は「じいちゃん、ぼく知ってんで。こういうときは笑うんや」と、生まれ育った町を離れて、幕を閉じる。『毎日かあさん』の母さんも、いずれ子供たちが離れていくことを見越している――まず、たったひとりになること。この傑作群がどれだけの読者の背中を押したことだろう? 自分らしく生きるように、自分の手と足で生きる覚悟をするように。そして05年末、「うつくしいのはら」「朝日のあたる家」で、心の芯から言葉を希求する人の姿を描ききって――アジアのどこかの国の少女も兵隊も、「言葉をたくさんおぼえて、商売ができるようになって、配給を受けずに済む生活」をついに得ることはできなかった――また私たちを涙させた。しかし、涙するよりほかない、と置いておくわけにはいかないのだ。詩と批評の雑誌『ユリイカ』が、この作家の持つ深い表現を言葉で解き明かす。

目次案(交渉中。題名のようなものはダミーです)

■書き下ろし

西原理恵子           西原のユリイカ? 我発見せり!

■龍虎対談

西原理恵子×岩井志麻子     怖いものは何ですか?――貧乏?死?人の心?

■あたらしい文学・サイバラ

高山宏             人より早く大人にならざるを得ない子供たちへ

鹿島茂             路地の子供――二太とチビ太

大月隆寛            どこで、どこまで腹を括るか

小倉千加子           バラっち女道――かあさんになるまで

豊崎由美            元ヤン・レトリック――パンチの効いた日本語を

ぱくきょんみ          いつか手を離す、その瞬間を見据えて

■人生はとまらない列車

小野正嗣            サイバラ貧困文学――海に山に路地に

萱野稔人            日の当たる海で育つ、西原社会学

金田淳子            改革者サイバラ――彼女が確かに壊してきたもの

伏見憲明            男の友達をつくるには?――西原式脱・女の子

ヤマダトモコ          サイバラは絵がヘタか?――巧みな線描とネームと

■地に足をつける

新田啓子            サイバラはラップだ――高知とサウス・ブロンクス

太田晋             サイバー・ビンボー・スペース文学

稲葉振一郎           横田くんとこういち君――西原が描く男たち

水越真紀            わたしたちはまだ、昭和にいる

宇城輝人            西原の見る日本――体で知る貧乏、頭で考える貧乏

ECD              「ゆんぼ」はショベルカーの名前――おれんちの話

■アンケート

バラっちのここが好き      宮崎学清水義範、高須克也、ゲッツ板谷末井昭

■資料                  

市川真人=編          西原理恵子主要作品解題

*1

ああ、やっぱりこういう具合の勘違いというか、

「ブンガク」界隈のダマされ具合、ってあるよなあ、

という、なんというか、憮然としてしまいました。

たとえば岡崎京子、たとえばナンシー関、たとえば松本大洋

そして他でもない、このサイバラ、と、

まあ、どいつもこいつも揃いも揃ってどうしてまあ、

こんなにわかりやすくコロンコロンダマされるんだろ、と。

「ブンガク」フィルターでマンガ(に限りませんが)を

見てしまう、そういう習い性そのものをカッコにまずくくらないと、

今のこの状況では、どんなものも見えてこないと思います。

サイバラをうっかり「ブンガク」と言ってしまう、

そういうあなたたち自身のココロのくらがりを明るみに

出そうとしない限り、サイバラはまず安泰でしょうね。

そして、それはサイバラにとっていいことではない、と

ずっとあたしは思っています。

地方競馬のビンボ馬主などやっている関係で、

高知競馬にもウマを置いているので、サイバラの生地の

浦戸界隈(もとの高知競馬場の近くです)にも土地カンというか、

なじみはあるんですが、あのへんの空気を肌で知って読むと、

ぼくんち』の手ざわりも「ブンガク」界隈の読み方とは、

おそらくまるで違ったものになるはず、です。

民俗学者として、〈いま・ここ〉の〈リアル〉とは何か、ということを

ずっと求めてきたつもりですし、その意味でサイバラの描くものも、

いまどきの情報環境における「民俗誌」「エスノグラフィー」と

言うこともはばかりませんが、そういう「読み」と、その「ブンガク」

フィルターの不自由とは、永遠になじまないままのように思えます。

ブンガクの人、フェミの人、リベラルの人……そのへんがサイバラ

読んでスルーしてしまう部分こそが、いちばん大切なんだろう、と。

かつて、民俗学的〈リアル〉に端を発した

土佐源氏」や「日本残酷物語」にインテリたちが

コロンコロンダマされたのと同じ構造は、しぶとく活きています。

ぼくんち」を異様にホメる風潮には、そういう意味で、

なんだかなあ、と思っているあたしがいます。

あたし的には、サイバラというのは、

かつての林芙美子と重なるんですよね、良くも悪くも。

「放浪記」をサイバラに描かせろ、とは昔から言ってることですが、

でも、林芙美子ってのは吉屋信子とか、同時代の「女流」に

どれだけエゲつない仕打ちをしてのしあがっていったか、なども

同時に考えないとわからないわけで。

こういうものをこういう具合に描けば、

「ブンガク」に「評価」されることを、サイバラは知っています。

おそらく直感的に。

でも、それは絶対に彼女自身、表沙汰にしない部分でしょうし、

またする必要もない。

心萎えるのは、そういう部分に反応しない、できないような

「バカ」(正しくそう発音します)ばかりが、いまどきの「ブンガク」

界隈には佃煮になっている、そのことです。

そう言えば、ナンシー関サイバラについて、

思えばビミョーな評価をしていました。

少なくとも彼女は、そういう「ブンガク」に代表されるような

枠組みに「評価」されるサイバラのありようについては、

決して快く感じていなかったのは確かです。

同時に、そういう具合に快く感じていない自分を素直に

認めたくないナンシー、というのもあったわけですが。

このへんのことはしちめんどくさく、ややこしく、

かつまた、長くなるので、また改めて。

*1:いくらなんでもあんまりなんで、応諾の返事ついでにこんなことをつい……