「奇跡の詩人」騒動は終わらない

f:id:king-biscuit:20210213114032j:plain

 「製造物責任」という言葉がある。企業が自ら生産したものが引き起こしたできごとに対して負う責任のことだ。「モノ」を生産するメーカーに適用される言葉だが、近年、いわゆるマスコミなどの情報産業についてもこの「製造物責任」が問われるべきでは、という声が高まってきている。

 この4月28日、NHKが放映したNHKスペシャル『奇跡の詩人』にまつわる一連の騒動などは、まさにこの「メディアの製造物責任」が厳しく問われている案件だろう。

 週刊誌などの報道でご存じの向きも多いだろうが、日木流奈君という生まれつき脳に重大な障害を持つ子供が、ドーマン法というリハビリによって文字盤を介して自ら意志を表明できるようになった、その「奇跡」を取り上げた番組だ。だが、「奇跡」は流奈君の意志によるものではなく、彼の手を介助する母親によるものではないかという指摘が相次いだのである。

 最初は「あの番組ってちょっとヘンじゃない?」という素朴な声にすぎなかったのだが、それでもネット上では放映されたその時から疑問がわき上がっていた。「夜の9時から番組が始まったんですが、15分過ぎくらいにはもうこの件についてのスレッドが立ってましたね。『おい、おまえら今すぐテレビ見ろ!』って感じで。それからはもうどんどん人が集まってきた」(あるネットワーカー)

 最近、事件がらみで何かと引き合いに出されることの多い巨大匿名掲示板「2ちゃんねる」の中の「実況板」と呼ばれるセクションに、リアルタイムでこの番組に対する違和感を表明する場(スレッド)が出来上がっていたの。そしてその後、この件について意見交換をするスレッドが、ネット上のあちこちに増殖してゆく。流奈君の病状やドーマン法についての資料収集、同じ疑問を抱いた者同士の連絡網の立ち上げなどなど、その広がり方はまさに星火燎原。医療や福祉の専門家なども含んだ「名無しさん」による「ネットワーク」の底力だった。

 とは言え、この段階ではまだ、騒ぎは主にネットの中だけのことだった。しかし、これらは徐々に具体的な行動を伴うようになる。

 その最初は、5月28日に大阪で行われた有志による番組ビデオの上映会だった。これはNHKが再放送しないことを早々と表明したのを受けてのこと。もちろん、テレビから録画したものを勝手に上映会に供するわけで、事前に察知したNHKの広報から主催者には著作権違反の警告ファックスが入ったのだが、これがまた火に油を注ぐことになって平日の午前中というのに20人近くも参加者が。続いて開かれたのは3日後、31日の札幌。同じくネット上で知り合った有志によって市内の民家や近所の幼稚園を借りて開かれた。この時、中心のひとりである医師「たらこ」さんによって、後に「札幌宣言」と呼ばれるようになる番組とNHKへの異議申し立て声明が出され、新聞や雑誌など各メディアにも送られた。

 そして6月2日、初の東京での上映会には一挙に120人以上が結集。さらに福岡、名古屋、仙台と同様の上映会が「名無しさん」たちの手によって次々と開催され、専門家も巻き込んだ「検証」も始まった。また、当の番組もビデオやCD-ROMなどに勝手に複製されて無料配布されていった。厳密には違法行為だが、NHKも黙認せざるを得なくなったようだ。番組を見てなかった人たちもこれで実態を目の当たりにし、騒ぎはさらに広がった。「やはりこれは詐欺だと思いますよ。かつて同じNスペでやらせが発覚した『ムスタン』(注=欄外)より大事件だと思います」

 そう話すのは弁護士の滝本太郎氏。氏はこれらネット有志の協力を得て『異議あり!「奇跡の詩人」』(同時代社)という批判・検証本を6月末に緊急出版した。発案からわずかふた月足らずで作った本だったが、書店ではすでに20万部売ったという「日木流奈」名義のベストセラー『人が否定されないルール』の横に並べられ、こちらも順調に売れ行きを伸ばしている。「NHKもさることながら、彼の本を出した講談社と大和出版、ナチュラルスピリット、英治出版は犯罪をやってると私は思ってます。だから、あれは詐欺商法だ、とはっきり書いたんです」

 ドーマン法自体、これまで問題が指摘されてきたリハビリ法なのに、それに対する批判的視点がない、だからこれからも妙な希望を抱いてしまう「被害者」が出てくるかも知れない――滝本氏はそう懸念する。

「番組のことは5月2日、ネット上の私の日記に初めて書き込んだんですが、ネットを見てまわったら同じように障害を持っているお子さんを持った親御さんの書き込みなどもすでにあった。改めて、ああ、これはやはり何とかしなきゃ、と思いましたね」

 週刊誌もこの問題を追撃する記事を載せ始めた。上映会も全国で続き、ついに8月14日には当のNHKのお膝元、東京・渋谷で「奇跡の詩人――疑惑番組の検証を!」というシールを張った団扇を配って世間に広くアピールするまでになった。これには滝本氏も参加、1000本あまり用意された団扇は、有志約40人の手で30分ほどで全部配り尽くされた。また、このイベントについては『毎日新聞』が有志のひとりに別角度から取材、彼がたまたま同時に関わっていた「従軍慰安婦」問題などの文脈で報道されたことをめぐり有志の間で激論が交わされるという、おまけまでついた。

「いろんな人がそれぞれの立場で参加してるだけで、特定の政治的立場などはない。なのに、具体的に何か行動すると必ずそういうイデオロギーで色付けされてしまう。右とか左とか、ネットじゃもうそういう図式は関係なくなってるのにねえ」(有志のひとり)

 既成のマスメディアの側もまた、ネット出自のこういう「運動」についてうまく報道してゆくためのスキルや距離感をまだ持ち合わせていないようだ。

 NHKにはこの件についての問い合わせが一時期殺到し、そのせいで対応も一気にマニュアル化されたものになった。さすがに最近では「だいぶ鎮静化しています」(NHK広報)と言うものの、一部では受信料不払い運動に飛び火する気配もあって、局としては神経をとがらせている。

 局内にも箝口令に近いシフトが敷かれているようだが、漏れ聞こえてくる声にはさすがに批判的なものが多い。

「Nスペなのにどうして、というのはありますよ。だって、普通の番組以上にチェックは厳しいはずなのに……」(40代の番組制作局デスク)

 この問題は、放送番組審議会でも取り上げられ海老沢勝二会長じきじきに答弁し、また、7月10日の宮城県議会では番組への共感を表明していた浅野史郎知事に質問まで出された。さらに、すでに有志の一部が国会議員に接触。秋には国会で正式な質問として取り上げあげられる可能性まで出てきているという。

 さて、これらの動きに対してNHKはどう対応しようとしているのか。

「私たちは6カ月にわたって流奈君を取材してきましたが、その過程で流奈君が母親がいないときに話した内容を、母親が戻ってきてから文字盤を通して話す場面をいくつも確認しています。母親が自分の考えを表現しているのではなく流奈君が自分の考えを確実に伝えていると確信しています」(NHKからの回答より)

 NHKでは山元修治チーフプロデューサーが矢面に立っており、5月11日の番組『土曜スタジオパーク』中で自身登場しての「釈明」もなされた。が、「確信している」「真実です」といったもの言いばかりで、疑問は解消するどころか逆にふくらむ始末。果たして誰が発案し、どういう取材・編集過程で、ここまで集中砲火を浴びる番組ができてしまったのか、そこが知りたい。そこで今回、本誌も広報を通じて個々の担当スタッフへの直接取材を申し込んでいたのだが、最終的に拒否された。

 そんな中、「自分で手をあげてNスペに企画を出した、ってことは、ここらで一発、という功名心があったのでは」(30代のディレクター)という声も内部から聞こえてきている。山元プロデューサーはサイエンス番組、番組制作を実質担当していた富岡亮ディレクターは青少年番組のそれぞれ出身とのことだが、金看板の「Nスペ」を担当することは、やはり異動や昇進の際の勤務評価に関わってくるという。さらに、この時編集を担当した松本哲夫氏は「Nスペを連発で手がけるような局内でも有名なベテラン腕きき編集マン」とのこと。何かの間違いで表に出てしまった番組などではなく、局としてゴーサインを出した勝負がかりの企画だったはずなのだ。

「いやあ、Nスペったって企画段階にはもっとヘンなのも結構ありますよ」(40代の管理職)

 そう一笑に付す向きもあるが、それらは通常、途中で厳重にチェックされて放映にまでは至らないわけで、だったらなおのこと、なぜこんな疑惑を招く番組が実際に制作され、何ごともなく全国放映までされてしまったのか、その間のNHK内部のチェック体制こそが今、問われている。それは「製造物責任」をメディア自身が自らに問う誠実さの問題に他ならない。

 当初から各地の上映会に足を運び、「名無しさん」たちの声に接してきた「善意の野次馬」たるあたしの眼からは、かつて薬害エイズ訴訟が問題になり始めた頃、小林よしのりのマンガ『ゴーマニズム宣言』の周囲に集まり始めた、当時の「名無しさん」たちに共通する正義感や誠実さを、良くも悪くも彼ら彼女は抱いているように見える。願わくば、あの「運動」のような末路をたどらないことを。そして、事件にならぬうちに誠実な対応を関係各メディアに強く求めたい。ことはまだ終わってないのだ。