辻元清美的なるもの、の考察


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 あまりに急にいろんな展開がありすぎて、追いかけるだけで息が切れる、というのが正直なところの、昨今の辻元清美がらみ、社民党崩壊過程のすったもんだであります。

 「ムネヲ」こと、鈴木宗男叩きの立役者にして、テレビや新聞・雑誌にやたらと顔を出す社民党の人気女性議員、だったはずが、今度は一転、政策秘書の給与をちょろまかしてたという疑惑が噴出、しかもそれが社民党ぐるみの可能性までささやかれるようになってきて、つい昨日までご自身が英雄気取りで糾弾していた「オヤジ」議員と同じ立場に立たされちまい、とうとう議員辞職。個々の問題以前に、まずそういう見世物の構造として、昨今の「政治」のありようからはわかりやすかったというのは、確かにあります。

 しかし、それ以上に、あの辻元清美という物件は、今のこのニッポンの政治を考える上で避けて通れないシロモノです。今回の問題にしても、古来腐るほど繰り返されてきた政治腐敗の問題としてだけとらえていると、「どうして辻元議員だけがこのタイミングで叩かれるのか」「自民党の仕掛けた社民党つぶしじゃないか」「ムネヲの巨悪の方が問題だ」てな、すでに噴出しているご都合主義丸出しな擁護論のぬかるみに足とられて、「観客」としては結局、「どっちもどっち」的な諦観でオチがつくのが関の山。

 なぜ、この辻元清美みたいな物件が、たとえ比例区選出とは言え国会議員にまで成り上がり、テレビその他のメディアの舞台に異常なまでの露出を繰り返していられたのか、ということについて、納得のゆく説明は出てこない。だからせいぜい「選挙民がバカなのだ」という最も安易な「衆愚」論に傾くしかなくなって、それはまた別の判断停止だったりします。

 ひとことで言うならば、辻元清美というのは、ありゃただの自意識肥大のバケモノで、目立ちたい、ええかっこしたい、というキモチだけが先走って本来の自分のありかまでわからなくなってしまった、単なる勘違い物件であります。そのへん、以前とりあげた田嶋陽子などと基本的に同じ。たいがいの世間は、あれでもまあ、社民党の国会議員サマだ、ってことで見る方がかなりゲタはいて見ているからよくわからなくなってるかも知れませんが、あんなもの、ありていに言ってただの「ヘンなシト」に過ぎません。ほんとはこの「ヘンなシト」の部分を表現するのにこの上なく的確でドンピシャリなニッポン語のカタカナ四文字があるんですが、さしもの『正論』編集部にさえもサベツ語だなんだと言われるので泣く泣く自粛させていただきます。どうかご賢察下さいまし。

 ことあるごとにテレビカメラの前に登場し、脊髄反射のようにポンポンと思ったことを深い考えもなく言い散らかし、慣れてくりゃきっちりカメラ目線までかましていろんなことをしでかしてくれる。メディアに露出して「見られる」ことでなけなしの自我を、まるでイソップのカエルよろしくどんどん膨らませてゆき、とうとう自分でもどうしていいかわからなくなってしまった、そんな「自分」についての身じまいの悪さ、常時垂れ流しな自意識のだらしなさによってもたらされる気色悪さは、また格別です。

 しかし、であります。それは、辻元清美個人のモンダイである以上に、かの社民党まわりの構造的ビョーキであり、さらに言えば、いまどきのニッポンの「政治」をめぐるある種の風土病みたいなものではないかいな、と。だから、これを「辻元清美的なるもの」とひとまず広げて考えることで、田嶋陽子だの福島瑞穂だのの社民党の「マドンナ」(ああ、けったくそ悪い)たちに共通しているあの独特の気色悪さや、いや、何も社民党に限らず、いまどき「政治」の場にうっかりと跋扈するようになっている、これまでの政治家たちとはちょっと違った「ヘンなシト」物件一般を、所属政党だの出自背景などとはひとまず別の、ある共通の土台で考えることができるはずだ――あたしゃそう思っています。


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 そもそも、辻元清美とは何者か。いまさらここでいちいちあげつらうまでもないでしょうが、ひと通りおさらいを。

 公式資料によりますと、一九六〇年(昭和三五年)四月二八日生まれの、当年とって四三歳になったばかり。ってことは四緑木星の庚子。手もとの高島暦では今年は裏鬼門、後厄年の「渋滞運」で、「ただがむしゃらに無理をして働くのではなく、しっかり目標を定め、すべき事を滞らせずにこなす事が大切なのです」と諭されておりますが、今回の顛末を見る限り、どうやらムダでしたな。 

 「奈良県生れの大阪育ち。繊維不況などで父の商売が倒産、転校をくり返し、不登校ぎみだったが、小学3年生で高槻市立如是小学校に転入、N先生との出会いで不登校から学校大好きに変身。現在、実家は立ち食いうどん屋」(公式ホームページ『清美するデ!』より)だそうです。

 以下、かいつまんで記しますと、「八三年、早稲田大学教育学部在学中、民間国際交流団体「ピースボート」を設立。交流や援助活動でのべ2万人の若者を組織して60か国以上を訪問。九二年、国連主催地球サミットに参加。九五年、阪神・淡路大震災時にはボランティア・コーディネーターとして活動。ボランティア活動から国会へ。九六年、土井たか子党首の要請で近畿ブロック比例代表から立候補し、当選」ってのが、社民党所属の「元気印」(ああ、恥ずかしい)女性議員として永田町でブイブイ言わせるようになるまでの経歴であります。

 あたしよりひとつだけ年下。ってことはまさに同じ頃、早稲田に巣食っていやがったわけで、確かに、この辻元清美なる名前は当時から結構耳にしたり眼にしたりしていました。

 ピースボートというのは、何も知らぬ若い衆をチャーターした船に放り込み、あちこちを経巡りながら「市民」主義、リベラル思想に洗脳するためのイベント旅行企画でありました。で、そういう企画が商売としてそこそこうまくいくくらいに、「市民」主義の「運動」が当時、ある種のレジャーとして消費されるようになっていた、と。後にはこのピースボートを、NGOだのNPOだのと言い出してさらに実態を糊塗しようとしてましたが、その本質はちょっと変わったベンチャー系旅行企画屋&学生向けイベント屋、みたいなもの。政治がらみの集会を企画といっても、当時すでに学生運動はほぼ雲散霧消、「パンとサーカス」ならぬ「飽食とサブカルチュア」の80年代状況が出現し始めて、政治もまたサブカルチュアとして等価に消費できるようになっていた。なるほど、ピースボートの看板は確かに辻元清美でしたが、だいたいどこの誰がたかだか女子大生一匹にそんな資金を提供したのか、当時からその背後にかつての新左翼セクト系人脈や、さらにはそれらを介した北朝鮮との関係までが取り沙汰されていました。それがここにきて、ようやくメディアの舞台でも表立って触れられるようになったのは、その程度に「辻元清美的なるもの」の周囲によどんでいたある種の「タブー」がやっと解かれた、ということなのでしょう。

 このピースボートの企画にホイホイ賛同、ズルズル翼賛(彼らの好きな用語ですが)していった文化人、学者、ジャーナリストなどは、当時から山ほどいます。「水先案内人」と称する勧進元にまず、かの筑紫哲也石坂啓灰谷健次郎、湯川れいこの四人。さらに、公式に名前を出してシンパを自認している向きにはこんな方々がいらっしゃいます。

石川文洋[報道カメラマン] ・石坂啓[マンガ家]・板垣雄三東京経済大学教授]・河内屋菊水丸[新聞詠み河内音頭家元]・伊藤千尋朝日新聞記者] ・鎌田慧ルポライター]・木村晋介[弁護士]・金田喜稔[サッカー解説者] ・手塚眞[映画監督] ・加藤登紀子[歌手]・岡本三夫[広島修道大学教授] ・ヤスナ・バスティッチ[ジャーナリスト]・ザ・ニュースペーパー[コント集団] ・田中優[環境問題専門家]・高橋和夫放送大学教授] ・ソウル・フラワー・ユニオン[ロックバンド]・立松和平[作家] ・長倉洋海[フォトジャーナリスト]・チャールズ・オーバービー[オハイオ大学名誉教授] ・河辺一郎[国連研究者]・広河隆一[フォトジャーナリスト] ・前田哲男[軍事ジャーナリスト]・ヨハン・ガルトゥング[オスロ国際平和研究所創設者]・井川一久[元朝日新聞編集委員] ・緒方憲[法政大学名誉教授]・吉田ルイ子[カメラマン] ・リカルド・ナバロ [「地球の友」代表]・千田善[旧ユーゴ問題専門家] ・湯川れい子[音楽評論家]・藤井誠二[ノンフィクションライター] ・古澤敏文[映画プロデューサー]・桃井和馬[フォトジャーナリスト]

 これ以外にも、名前は出ていないものの、航程の一部だけ乗船したり、その主催イベントに顔を出した程度ならば、浅田彰上野千鶴子鴻上尚史などもあげられるはず。その他、薄いシンパくらいまで広げれば、もっとその範囲は大きくなるでしょう。結構、根は深いのであります。

 「水先案内人」のひとりであり、ごていねいにシンパとしても名前を出している石坂啓などは、手塚治虫の最後の愛弟子、てなふれこみで一時期それなりに売れっ子だったのですが、その後はマンガ描きよりも「市民」運動系の方がおもしろくなったのか、ピースボート系の集会などによく顔を出してました。それどころか、つい最近も大橋巨泉佐高信などのめんめんと一緒に、辻元センセを擁護するアピールなどされてたり、そのへんまだまだ現役のようであります。

 少し前、この石坂の書いた『赤ちゃんが来た』(朝日新聞社)という本などは、子育て本として数十万部のベストセラーになり、沢口靖子主演でテレビドラマ化までされたものですが、その「あとがき」にしれっと空恐ろしいことが書かれているのを、あたしゃ以前、ここ『正論』誌上で指摘したことがあります。

 「女の時代」という一章がある。自分の母親から自分、そして息子と三代にわたる日記というかたちを借りてオンナと妊娠・出産がらみの時代相の違いを描く、という趣向だが、二〇三〇年、息子の未来の嫁が書いたという設定でこんな一節がある。

    • 「私は同世代の夫と別姓・別居結婚をしている。夫はモト漫画家という母親と、今年百歳になる祖母と三人で暮らしており、私は今年産まれた赤ん坊と一緒にいる。夫と赤ん坊の三人で住んでもかまわないのだが、会社の休暇、施設、ベビーシッターなど、ある程度育児条件は整ってるから、私は一人であることに不自由がない。マザコン気味の夫やその家族といるよりは、よほど気が楽だ。もっともこの時代、男たちはすっかりおとなしくなってしまった。エイズの蔓延で性意識は昔と変わり、「女とやりまくる」恥ずかしい男たちはほとんど姿を消した。プラトニックラブストーリーがもてはやされ、ゲイやインポの男がひっぱりだこ。さまざまな環境汚染に生き残った率も圧倒的に女のほうが高く、かつて男たちが横暴であった時代は反面教師的に語りつがれている。世の中は平和である。」

 そして、こうのたまう。

    • 「息子は将来の世界のことを考えて、十二歳くらいで去勢させようと夫と話してる。去勢はこのところちょっとした流行だ。『地球にやさしい』ってやつである。」

 血の気が引いた。これってナチス優生学じゃねぇか。シャレのつもりかも知れない、と思ったが、文脈からするとそうでもない。考えたくないがこやつ、マジらしいのだ。
――「批評スクランブル」『正論』九六年一月号

 こんなとんでもないことを平気で書き散らすような神経の持ち主が、「市民」を自称し、「リベラル」を語り、「女性の権利」を主張し、そして辻元清美の有力な取り巻きのひとりでもありました。ちょうどこの頃、辻元はめでたく初当選、国会議員になるわけで、その意味ではすでにこれらピースボート系のノリはメディアの舞台でもある種公認されるようになっていました。その一方で、歴史教科書問題に象徴されるような健康なナショナリズム失地回復の動きも盛り上がってきて、サヨク対保守、という図式での対立が改めて顕在化してきたのもこの頃からです。

 けれども、間違ってはいけない。それは「戦後」の言語空間を通じて連綿とあり続けている、右対左、保守対革新、といった「政治」とそれにまつわる事象を解釈してゆく際の自明の図式と、現われとしては連続しているように見えて、しかしその内実は明らかに別のもの、ある不連続をはらんだものです。

 確かに、もの言いとしてそれら、右対左、という図式に乗った言説は今もあります。ありますが、しかしそれらのもの言いを支えている気分やノリといったものをつぶさに観察すれば、かつてのようにもの言いと自意識、言説と自我とが単線的に対応しているようなものではないことがわかります。ことばは同じでも、発言する内実がまるで違っている。

 たとえば、かつて「戦争を知らない子どもたち」という歌が流行りました。もう三十年以上前、今の団塊の世代がまさに「若者」だった頃です。「戦争を知らない」ということ、その一点だけで何か世代的連帯感を持つことができた、そんなものたまたまそういう世代に生まれてしまっただけで自分が刻苦して獲得したものでも何でもないのに、ただそういう世代性だけで自分たちの存在に開き直ることのできた同時代、というのが確かにあったらしい。けれども、そういう同時代気分から、そういう「若者」であることに居直ったノリ、そういう根拠なき特権の感覚だけが刷り込まれてしまった結果、時代が転変してもなお、メディアの現場や大学といった〈いま・ここ〉の状況と身体を張って関わらなくても別にいいような場所に、それらの形骸だけがその後も色濃く残留してしまった、ということです。

 かつての民俗学の理屈で言えば、まさにこりゃ「残存」文化。すでに役立たずになっているにも関わらずなんとなくそんなもの、ってだけで日々だらだらと続けている習俗慣行、てなもんで、それこそ「民俗」そのものであります。

 そう、「辻元清美的なるもの」というのはそういう意味で、高度経済成長以降のこのニッポンの、メディアを介したところで表現される「政治」についての最大公約数の「民俗」、なのかも知れないのです。


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 この「辻元清美的なるもの」が、果たしてどのような要素で成り立っているか、ざっとスキャンしてみましょう。

「若者」であること

    • 生物年齢的に若い、ということだけで特権的な立場にいられる、というのは、三十歳以上は信用するな、と言った、かつてのカウンターカルチャー世代のノリそのまんま。「若さ」が常にプラスの価値として称揚されるようになったことの反映です。


「個人」であること

    • これも単に生物的な意味での個体ではなく、「組織」や「しがらみ」「束縛」などの対極にある「個人」ってことで、その意味で次の「自由」と貼り合わせになっています。これによって、それが企業であれ役所であれ、既成の「組織」ならばなんでもかんでも「個人」を抑圧するいけないもの、という立場に立つことができます。このへん、かつての「党」批判の脈絡や、「家」の否定などにも通じるところがあります。


「自由」であること

    • 前の「個人」であることと、これはセットです。といって、社会的存在としての自分の置かれた状況から個々に獲得してゆくものというよりも、むしろ「個人」であることがそのまま「自由」である、といった、実に都合のいい天賦人権説(笑)的な認識になっているのが特徴です。


さらに「オンナ」であること

    • 生物的な意味での女性であることだけでなく、たとえ男性であっても、いわゆる「フェミニズム」的な思想に理解を示せる、というところまで、これは拡張されています。実際、何かの免罪符のように「フェミニズム」系のもの言いを競って身につけたがるのは、インテリ志向の若い世代のオトコの子に最近とみに顕著。ここでも、その対極にイメージされているのは「オヤジ」であり「大人」であり、いずれ今ある既成の制度すべて、であります。

 その他、エコロジー方面に理解を示す身振りや、地方自治の伸長を主張、異文化理解をヨイショするなどの補助的要素を適当にトッピングすればさらに完璧。それはもう見事に「辻元清美的なるもの」に同調できる自意識の完成です。政治家であれ評論家であれ、はたまたテレビのニュースキャスターであれコメンテーターであれ、およそ前提として抱えているのはこのような自意識です。つまり、それによっていまどきの「政治」を語る「民俗」の内懐に抱かれ、余計な抵抗なくその場を流してゆくための処方箋を手に入れられるわけで、メディアの舞台を介して語られる「政治」のもの言いのほとんどがこれらの要素の上の順列組み合わせになっているのも、なるほど、ある意味では必然かも知れません。 これらは、思いっきりずさんにひとくくりにすれば、「ネクタイしめたオヤジ」を否定していった果てに浮かび上がる幻影であります。永田町の文脈ではそれは、「自民党」的なるもの、に重ね合わされ、当然のようにそれは常に「批判」の対象になる、と。もはや野党の結束するための旗印は「非自民党政治」でしかなくなっているわけですが、しかし、当の内閣自身がそれら「自民党」的なるものを「抵抗勢力」と言っていることと、それは構造的に全く同じです。与党も野党も「政治」の場すべてがこのような図式、このような構造に巻き込まれている。「辻元清美的なるもの」はそのような構造の、最も究極の発現に他なりません。

 なにしろ社民党ときたら、以前にとりあげた田嶋陽子センセは言わずもがな、福島瑞穂幹事長以下、中川智子原陽子北川れい子と、まあ、よくもここまで揃えたなあ、と感嘆するくらいにタマが揃っておいでです。これらの多くを揃えたのが、昨今取り沙汰されている土井たか子の腹心秘書、五島昌子なる御仁だとまで言われていますから、この「マドンナ」戦略、確信犯であります。

 中川智子センセというのは、大橋巨泉センセが国会議員を辞めるという記者会見の折り、辻元センセや保坂展人センセらと共にその周囲に立ちはだかり「辞めないで!」と涙目で絶叫していた、橋田寿賀子福田和也かというふくよかなオバサマであります。このオバサマも、しかしその「ヘンなシト」具合は相当のもので、去年出版された自著ではご自身の性体験なども含めて委細詳しく告白(カミングアウト、ですかね)しておられます。その中身があんまりすごいんで週刊誌ネタにもなりましたし、ネット上ではもうあちこちにバラまかれてある種有名なのですが、ご参考までにさわりだけ。

 ファーストキスは沖田くんと、ファーストセックスは伊藤くんとしよう、と決めたのは中学三年の時だった。 沖田くんとは話もしたことがなかったけれど、さわやかな笑顔に一目惚れして、彼とキスするシーンを空想しているうちに、必ずや、と思うに至った。


 伊藤くんとはクラスが同じで、いつもふざけあっていたのが、ある日突然、といった具合に恋心が芽生え、よーし私のバージンはこの人に、と決心した次第。沖田くんも伊藤くんも、私のことをどう思っているか、それはわからなかった。


 夢見心地で二週間が過ぎた頃、私たちは自然に唇を合わせた。嬉しかったけど、「ああ、とうとうしちゃった」と力が抜けたようでもあった。それからは、毎日キス。あの頃のキスは、ディープではなかったような気がするが、ただくっつけるだけでもなかったし、どんなキスをしていたのか思い出せない。


 しかし、上から下へ愛撫がいくのは必定。日を追うに従い、背中に回った手が胸の方にのびてきたり、お尻に動いていったり。オッパイもみもみくらいはいいけど、バージンは伊藤くんに置いておきたいから、お尻から前の方に手がくるとイヤイヤしていた。

 ああ、もう、こうやってご紹介していても恥ずかしさのあまり即座に切腹したくなるようなシロモノですが、こんなものが国会議員センセイのご著書に得々と語られているのであります。

 たとえ国会議員であっても、彼ら彼女らは自分自身がその「政治」の場でどういう立場を具体的にとり得るかについて、親身に想像することはない。万一、自分が責任ある地位についた時に、どのように対応するのかについての忖度もできない。永遠の批判者、無責任のまんま、たとえ頭は白髪交じりになり、更年期を迎え、顔に老人性のしみさえ浮かぶようになっても、意識はなお「若者」であり、あらゆる社会的しがらみから先験的、かつ特権的に「自由」である「個人」という妄想にとらわれたまんま、というきわめて醜悪で無責任な物件が出現します。たとえば、こんな具合に。

 私のやっている仕事はニュースキャスターと言われておりますが、それは世論に対して大変な影響力があるという人がいます。大抵その後に「だから言うことを慎め」というのが付くわけですけれども、私自身はそれほど影響力があるという実感を持ったことはありません。

 誰あろう、『ニュース23』の筑紫哲也サンであります。それもご自分のコーナー「多事争論」で堂々とこんなことを全国ネットの電波で平気でのたまうんですから、こりゃもう立派な「ヘンなシト」、さすがカミさん名義とは言え、辻元清美センセに多額の寄付をされていただけのことはあります。

 この発言は、昨今論議の的になっている「メディア規制法案三点セット」に関してのものですが、これについても筑紫サン、「メディアがそういうことを言われてもしょうがないいろんな問題を抱えていることは確かでありますが、端的に言って今度の問題は、その中で政治家や官僚とメディアとどっちを取るのかという部分があります」と、「権力」対「メディア」という単純な図式でしか理解していません。この「メディア」というところに、先の「若者」なり「個人」を置き換えてもらえれば一目瞭然。当代を代表するニュースキャスター殿の自意識も、何のことはない、好き勝手に「権力」=「大人」に反抗して「批判」だけしてりゃいい「若者」、そのものだったりするわけです。 こういう御仁が永年「ジャーナリスト」の看板を張れてきたのも、まさに「辻元清美的なるもの」が、メディアを介した場所に浸透していたことの証左であります。

 このように、いつまでも「若者」のままでいたい、そして「権力」=「大人」に「反抗」して「批判」だけを続けていたい――こんな妄想がこのニッポンの、しかし、どうやら予想以上に広い範囲に蔓延しているようです。

 思いっきり刈り込んだ言い方をすれば、「好きなことだけして暮らしてゆければいいなあ」ということですが、これは、それこそ夏目漱石以来の高等遊民願望で、それ自体がまさに近代の生んだものだったりする。しかし、それは願望であり夢であるからこそ、一定の役割も果たせるはずで、いきなり誰もが何の努力もなしに現実化できるような代物でもない。昨今の若い世代のフリーター増加現象などにしても、経済的要因だけでなく、その親たちの世代からこれら「若者」幻想、サブカルチュア礼賛の気分がうっかりと正当化されたままできたことのツケのように、あたしなどには見えます。

 「若者」が「元気」に「自由」に「好きなこと」を「頑張ってやる」――これだけ要素が揃っていれば、なぜかたいていのことはお目こぼしでありました。それは、かつての大人たちにそれだけ器量があったということ以上に、あの戦争を敗けた大人たちのうしろめたさの裏返しというところもあったはずです。かくて、「若者」であることは、ただそれだけで無膠の存在、絶対の正義として認められることになりました。民俗学歴史学の方では、近世後半のある時期から、ムラの中で若者組の発言力がどんどん強くなり、年寄りたちの言うことをきかなくなっていった時期があると言われていますが、何かそれに近い既成のモラルの変動を眼のあたりに眺めているようにも、あたしは感じています。

 先にあげたピースボートのシンパたちの中にも、その程度の気分で名前を貸した大人が混じっているはずです。それは、若い衆の文化祭にカンパする気分に近かったのでしょう。何か知らないけど若いもんが頑張ってやってるから、というだけで名前を貸す。それ自体は善意であったのでしょうが、しかしその結果、「辻元清美的なるもの」はどんどん肥大してゆき、その文化祭のようなノリのまんま、国会議員にまで成り上がってしまった。サブカルチュア的なノリを制御する知恵のないままに野放しにした結果、えらいことになった、という意味では、これはあのオウムなどともよく似ています。

 朝日新聞に代表されるマスメディアのサヨク偏向批判なども、最近ではかなりおおっぴらにされるようになってきました。けれども、本当に問題なのは、もはやマルクス主義イデオロギーでもサヨク思想でもない、それより前に、「若者」とサブカルチュアに異様にヨワい、まっとうな批判力が働かない、というその一点こそが、実は、朝日新聞からニュース23に至るいまどきのメディアのある部分に強固に巣くうビョーキの本態である、と、あたしゃかねがね思っています。

 議員辞職を表明する記者会見の場で、いつになく顔面蒼白、うつろな眼つきで報道陣に取り囲まれていた辻元センセは、「(国会議員として)もっといろいろ質問したかった」とおっしゃってました。語るに落ちるとはこのことで、まさに辻元清美にとっての「政治」とは、そのように「質問」すること――言い添えれば、テレビカメラのまわっているの前で目立つように「オヤジ」に向かって、永遠の「若者」ぶりっこで「質問」してみせること、だったのでしょう。ご自身でも、国会での質問は百回を超える、と自慢してらっしゃったようですが、政治家としてやりたかったことの第一に、この「質問すること」がつい出てきてしまうあたりが、もう、何ともトホホであります。何よりあなた、もう四三歳、中学生や高校生の子どものひとりやふたりいて全く不思議のない、立派な中年のオバちゃんじゃないですか。いつまでも「若者」の自意識のまんま、メディアに映る自分の姿にうっとりと見とれているうちに、ほんとの生身の自分自身のありかさえわからなくなってしまった、

 そういえば、今から七十年あまり前、ある無名の労働者のひとりが、こんなことを言っています。

 まあ俺達が始終モヤモヤした空気に頭を抑えられて居て掴みのない、ウットウしさを感じて居るのと同じ様な気持ちを皆感じて居るんだと思ふんだ。つまり皆漠然とした行き処のない、何とかしなくちゃと云ふ気持を持って居るんだと思ふ。それの一番の率直な形として……(十七字除)……。此の間の選挙で無産党が思はぬ大勝をしたのもやっぱりさうだと思ふ。全く違った方向に而も全く違った形で表はれて居るけれどもそのもとは同じだと思ふ。俺達始めさうなんだけど皆もやっぱり自分達の気持をどんな形で表はしたらいいのかわからないんだと思ふね。だから、このモヤモヤした空気を吹き飛ばしてくれるなら、それが誰であらうと俺達はかまはない快哉を叫ぶね。

 彼らのような、言葉本来の意味での労働者、恒産なき常民の味方であったはずの政党が、それから七十年あまりの後、どのような臨終を今、迎えようとしているか、彼らは果たしてどのように見ているのでしょうか。

*1:サブタイトル……---社民党を滅ぼし、マスコミまで浸食した、その謎