ゼニカネとオンナ、そして嫉妬

 よせばいいのに、と、まわりから言われるようなことに敢えて首突っ込んじまう、そんな習性があたしにはあります。「新しい歴史教科書をつくる会」の時もそうでしたし、最近じゃ、一銭にもならない某蛆虫メルマガの片棒担いで、そこら中に火ィつけて回ったり。

 騒ぎが好き? それはあります。お祭り体質? う〜ん、言い方はいろいろですが、まあ、そんなところもあるんでしょう、きっと。ないとは言えません、はい。

 でも、一番根っこにあるのは、言いたいことを言い、しゃべりたいことをしゃべる、それができないくらいならこんなめんどうな生き方してないやい、という、おのれの性分についての前向きなあきらめです。

 たとえば、世の中のできごとを解釈し、説明してゆく時の、基本的なお約束というのがあります。ゼニとオンナ、これ基本。どんなことでも、ゼニカネとオンナがらみで説明しておけば、それでひとまず何かもっともらしく見えたりするもんです。

 だって、週刊誌なんかほとんどそれでしょ。昨今、政治がらみのスキャンダルが連発で暴かれているようですけれども、あれだってほら、みんなこのゼニかオンナがらみでしょ。それは実際にそういうことが行われていたかどうか、ということとはまた別に、何かことが起こればそれに対して、とにかくゼニかオンナかで説明つけようとするメディアと世間の手癖、みたいなものがあらかじめあるからなんじゃないか、と、あたしなんざ思います。

 これを裏返せば、「おまえら、うらやましいんだろ、結局は」ってことになります。「ゼニかオンナか」モードと「うらやましいんだろ」モード。これは実に、世の中の<リアル>を支える裏表のワンセットになっています。

 だから、世のマスコミと称する連中が、いくら社会正義を追及し、隠された真実を世に伝えるんだぁ、と力んでみても、そうやって糾弾される政治家なり何なりの側からすれば、「おまえら、うらやましいんだろ」と、裏返しの<リアル>で語られておしまい。一事が万事このからくりで、人が生きてゆく上での価値観までもが、ほんとにどうしようもなく、このゼニかオンナか、という、ミもフタもない欲望前提の世界観にがんじがらめにされちまってます。

 確かにこの、ゼニカネかオンナか、の<リアル>はわかりやすい。けれども、世の中にはそれ以外の<リアル>もあり得る、ということについての想像力まで一緒くたになくしてしまうとなると、話はまた別です。

 欲望にも個別具体がある。人それぞれにそれぞれのカタチ、それぞれのありようで欲望だって立ち現れるはずですが、どうやら今のこのニッポンってのは、おのれの欲望でさえも、結局はゼニかオンナか、に収斂するような通りいっぺんのものしか持てなくなっちまってるらしい。そのことが、今のあたしみたいな野放しの場所からはよく見えます。

 だからエラい、ってわけじゃない。そんなものがうっかり見えちまう自分の性分ってやつを、引き受けてあきらめるしかない、そんな感じです。だからこの先、どんな人生が待っていても、それはそれ、そんなおのれの性分が招いた必然なわけで、そういう運命も含めて「自分」だぞ、という感覚が、今ではもうどこかにあります。

 あたしの欲望ってのは、そんなゼニでもオンナでもない、といって、昨今はびこるけったくそ悪いあの「癒し」などでも絶対にない。けっ、そんなにカンタンに癒されてたまるかよ、と、あたしの中のなけなしの「自分」ってやつは、いつもしっかり毒づいてくれます。
 ゼニとオンナの世界観の内側にいるやつらをあたしが信用できないのは、こいつらそのことを絶対に口にしないからです。ラクしてゼニ儲けて好き勝手やっておトク、という内心を隠してどんな正義を語られても、そんなもんあなた、誰が信じますか、っての。

 だから、最近議論になっているメディア規制関連法案にしても、あたしゃ、いたしかたなし、なんですね。その程度にもう、メディアは全然信頼されなくなってるし。ただ、と同時に、へっ、そんな規制があろうがなかろうが、あたしゃ言いたいこと言ってしゃべりたいことしゃべってやるぜ、というのもしっかりあるんですがね。マスコミが言うような「戦前みたいな暗黒の時代」がほんとに来るなら、なお上等。そうなってもまだ、誰もが、よせばいいのに、って言うようなことに首突っ込んでる、その自信だけは、あたしゃもうしっかり持ってます。そう、人はゼニカネやオンナ、嫉妬や羨望だけで生きてるとは限らねえ、でありますよ。