益田競馬場、最期の日

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 「次の仕事? そんなの決まっとらんよ。家もあるし、よそには動けんしね。どうなるかわからん」

 世良澄衛騎手は、そう言って首を横に振りました。
 
 今年で五二歳。ここ島根県益田競馬場の所属騎手では最高齢。いや、全国の地方競馬の騎手の中でも現役一、二の大ベテランです。かつて「スッポンの世良」と呼ばれて地元ファンに長年愛されてきた職人ジョッキーも、この日の最終レースが生涯最後の騎乗。「勝ち負け? ないない。馬がもうそんな元気ないから」と言い残し、冷水器の水を茶碗でぐいっ、とあおって、かんかん照りのパドックへ出てゆきました。

 8月16日、島根県益田市益田競馬場。「日本一小さな競馬場」と呼ばれたここも、この日を最後に半世紀近くの歴史に幕を閉じました。昨年来、大分県中津競馬、新潟県営新潟競馬と立て続けに廃止の続く地方競馬。またひとつ、その灯が消えた。

 最後の競馬となったこの日、皮肉なことに益田競馬史上最高の入場者数が記録されていました。その数、約4,500人あまり。なんだそれだけかよ、と言わないで下さい。狭い場内はごったがえして、まるで縁日の参道みたいな状態だったんですから。
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 地元の畜産関係の団体が提供した石見牛のバーベキューもあっという間に品切れ。同じく、先着何百名かに引換券が配られたアイスクリームも、もちろん昼過ぎには完全になくなっていました。場内の売店や食堂も軒並みソールドアウト。自動販売機の飲み物さえもがなくなるという始末。気温35度以上。真夏の油照りが小さなスタンドをじりじりと焦がし続けます。

 「場末の競馬場や、イナカ競馬や、と言われてきたけど、ここはここで味のある難しい馬場やったんよ。そりゃあ、中央のノリヤクが乗りにきても、他の競馬場の花形が乗りにきても、そう簡単には勝てんかった」

 装鞍所の脇にある小さなベンチに腰掛けて、馬たちがそれぞれ出番を待っている脇で世良さんは、気取る風でもなくそんな話をしてくれました。小回り1,200メートルの小さな馬場でも、二コーナーあたりが少し坂になっていたりするから、慣れないことには仕掛けどころが案外難しい。武豊でも最初は仕掛けを間違えて、ああ、そんなところから行ったら最後は脚がなくなるぞ、と思うたら案の定、苦しいことになっとった。
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 世良さんの座っているあたりは日陰になっているとは言え、この日の蒸し暑さはただごとではありません。スタンドだけでなく、この装鞍所のあたりにも普段はまず見られない報道陣の姿がひしめいていて、テレビカメラを抱えたクルーまでが複数いる。「おお、今日はさすがにお客さんがいっぱいやな」と軽口を叩きながらその間を縫ってゆく調教師たちのようにかろやかにもなれない風で、世良さんはじっとそこにすわってタバコをふかしていました。
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 海の見える競馬場、というと中央の函館が有名で、それ以外だと九州の荒尾などをあげる人がいますが、なんの、この益田も実は海に近い競馬場のひとつ。山陰本線をはさんだ松林の向う側に、そう近くもないけれども日本海が望めるわけで、冬場の開催になるとそこから吹きつける北風が身を切るように冷たい。朝の調教はなおのこと。けれども、そんな土地、そんな場所で五十五年もの間、ずっと競馬をやってきている。だからそれだけもう、仕事としての競馬というやつがきっちり根づいている。世良さんだけじゃない、いずれ今日がその最後の仕事になるはずの年輩の調教師や厩務員たちの顔つき、たたずまいのそれぞれがみんな雄弁に、そのことを語ってくれています。


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 競馬がなくなる、競馬場が競馬場でなくなってしまう、そんな事態が現実に本当に起こるなんてことを、競馬場で働く人たちのほとんどは本気で考えたことなどなかったはずです。漁師が海のなくなることなど考えないように、彼らもまた、競馬がなくなるなんてことは考えの外だった。たとえ今日、手もとに十分なゼニがなくても、なあに、次の開催になればまたいくばくかの実入りは必ずある。そんな繰り返しで日々、好きな馬のそばでさまざまな願いや想いを宿しながら、それぞれの知恵と工夫とで「勝つ」ことを一心に考えてきた、そんな何十年かの人生。別にここ益田に限ったことではなくて、日本中どこの地方競馬場でも、必ずあったような暮らしのさま。それがもう、まるで平手打ちにあったかのようにいきなり途切れてしまう。

 「ここでもいい時は結構儲かったんだよ。ひと開催で四十万やそこらは稼いだ頃だってあるんだから」

 世良さんはそう言う。言って、もっとも、それは全部使ってしまったけど、と続けて、苦笑いする。わしは持ったら持っただけ使うからね。カミさんにもずいぶん怒られたけどこれはほんと治らん。

 ふう~、っと煙を吐く。間ができる。「牧場の仕事とかは?」答えはわかっているのにそう尋ねると、案の定「このトシじゃどこも雇ってくれんよ。これからハローワークに行ってみるけど」。そしてまた黙って馬房の方を見ています。
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 髪の毛をいまどきの若い衆らしく茶色に染めた若い騎手たちは、それぞれ取材の記者やカメラマンに囲まれて、そこはそれ、人気商売のこと、やはり晴れがましい顔でコメントしたりしているのですが、そんな後輩たちの姿にもあまり眼をやらず、その場のざわめきから身を離すようにして世良さんはそこに座っています。それも黙って。いそがしげに立ち回る取材陣は、そこに座っている世良さんは眼中にないらしい。

 こういうとりとめないデタッチメント、おのれの運命に直面しながらじっとたたずんでいるような寡黙さ、とでもいうようなものを、去年の夏もあたしはいくつもそばで眺めていたように思います。いきなりの「廃止」決定で揺れていた、九州は中津競馬場の厩舎まわりで、です。

 特に、ノリヤクたちは寡黙です。通算三千数百勝を誇る騎手会長の有馬騎手も言葉はほんとに少ない。そろそろ自分の身の振り方を本気で考えなければならない時期のはずなのに、でも、そんなことはひとことも口にしません。「仲間がみんなどうなるかわからないのに、自分ひとりどうしたいなんて言えない。自分のことはみんなのことがある程度見通しついてからです」と、静かに言葉を選ぶようにして話します。


 かつて、ミスタートウジンオースミダイナーもいなかった頃、入厩馬の年齢制限がまだ厳しかった時代に、南関東を振り出しに全国の地方競馬を渡り歩いたテイサウンドを十五歳まで走らせて話題になったベテラン、鋤田調教師も同じです。

「今はまだ先のことなんてとても考えられんよ。どうなるか、わたしら調教師もわからん。誰もわからん」

 「廃止」という事実だけは間違いなく、日々刻々とつきつけられてくる。

 どうしようもないこと、の前でどのような態度をとるのか、というのは、案外その人がどういう仕事をしてきたか、に規定されるのかも知れない。少なくとも、身体ひとつで何か身の丈を超える現実と対峙し続けてきたような仕事に携わってきたような人の場合、ジタバタするのでなく、饒舌にまぎらせるのでもなく、ただそこにじっとうずくまってしまうような態度になってしまうような気がします。それは、妙なたとえになりますが、ハンターに追い詰められ、自分に狙いを定めた銃口を前にした動物が時に見せる「覚悟」のありかたとも似ているように思う。あるいは、レース中に故障して競走中止した競走馬が、痛みと興奮とがひとしきりおさまった後に、ふと見せることのある表情の静謐にも。

 「ずっとこの仕事してきよったからねえ。今でも毎日こうやって馬の顔を見に来るんよ」

 地下足袋に作業ズボンという出で立ちの、とても小さなおばあさんがこう言いました。自分の担当馬はもういなくなってしまい、厩舎そのものにももう馬は二頭しか残っていない。その二頭もいずれ行く先はわかっている。「廃止」騒動真っ只中、九州・中津競馬場の厩舎の昼下がりです。

 「身体が動く間は人間、働かんといけんね。亡くなった亭主がずっと馬の仕事してたから、一緒に寝藁あげたりしてたんだけど、こうやってやることなくなってしまうのが一番いけん」

 厩舎団地の住宅にひとり住まい。郊外の耶馬渓に実家があって、ご主人のお墓もそこにあるそうですが、娘さんたちが「早くラクしなさい」と言っても、やっぱり馬のそばがいいから、と競馬場を離れなかったそうです。それほど競馬は、馬の仕事は魅力的だった。だから、トラックに横積みにされて姿を消す馬たちを見るといてもたってもいられなくなった。「積まれる方も残る方も、どっちも鳴きよるんよ。お~い、えらいことなりよるぞお、って互いに教えよるんやなかろうか、って、あたしら言いよったよ」

 中津の「廃止」がいきなり決まって大騒ぎになっていた去年の四月、益田は救いの手をさしのべていました。賞金水準からすれば、全国の競馬場でも最低を争うこの二場。その一方の中津の危機に、益田は乗り鞍のなくなった中津の騎手たちを応援騎乗を依頼した。しかも、交通費まで何とか工面して。そのことを中津の厩舎の人たちはほんとうに恩義に感じていました。「益田はほんとにそういう人情のあるところやから」と、それは有り難そうに語っていたのが耳の底に残っています。デビュー戦前日に「廃止」が決定して宙ぶらりんになり、泣きながら市長に抗議したのが地元の新聞にも報道された佐藤智久騎手も、師匠の小田部調教師に伴われて益田に遠征、そこで初勝利までプレゼントされていました。

 馬が姿を消した厩舎には、埃っぽい春の風が吹いていた。錆びた洗い場の手すりに、砂にまみれたメンコがいくつか揺れる。ここに確かに競走馬がいた、その証しだ。

「ああ、もうほんとなら今頃ここで競馬に乗ってたはずなんですけどねえ……」

 今年デビューの新人騎手、佐藤智久クンはそう嘆息した。厩舎は闘っていても、騎手たちは食わねばならない。彼は島根県の益田競馬に「出稼ぎ」に出かけていた。前日、その益田で待望の初勝利。だが、喜びに浸る間もなく中津にとんぼ返り、「正直まだ寝てたいんですけど、でもそんなこと言ってられませんからね」と、今日もまたデモの列に加わる。

 アラブのA級戦でいい馬に乗せてもらった。しかも内枠まで引いた。大きな声では言えないが、道中も地元の先輩騎手たちにビミョーに手加減してもらった。はい、勝ちました。
 おお、いいハナシじゃないか。稼業のソリダリティってのはそういうもんだ。ソリダリティ、ってなんすか? うん、「侠気」って訳すんだ。
          「棄てられる競馬場――中津競馬廃止」『Number』2001年6月

 義理だの人情だのというのは、持たざる者たちがギリギリのところで互いに何とかしようとする、言わばなけなしのつながり方です。誰もがそこそこに「持てる者」になってしまった社会では、そんなものはもう必要がなくなり、たとえ省みられるとしてもただもう標本のようになでまわされるものでしかない。

 けれども競馬場の厩舎、それも一着賞金十万円代にまで落ち込んだ地方競馬のうまやには、まだそれはかろうじて活きたものとしてありました。そのことを、あたしは知っている。
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 この日のメインは第56回日本海特別。アラブA級のハンデ戦。一着賞金も破格の75万円。2200メートルというこの異例の長距離戦が終わって、いよいよ益田競馬最後のレースは、益田競馬ラストラン特別。アラブB級の馬齢重量戦で、一着賞金は一気に下がっていつもの15万円。八頭立てのマイル戦で、馬券も競輪みたいな六枠連単。世良騎手、生涯最後のレースの相棒は一枠、3歳牝馬のヘイセイグレース。父は、スマノヒットの孝行息子にして地元名古屋では15戦無敗を誇ったヘイセイパウエル。母トウコウリュウジン、母の父トキテンリュウ(これも名古屋の強豪)という血統のアングロアラブ。六月に二回、七月に三回使って三勝。しかもここ二走は二連勝中と一見、絶好調そうなのに、世良さんのコメントは先に見たように「勝ち負け、ないない」なのは、はて? 
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 もう二度とこうやって馬たちが馬場を駆け抜けてゆくことはない。当たり前だけれども、そのことが改めて心に迫ってくる。スタンドのろくでなしたちもそれまでのお祭り気分が、いつか切ない感じを帯び始めていました。早くも掛け声さえ飛び交う中、スターターが台に登って、そしてスタート。小回り馬場ならでは、マイル戦でも二回もスタンド前を通過するうれしさが、今日はまたひとしおです。中央競馬天皇賞のように、万感を込めた拍手が通りすぎる馬群に送られる。そしてもう一周。もううまく言葉にもならない声がそこここから湧いてきて、改めての拍手と共にスタンド前を通りすぎる者たちに。

 勝ったのは若い﨏畑騎手のグリーンジョー。最後は突き放して四馬身ちぎっての快勝にガッツポーズは若武者らしいものでした。二着は岡田騎手の人気馬シュンカイテイオーで、なんと世良騎手の乗ったヘイセイグレースは、中団からまくり気味に追い上げての3着に食い込んでいました。大健闘です。
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 この最終レース終了後、騎手たちが勢ぞろいしてスタンドに挨拶するセレモニーが行われました。花束をスタンドに投げ入れるのを合図のように、ファンが馬場になだれこんで関係者入り乱れての予期せぬフィナーレに。何かをこらえるような顔の世良騎手に、後輩騎手がいたわるように「お疲れさん」と声をかけます。強い西陽に汗びっしょりの首筋が光る。陽に灼けた勝負服を場内のスピーカーから流れる「蛍の光」が追いかける。
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 若い騎手はまだ次の働き先が見つけられます。他の競馬場から声もかかる。だが、年配の者は……。まして調教師や厩務員となるとなおのこと。馬ひとすじに生きてきた競馬関係者の身の振り方は、職人であればあるほど難しい。

 益田のみならず、すでに全国区に近い実力を持つ御神本騎手もサイン攻めに合っていました。彼の身の振り方は注目されていたのですが、この日すでに大井競馬場が受け入れることを水面下で決定したらしい、という情報が流れていました。これは本当に異例のことで、主催者同士がそれまで場間場外発売などで協力関係にあったことから、強い後押しがあっての例外的措置だったようです。

 去年、中津の騎手たちも同じように次の仕事場を探すのに苦労しました。先に触れた名手、有馬騎手でさえも、園田に移籍を希望していたのですがうまくゆかず、ひとまず厩務員として一年働いてから改めて試験を受けるという形をとらざるを得ませんでした。あの有馬さんでさえも……と、うめくような声を出した騎手たちが何人もいます。地全協(地方競馬全国協会)は何してんだ、何のための免許なんだ、と息巻く調教師もいました。まだ若くて身軽な騎手は笠松や北海道に、その他多くの者は地元九州の佐賀や荒尾にそれぞれ新天地を求めて行きましたが、その後ステッキを置いた人が、女性騎手として人気のあった小田部雪騎手を始め何人か出ています。あるいは、地味ながら調教のうまさで厩舎から信頼されていたというある騎手は、希望していた大井への移籍が許されず結局、調教助手として移るしかなかった。誰のせいでもないとは言え、今年のこの御神本騎手の移籍を、彼などはどんな眼で見ていることでしょうか。

 同じ競馬の仕事、馬に関わる稼業だと言いながら、やはりこのような垣根はまだ厳然としてある。同じ地方競馬の免許であっても、キャリアや腕だけで自由に渡ってゆけるようにはなっていない。騎手だけではない、調教師も同じこと。たとえ何とか受け入れてくれたとしても、その競馬場ではやはり「よそ者」なわけで、それなりの気苦労がつきまとうのは仕方のないことだと言います。

 「それでも、競馬ができるだけでいいと思うよ。どんなに苦しくても、競馬ができんようになったら、わたしらは何の値打ちもない人間やからね。居心地が悪くても何でも、置いてもらって競馬できるんなら、それすらできない仲間たちよりもずっとまだ幸せだと思うよ」(他の競馬場に移籍したある調教師)

 これは何も地方に限ったことではない。中央競馬も含めたニッポン競馬全体を巻き込んで始まったらしい、このところのこの未曽有の大転換。次に潰れるのはどこの競馬場か。そして、人ひとりがちゃんと人生を賭けるに足る仕事としてのニッポン競馬の未来とは、果たしてどんなものになってゆくのでしょうか。
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